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あなただった、かもしれないわたし #読書の秋2020

数年前、私が定期的に参加していた読書会のクリスマスパーティーで、この本「目の見えない人は世界をどう見ているのか」をはじめて見た。

思い思いの本を持参して、プレゼント交換するのが恒例で、パーティーの目玉企画の一つだった。私はどうしてもその本が欲しいと思ったけれど、フォークダンス方式で回っていったその本は、私の手を素通りし、別の人の手の上でとまった。タイトルをメモっておいたけれど、そのメモにはすでに沢山のタイトルが殴り書きしてあるし、積ん読は自己増殖を続けている。私はこの本の存在を忘れてしまった。

課題本にこの本のタイトルが挙がっていたのはチャンスだと思った。今回を逃すと、この本と出会った私になれなくなってしまう。


見えない人と見える人は、もう少し近くてもいいんじゃないか、お互い、見える人、見えない人になりきることは出来ないけれど、主に対話によって、見えない人がどういう世界で生きているのかを探り、頭の中で「変身」してみよう、そして、双方の人生の向き合い方を考え直せないだろうかというのがこの本の試みだ。

本の最初の方で出てきた、小学校くらいで失明した、木下さんの言葉が印象的だった。

「だんだん見えなくなってくると、みんながぼくのことを大事に扱うようになって、よそよそしい感じになって、とてもショックでした」

見える人が見えない人に接するとき、福祉的な視点、こちらが情報を提供しよう、施してあげようという視点になりがちだけれど、それは関係を固定化し、見えない人を遠ざけることになりはしないか。福祉的視点は必要なのだけれど、情報を(主に見える人が)提供するというやりとりだけではなく、もっと個別的、意味的なやりとりが出来ないものか。

目の見えない人の世界の感じ方は、とても興味深い。視界が真っ暗なのは、心細くて不安で、不便ではないかというのが一般的な印象だ。確かに不便だし、特に中途失明した人はしばらく情報に飢えたようになるらしい。

けれど、それは余白でもある。

見える人はコンビニのキャンペーンを見て刺激され、余計な物を買ってしまう。視覚刺激によって忙しくさせられているのだ。見える人は、目から入る情報に気をとられて、歩いている道、乗っている電車の微細な変化を詳しく感知することはない。だから世界を俯瞰的に捉えることが逆に出来にくいし、電車が急ブレーキをする時、よろめきやすい。果たして不便なのはどっちなんだろう。

そもそも、見るってなんなんだろう。見える人が見えない世界を体験しようと、真っ暗闇を人に支えられながら歩くとき、私たちは足で見て歩いている。目で見る、耳で聴くといった、使っている器官と機能は対になっていると考える必要はないのではないか。

印象派の絵を見て、見える人が「これは湖です」と見えない人に説明したけれど、実は野原の絵だった。実際には湖と野原を見間違えることはまずないけれど、印象派の切り取った世界では、草花が咲き乱れる野原と、水面がきらきらと反射した湖は、ともすると似てくるし、見える人が常に正しい訳ではない。でもそれはあながち間違っているともいえない。見えない人にこの絵を説明するのに、「湖っぽい野原の絵です」と表現すると、おそらく印象派の絵の特徴をしっかり伝えられることになる。


読んでいる間、ずっと横っ面を叩かれていた気分だった。爽快だ。

文中では絵画鑑賞全般について「鑑賞とは、自分で作品を作り直すこと」と表現されていた。応用すると、生きるとは、自分で世界を作り直すこととも言えるのではないか。一見遠く見える隣人、見えない人の世界の切り取り方を知ることによって、その対比として、自分の世界の切り取り方の特徴を知ることが出来る。「こういう制約を勝手に課していたな」とか、「自分が欠点やこだわりだと思う点も、ひっくり返してみたらちょっといいものかもしれない」と思えたら、思い通りにならない日常を少し楽しめるようになるのではないか。そんなことを思った。


これは見えない人と見える人だけではなく、男性と女性、若者と老人といった、立場の違う者同士の相互理解にも役立つのではないか。特に男性と女性は、双方ともに健常であれば、同じ人間・労働者・家庭人として捉えられやすく、物事の感じ方の違いや、社会的な抑圧の受け方の違いについては見過ごされていることが多い。パイの取り合いの関係でもあるから、どちらがより被害者かという不毛な論争に陥りがちで、本文のように「そっちの世界は面白いですか」というようなフラットな視点で対話するのは、現状かなり難しいという印象を受ける。

男性であること、女性であることという所与の条件は変えられないし、自分が女性に、あるいは男性に変わってみることはできない。よく男女間の壁だと揶揄される例として、これから子供を持つ夫に妊婦ジャケットを付けてみる体験が挙げられる。これは、女性は妊娠中Xキロ体重が増えるという情報に基づく体験にすぎず、妊婦が見ている世界を意味的に説明していることにはならない。見える、見えないという生理と、妊娠という障害とはいえない生理を並列して論じることは、少し本論とはズレるのかもしれないが、男女においても、自分の知らない世界の見方について、情報ベースではない歩み寄り、対話の形が取れるとお互いが生きやすくなるのではないかと思った。


文末に「ちゃんと変身できましたか?」という問いかけがあった。正直、一回読んだだけではちゃんと変身できたとは言い難い。ジェットコースターに乗っているのが精一杯で、脳みそをかき回されたという感じがするだけだ。けれど、私の脳みそは「またこんな風にかき回されてみたい」と思っているみたいだった。私はこの本を再読リストに入れた。

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