問う事を学ぶ「学問」~何の役に立たなくても~「自学」のススメ(1)
サマリー
大学時代、「学問」とは「問う事を学ぶこと」だと教わった。文系/理系に関係なく、どんな分野であっても、同じことだと恩師は語った。
商業高校から国文学科への進学を選んだ私は、地元の同級生たちから結構バカにされた。なんで国文学?逆にそれがモチベーションになった。
卒論が認められ、発表の機会を得たが、プロ研究者の方々からコテンパンに批判され、学問の道を断念。それから約30年あまりが過ぎた。
50歳を過ぎて改めて思うことは、やはり「学問」は、たとえ世の中の役に立たなくても、自分の人生を豊かにしてくれるものであるということ。
そしてずっと「遠ざかっていた」と思っていたが、私は私なりの「学問」を続けていたんだと気づかされる出来事があった。
決して大学組織に所属することだけが、学問ではないし(←失笑されるかも知れないが)、たとえ何の役に立たなくても、少なくとも、自分自身を救ってくれる存在にはなり得るのではないか。
様々な活動が「趣味」として、その人の「生きがい」になっているように、「学問」がその人にとって生きる支えになるのなら、決して大学に高い学費を支払わないとダメだというようなことは無いはずだ。
ネットゲームのように散々課金させておいて「サービス終了」なんてことはない。スポーツのように事故や怪我の心配もないし、ちょうどよい相手が見つからず困る、ということもない。釣りや剣道のように臭くない。いつでも中断でき、いつからでも再開できる。
2025年に新規事業をスタートさせるため七転八倒中であるが、ひとつの柱は「自学」のサポート。誰もが「学問」を「生きる支えに」できる、というアプローチ。それをどう収益化していくかが課題。
ここでいう「学問」とは、広い意味での学問。既存の学問領域に縛られない自由さがあってよい。しかし明確な定義が思いつかず、ひとまず「問う事を学ぶこと」とする。
以上のような話を書こうとしています。自分のために。そして人生に躓いて、苦しみの中でも、何とか這い上がろうとしているあなたのために。
1,国文学科?何の役に立つ?バカ?
1-1 商業高校生が国文学科を目指す
三重県伊勢市の片田舎に住む高校生だった1990年。私は商業高校生なのに、地元の私立大学の国文学科を受験することに決めた。
国文科なんて地味な学科、何の役に立つんだ?しかも商業から?バカ?と同級生たちには笑われた。とりあえず「恩師に憧れて高校の国語の先生を目指す」と話しておいて、それで話を終わらせることはできた。
でも本当の理由は別のところにあった。
1-2 アンチ「国際化」!「大和魂」と上田史郎先生
1990年前後、巷では「国際化」という言葉で溢れていた。英語ブームでもあった。商業高校の授業には、通常の英語教育の他に、「貿易英語」というカリキュラムまであった。
「国際」と名のついた社名や学校名が次々に誕生した。欧米文化がカッコよく、日本文化はダサい、という風潮が強かった。伊勢神宮なんて、修学旅行生と、信心深い一部の中高年の人たちしか寄り付かない、寂れた観光地だった。
そんな「国際化」&「英語」ブームに、ちょっと待てよ、と高校生の私は思った。
みんな「国際化」・「英語」って言うけれど、あんたら、日本はダサいって、自国の文化や歴史を、日本の良さを、美しさを、何にも学ばないで、どうやって海外の人たちと胸張って渡り合えるんだよ!ハローって学んだところで、誰と何を分かり合えるんだ!
そんな反発心から、日本の古典文学を読み漁るようになった。
正直、読んでもあまり理解できない点が多く、現代語訳や注釈・解説を見比べながら、何とか読んでいた。それでも、音読すると、日本語の響きがとても美しいと感じたし、数百年、千年と読み継がれてきた「古典」というものの、重みを感じることはできた。
当時は『徒然草』がお気に入りだった。
もちろん、同級生の誰にも理解はされなかったが、それが逆に、私のモチベーションだった。
国語の先生に相談した。
先生、ぼく、日本人であることを、胸を張って生きていけるような人間になりたいです。
国語の上田史郎先生は、バリバリの右翼だった。
江戸時代、伊勢市古市は遊郭街として有名だった。唯一現存する建物が「麻吉旅館」。先生はそこの婿養子。旅館経営の傍ら、県立宇治山田商業高等学校の国語科非常勤講師(古文・漢文)を務めていた。
他の先生方は、左翼系の方々が多かった。
とくに高校3年生のときの世界史の先生は、授業などほとんどせずに、日教組の活動報告、共産党がいかに正しい政党か、自民党政治のおろかさ、日本の歴史は世界の恥、といったような話ばかりを繰り返していた。
そんな三重県立宇治山田商業高等学校の教員団の中で、ひときわ異彩を放っていたのが、国語の上田史郎先生だった。最初の授業の第一声。
オレはバリバリの右翼だ!
黒板に、大きな文字で自分の氏名を書きなぐったあと、こう言い放った。
その先生の口グセが「大和魂」だった。うちの父親と一緒だ。ただ父親は「気合い」とか「根性」という意味で使っていた(先の大戦の影響だろう)が、上田先生は「やまとごころ」という意味で用いていた。
大和魂の無いヤツが、世界に出て行って何ができるのか。
上田先生はいつも過激だった。
しかし思春期真っただ中の私は、強く共感した。日本って何?日本人って何?大和魂って何?社会や英語の先生たちは日本をバカにしているけれど、自分のルーツに誇りを持てずに、どうやって世界で戦っていけるの?
オマエは皇学館大学へ行け。『萬葉集』をやれ。
恩師上田史郎先生は、私の進路指導を1行で終えた。担任(現代文担当)は、キミは人あたりが良いし、優しい気性だから、大学なら社会福祉系がいいんじゃないか、とアドバイスしてくれた。しかし、
オマエは皇学館大学へ行け。『萬葉集』をやれ。
と授業中だろうが休み時間だろうが、会うたび刷り込まれ続け、それしか道がないのだ、と思い込むようになっていた。
1-3 親を、だます。
私が商業高校を選んだのは、就職に有利だと諭されたからだ。家は貧しかった。バブルの恩恵なんて何もなかった。祖父の代からの借金にあえぎながら、私も高校を卒業したら就職して、家族の借金返済のために、お金を稼がなければならなかった。
しかし、高校3年生になって、どうしても、大学に行きたかった。どうしても、「大和魂」とは何なのか、知りたかった。日本とは、日本人とは、何なのか、心から祖国を、誇りに思いたかった。
ところが、そんな理由で高い学費を出してくれ、なんて言えない家庭だった。おかずが土手で採集した「つくし」だけの日もあったから。
だから「大学費用は自分でもつ。国語教師になる。」と親に話した。麻吉旅館の上田史郎先生に私淑していることは、両親も知っていた。
奨学金を借りる。アルバイトも頑張る。アルバイト先は、物心ついた頃から弟子入りしていた空手の師匠の紹介で、地元の有力議員が経営する会社を選んだ。足りない分は貸してくれるというので(後が怖いけれど・・・実際怖い事になったがそれはまた別のお話)。
地元の有力議員さんまで巻き込んで、何とか、進学の了承を得た。水曜の午後7時。ドラゴンボールのオープニングソングが始まったところだった。
1-4 皇學館大学国文学科
私が大学を受験するとすれば、皇學館大学しかなかった。理由は、家から自転車で通える距離の大学で、国文科でなければいけなかったからだ。国立の三重大学もあったのだが、交通費が痛すぎるし、何より、私淑する上田先生は、皇学館大学で『萬葉集』をやれ、と毎日呪文のように私に言うのだ。
入学前からすでに、上田先生に連れられて、上代文学専攻で古事記の権威とされていた、西宮一民先生(故人)とも顔合わせが済んでいた。
もう他に選択肢が無い、というのは思いこみなのだが、それが自分の生きる道だと信じていた。
1-5 学問とは「問う事を学ぶこと」
入学直後に「上代文学研究会」という集まりに入れてもらった。というより上田先生の差し金による強制入会だった。イヤではなかった。毎週火曜日、院生や教授、助教授、講師陣に交じって、ほんの数名の学部生が一緒に研究発表を行う。
ここでの4年間は、ほんとうに贅沢な経験をさせてもらえた。故西宮一民先生は、古事記研究においては自他ともに認める「権威」で、今でも古事記研究者は、西宮先生の論文や著作は必ず目を通さざるを得ないのではないか。
まず教わったのは、学問とは「問う事を学ぶこと」なのだということ。あとは、訓詁の学こそが、もっとも純粋な学問の形で、我々はこれを継承していかなければならない、ということだった。ここはもう「原理主義」に近くて、訓詁の学こそが学問である、というような雰囲気だった。
萬葉集研究においても、今では最も有名な研究者として真っ先に名が挙がる、中西進先生さえ、「あれは研究者ではなく評論家だ」といわれる、京都学派の最右翼ともいえる場所が、皇學館大学だった。
私が学んだ萬葉集研究というのは、とにかく「どうよむか」だけに執着する学問だった。「読む」ではなく「訓む」と表記する。
他のことは優先順位としては相当低く、些事であり、ひたすらにすべて漢字で書かれた万葉仮名を、どう訓むのが正しいのかを追求し続ける。それだけが目的の研究会。
西宮一民先生は言った。
「何の役に立つかって、そんなもん、何の役にも立たへん。万葉仮名の訓みかたがわかったところで、実社会や実生活に何の影響も無いわな。そこに意味を見出そうなんて、アホのやること」
かなり過激である。さすが我が恩師、上田先生の師匠だけはある。
1-6 西宮一民先生
・訓詁の学とは、一字一句ゆるがせにしない厳密な解釈のこと。
・学問とは問を学ぶこと。
・国文学研究は何の役にも立たないし、立たせようとしてはいけない。
以上が、西宮先生の教え。先生は奈良県出身で、代々神主の家系だったと聞いている。特攻隊に選抜され、お国のために死ねるなら本望と真剣に思っていたけれど、出番が来る前に終戦。
親友3人と共に、
生き恥を晒した
という想いを胸に、
1人は演劇の道へ。1人は茶道の道へ。先生は、学問に生涯を捧げることを生きる目的とした。
というのが本人から直接聞いたお話。
演劇の道に進んだのが、水戸黄門役で活躍した西村晃(にしむら・こう)。茶道の道に進んだのが、裏千家千玄室(15代宗室)。
Wikipediaの「西村晃」の項目にこのような記述がある。
>この時の戦友は千と2人しか生き残っていない。
その2人のうちの1人が、西宮一民先生だった。
その御縁で、西村晃さんと直接お話をさせて頂いたり、裏千家の本当なら師範クラスしか入れない茶室で、人生でもうあれほど感動する喫茶体験はできないだろうと思う程、おいしい和菓子とお抹茶を頂いたこともあった。
・テレビドラマの歴史に残る「水戸黄門」の主演俳優
・「裏千家」茶道の歴史に名を刻む家元
・古事記研究の第一人者
生き延びられたことを「生き恥をさらす」と表現した3人が、それぞれの道で、一流となった。
西宮先生のおかげで、私は学問を好きになれたし、毎日がとても充実していた。
しかし、私が学問の道へ進むことを断念したもの、西宮先生のおかげ?だった。
(つづく)
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