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4. 家に帰りたい!父のリハビリ <父を看取れば>

最期の時を迎えるまでに父は、3つの病院で時を過ごした
急性期に1ヶ月居たS病院。その次の3ヶ月を過ごしたN病院。そして看取り介護(1ヶ月)を受けたB病院である。

S病院では、危機を脱した翌日からリハビリが始まった。回復の見込みがないことは、ほぼ明らかだったのだが、多分それが脳梗塞患者への”通常のプロトコル”なのであろう。

療法士はとても親切な男性で、毎日1時間、父を支え励ましながら歩行訓練をしてくれた。毎日病院に通った母もリハビリに立会い、よろける父を助けた。父は持ち前の”頑張り”を発揮し、訓練を一生懸命やっていたという。「何としても治って家に帰りたい!」その一心だったようだ。

倒れてから3日目、経鼻経管栄養のチューブを入れられた父は「俺は、死ぬんだ」と弱気をもらした。体の大部分が麻痺し、ろれつも回らず、経口栄養も無理と判断されたことと、チューブの不快感にショックを受けたのであろう。

それでも、父はリハビリを続けた。麻痺はいっこうに治らず、疲労困憊するだけの日々。それでも父は、「もうやりたくない」とは言わなかった。この時点では、まだ「死」に対して「懐疑」という段階にいたのか、「リハビリさえ続ければ、いずれ家に帰れる」という希望を持っていたようだ。

S病院での入院の一ヶ月後、2つ目の病院を探すことになった。日本の医療制度上、救急病院では、一ヶ月以上の入院はできない。親切なソーシャルワーカーさんが、家族の希望をききつつ手続きを進めてくれた。筆者は、実家に一番近い病院に「介護医療院」があることをネットで調べ、ソーシャルワーカーさんに母経由で伝えた。しかし、ベッドの空きの関係や何やらで、結局S病院からさほど遠くないN病院への入院が決まった。

移送の日、父は車椅子に座り母と共に移動用の車に乗った。ものも言わずに窓から外の景色をじっと見ていたという

N病院は「リハビリで有名」な所で、親切なスタッフが揃う病院だった。父の入院したフロアーも、回復の見込みのある患者さんが多く、父のような「重症患者」は他に1人しかいなかった。廊下では、リハビリで歩行訓練をする患者さんの姿があった。回復していく患者さんと、そのご家族が行き交う廊下...。そんな中で母は「とても惨めだった」という。リハビリの効果がなくどんどん弱っていく父、前途が絶望的な夫を母は毎日見舞った。


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