書評 『首里の馬』高山羽根子
今年初めての読了は『首里の馬』。
年末に読んだ本に、「世界SF作家会議」というものがあったのだけれど、その最終回に高山さんが出演していて(本はフジテレビの番組の書き起こしである)、皆に口々に「あー高山さんは生きているだけで奇跡みたいな人だから」と変人扱いされていて、そんな人が書く文章ってどうなんだろうと思ったのである。名前は知っていても、読んだことのない現代作家はとても多い。
『首里の馬』は、なかなか世間とうまくやっていけない主人公が、世間から取り残されたような資料館で仕事とも手すさびともいえない作業をしたり、怪しげな通信の仕事をしたりする話だ。全体的には面白かったのだけれど、今の純文学ってこんな感じということも思って、少ししょんぼりもした。
『こちらあみ子』あるいは『むらさきのスカートの女』を読んだ時も感じたことだけれど、純文学の作品には、どこか浮世離れしたような、普通の世間では到底うまくやっていけないような主人公がよく登場する。全員がそうではないと思うが、その多くが、筆者の性格を多少なりとも投影しているのだと感じる。だからって、それら全部を私小説だと言いたいわけではないのだけれど。
昔はいざ知らず、現代は「書く人」「書かない人」という分業化、あるいは分断が進んでいるのではないかと思うことがある。文壇が小さい村になっているともいえる。資本主義社会にどっぷり漬かり、また順応している「書かない人」にとって、「書く人」の文章はどうもピンとこないんじゃないだろうか。「書く人」の性格が、「書かない人」にはうまく理解できないように。また、「書く人」が、世間にうまく順応できないように。
noteなど、人が文章を書いて発表する場は増えているのだから、そんな分業化は起こっていないのではないかとか、「書かない人」の定義を答えてみろ、と言われると困るのだけれど、ここで言う「書かない人」とは、純文学の外の人、と思ってもらえると分かりやすいのではないかと思う。作家その人のエッセンスを振りかけられた、純文学の変な主人公や変な登場人物は受け入れられず、結果、売れない、というループが起きているのではないだろうか――文学は崇高なもんだなんてふんぞり返っている間に、なんてことを思うのである。
もちろん、私も同じ穴の貉で、そんなきもちわるい私が書く意味はあるのかと思ったり、書くことに後ろめたさを感じたりすることが多いのだけど。また、それでもなお先が気になる、主人公の心持ちが気になるという作品はあるのだけれど。
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