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「1年前の6月2日」

 彼は掛け値なしに立派な口腔外科医だ。保証するよ。なにしろ、いちばん最初に、君のがんを見つけてくれた命の恩人じゃないか。信達へ行けなかった日のこともよく知っているよ。信達というのは君たちが十八歳まで遊びまわっていた盆地の名前だ。地震が起きて原発が爆発するニュースを観ていた君のところに突然国際電話がかかってきて、空港まで彼を迎えに行ったらしいね。信達へ行けなかった頃には、クリニックの壁を突き破ってレントゲン装置が倒れていたんだ。がんの治療を終えた君の歯茎の骨に異常がないかどうかぐるっと撮影可能な最新式のレントゲン装置だよ。でもよく考えてみてくれよ。どうして6月2日はレントゲンじゃなくて、スマートフォンを取り出した彼が、君の口の中に入りそうなぐらいレンズを近づけて写真を撮りはじめたのか。黙り込んだ神妙な顔つきで。君は驚いたのなんのって。彼がいつだったか「がんを観たらわかるけど患者さんには黙っている」と話していたのを思い出したから、驚きすぎて驚けなかったのかもしれないな。いつも慎重で温和な彼から、「はやく精密検査に言ったほうがいいよ」と言われた君はてっきり安心していたんだ。数日後に彼がわざわざ電話をかけて急かしても、君はまだ検査に行かなかったどころか、彼とリスボンへ旅行する計画を立てていたぐらいだ。どうかしてるけど、君が忙しかったのもよくわかっている。クリニックへ行く前にお母さんと面会した君は、認知症を患っていた彼女が唯一会話ができる相手だったことは秘密にしておくよ。ちょうど1年前の7月1日に看取ったお父さんのお墓を建てるのに、お爺さんのお墓参りに行ってみたこともね。でもよく考えてみてくれよ。どうして祖父のお墓の前に置いてあった茶碗に口をつけそうなほど顔を近づけてのぞき込んでみたのか。子供の頃みたいな顔つきで。祖父がよく話していた相場と茶柱の話でも思い出して、なにか捜していたものが見つかったのかもしれないな。ともかくだ。帰りしなに立ち寄った石材店であの四角い墓石を見つけた君が、7月半ばに入院して墓参りもできなくなるなんて、いくら彼でもまだわからなかったはずだから。リスボンへ行かなかった彼が病室の君に送らなかったこの手紙を読み終えたら書いてみてくれよ。一年後に誤嚥してクリニックに来院した君が、お墓参りの後、いったいどこでなにを捜していたのか。闘病は君にまかせるけど。治療については訊いてみればいいんじゃないか。君のがんは彼のがんじゃないことぐらいは間違いないはずだから。最後にひとつだけ言っといてやるけど、がんはがんだ。どんな治療をするのかしないのか続けるのかやめるのかは心配と不安で揺らめいて愚痴ばかりこぼして焦っている君次第かもしれないな。じゃあ、そろそろクリニックへ行く時刻だから失礼いたします。

清野栄一 様


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