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舞い躍れ、私の心

「あいたっ」
 水色のサテン生地の表面がつらないように慎重に針を進めていたら、左の中指の腹を刺してしまった。私は血で汚さないよう、慌ててティッシュで指をぬぐった。

 私は体育祭の対抗創作ダンス用の衣装を縫っているところだった。設計図通りに縫えば、逆三角の大きな襟とミニスカートというチアリーダーを模したものが出来上がる予定だった。

 対抗創作ダンスは、うちの高校の体育祭の目玉企画だ。二クラス一チームになって、ダンス班と応援旗班に分かれる。ダンス班は運動部の子やクラスの中で目立つ子が手を挙げる。別に地味な子がやりたいと言ったっていいんだけど、なんとなく「え、お前がやるの」みたいな雰囲気になるから、大抵は応援旗班に回る。どうしてもダンスをやりたい子は最後の方におずおず手を挙げる、そんな感じ。応援旗だって先生方が細かく採点して、上位三チームは表彰されるのだけれど、やっぱりダンスの華やかさには敵わない。

 今年は集大成の三年生。例年、各チーム並々ならぬ気合いを入れて体育祭に臨むのだ。

 だから、なんで私が今衣装を縫っているのか全然分からない。私は一年も二年も応援旗班で、今年もそれでいいと思っていたのに、私のクラス、三年二組は「高三の秋なのに体育祭なんかに力を割けるか」という考えの人ばかりで、去年まではすぐに埋まるダンス班の数が埋まらなかったのだ。

 私が今年応援旗班の方が良いと思っていたのにはもう一つ強い理由があった。私の好きな人、戸川くんが応援旗班に回ったからだ。彼は他の人とは事情が違って、応援旗で一位を取るという夢を実現させたいのだという。彼は陸上部の元キャプテンでありながら、学内でも有名な手芸男子だった。私も少し手芸に覚えがある。同じ応援旗班なら少しは話す機会も増えるだろうし、たとえ付き合えなくても、彼の夢にひと針の手助けができるならそれだけで満足だなと思っていたのだ。

 それなのに。それなのに。

 情けないことに、私は先週から始まったダンス練習で皆の足を引っ張ってばかりだった。私のポジションはすぐに教員席から一番離れた角に決まった。うん、私の扱いなんてそんなもん。せめてチームに貢献しなくてはと、衣装デザイン役に手を挙げたのだった。

 翌日、出来上がった見本を学校に持って行き、ダンス班リーダーの鏑木さんに見せた。でも彼女は「へぇー」と言っただけで良いとも悪いとも言わない。きっと私のダンスが余りにもまずいから…私は逃げ出したくなったが、そこに戸川くんがひょいと顔を出した。

「これ、一人ひとり自分で縫うんでしょ?縫うのが難しい曲線を少なくしてあるし、ダンスの邪魔にならないように肩回りに余計な布がないし、いいんじゃない?」

 鏑木さんは表情を緩め「確かにね。皆で決めたチアリーダーの雰囲気は出てるし。じゃあ今日の練習で皆に見せてみよう」と言い、選択授業の教室に行ってしまった。助け舟を出してくれた戸川くんにお礼を言いたかったけれど、彼もまた涼しい顔をしてさっさと教室を出てしまった。

 やっぱり私、鈍だなあ。

 戸川くんに一言お礼を言いたくて、その日一日中私は彼の後ろをそれとなくついて回った。でも彼は常に誰かに囲まれていて、私が話しかけられるタイミングを見つけられなかった。言いたいことをずっと抱えているのはそわそわする。やっぱりあの時にさっとお礼を言えばよかった。

 次の日、四時間目が突然自習になり、クラスメイト達は歓喜の声をあげた。早弁を食べ始めたり、隣のクラスに咎められない程度の雑談をしたりする子達と、ここぞとばかりに受験問題集を鞄から出して勉強し始める子達の中に戸川くんの姿はなかった。

「あれ?全員居なくない?」

 隣の河西ちゃんにさりげなく聞いてみる。

「誰か図書室とか行ってるのかもね」

「そっかー図書館の方が静かだよね、私も行こうかな」

 その言葉を待っていたかのように、私はそそくさと荷物をまとめて廊下に出た。一組の教室からは学年主任・加藤先生の嗄れた声が、三組からは山下先生の流暢な英語が聞こえてくる。図書室には一組の前を通った方が近いけれど、私は回り道をすることにした。

 やはり図書室に彼は居た。授業時間とあって幸い他の生徒は誰も居なかった。完璧な形のチャンスだった。彼は自習用のテーブルが幾つか並んでいる列の、一番手前のテーブルに座ってシャープペンを動かしていたけれど、私が図書室に入った直後、目が悪くなるよと突っ込みたくなる位に俯けていた顔を上げた。

「おっ」

「う、うす」

 なんて気の利かない返事だろう。まさかこんなにすぐ会話が始まるとは思わなかったのだ。バリバリの帰宅部なのに何キャラだよ、と自分に突っ込みを入れる。

「黒木さんがここに来るとは思わなかったな」彼は、自習時間中に教室を出てはいけない決まりになっていることを言っているのだった。

「えっと、教室が騒がしくて、とても勉強する雰囲気じゃ」

 彼はわかるわかる、といった風に頷いて「僕は常習犯だけど、今まで誰にも咎められたことないから安心して」と言った。私が初めて教室を抜け出したことを見抜かれているようで恥ずかしかった。

「そういえば、こないだはありがとう」

「え? 僕なんかしたっけ?」

 彼は全く覚えていなさそうだったので、自分だけが大ごとに捉えていたことが分かって恥ずかしかった。私は「覚えていないならいいの」と言ったのだけれど、気になるから言ってと強く言われ、彼の一言に救われた話をした。

「ああ、あれね。だって本当にそう思ったから。あんなことでも役に立ったんならよかったよ」

「うん。じゃ、勉強の邪魔になるといけないから」

「ダンス頑張ってね」

「うん」

 完全に社交辞令だと分かっていたけれど、それでも嬉しかった。その日から全体練習以外でも、毎日家でダンスの練習をした。受験勉強の合間にイヤホンで曲を聴きながら練習したので、本棚に手の甲をしたたか打ったり、足の指をベッドの角にぶつけたりした。彼に励まされたからといって、壊滅的にセンスがない私のダンスが激的に良くなることはなかったけれど、それでもダンスの入りにスッと入れるようになってきたし、体の動きを大きくしても拍に間に合うようになった。

 そしていよいよ体育祭当日。

 三年生のダンス発表は、毎年プログラムの一番最後と決まっている。私のダンスの完成度はギリギリ及第点といったところだった。最初と比べるとかなり上達したと思うのだけど、周りのメンバーはそれを上回る速度で技を磨いていたから、その中で踊っている自分はやっぱり浮いているような気がした。曲のサビでフォーメーションを変える場所以外は皆同じ振り付けのはずなのに、体のキレや四肢の動きのメリハリが違うだけで、まるで別の踊りだ。それでも、最後まで間違えずに踊れたら、戸川くんに思い切って告白……までは多分無理だけど、気軽に雑談が言える関係になれるように、何か口実を作って話しかけにいってみようと決めていた。

 グラウンドに散開した私たちを応援するために、戸川くんの旗、つまり私たちのチームの旗が空を左右に何度も切った。編み物やパッチワークといった技法が組み合わされた、緞帳のように重厚なそれは明らかに他のチームと一線を画す出来栄えだった。私の心は「皆の足を引っ張らないように」でいっぱいで、応援旗班とダブル優勝を狙おうなんてとても思えなかったけれど、でも私の精一杯は出し切りたい。私は緊張で喉がつっかえて軽い吐き気すら感じていた。早く音楽が鳴って欲しい。

 途中ステップを間違えた気がする。腕の振りのタイミングがずれた。そのうちどこを間違えたか意識する余裕もなくなった。あっという間の三分五十秒だった。

 最後の決めポーズを崩して二列に整列し、グラウンドを半周して自分たちのクラスの席に戻ってくると、他の二、三人と一緒に旗を掲げている戸川くんと目が合った気がした。彼は隣の男子に何事か話して、こちらにやってきた。

「衣装、良かったよ。着て動くとあんな風に波打つんだね」

 戸川くんに私の狙いが伝わっていて嬉しかった。最初に端切れでミニチュアを作ってみた甲斐があった。

「ありがとう。私、ダンスの方はダメだから、せめてと思って」

「ダンスもみんなまとまってたよ。黒木さんはもっと自信持っていいと思うな」

 なにこれ。私今日死ぬんだろうか?

 戸川くんの応援旗は大方の予想通り見事優勝した。一方ダンスの方は、四位だったか五位だったか、良いとも悪いとも言えない結果だった。でも、もしビリだったら、私は多分自分のせいだと思っていただろうから、上から数えた方が早い順位になって良かったな、とホッとした。

 制服に着替えた後、クラスで近所のカラオケ屋に集合して打ち上げをすることになっていた。私は先生に質問したいことがあったので、打ち上げに間に合うよう一足先に身支度を整えて職員室に寄ったが、疲れた顔の数学教師に「今日くらい休みにしてくれよ」と冗談っぽく言われ、それでも粘って教えてもらってきた。職員室に続く渡り廊下の隅に置いておいたローファーを履いて校門に向かうと、門からまっすぐ出ている道の向こうに戸川くんと鏑木さんが並んで歩いているのが見えた。一瞬、二人の手がさっと握られ、すぐに離れた。

 あ、そっか…そういうことなんだ。

 遠かったから、ただの見間違いかもしれないと思おうとした。でも、彼らがそういう関係であってもなくても、私が彼とクラスメイト以上の関係にはなれないということが、突然ものすごい確からしさで私の心に降りてきた。

「いいもん。大学入ったら彼氏作るから」

 私の性格じゃそんなにすぐに彼氏なんてできないとわかっていたけど、小さな声で無理やりつぶやいた。いつもはマイクから逃げてばかりいるけど、今日はカラオケで恋の歌をひとつ歌おうと思う。本当は悲しい歌の気分だけど、なるべく明るい歌を。



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