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諦めの悪さは父譲り。本当の「ご自愛」とは?

私の「こうしたい」の想いに対して諦めが悪い性分って、亡き父にそっくりやなぁと、歳を重ねるたびに感じる。
弟からは先月、
「既に身の丈を大幅に超えた選択を複数しているんやから、程々にしとかんと続かへんようになるで」
と意見をされながらも、しつこいくらいに調べまくり、ダメもとで熱意を伝え続け、果敢にぶつかっていく姿勢は相変わらずだ。
そのエネルギーと強さはどこから来るのかと、今日は親友からも感心された。

そういえば1カ月半ほど前に、塾長がしみじみとこんなことをおっしゃった。
「逆境にはむしろ燃えるという女将(=私のこと)の強さは、いったいどこから来るのだろうと思いながら長年にわたって見てきたが、最近ようやく腑に落ちたことがある。

おそらく、どのような場面でも直感を含めた自分の中のあらゆる感覚を総動員して情報をキャッチし、超高速回転で判断し、そこで感じた ”これがベスト” という確信めいた選択をしているからこそ、その選択は理屈では説明しきれない絶対的なもので、疑う余地がないのだろう。

だから、誰が何と言おうと、そこに向かってどうしたら実現できるのかをとことん追求する姿勢は、これまでからずっと変わらない女将の強みであり、そうした経験を重ねるたびに人生の選択の精度がさらに上がっていき、揺るぎないものとなっていくのだろう」

こんなにも良いようにおっしゃっていただき気恥ずかしく、自分で言うのもどうかと思いつつも、まさに塾長のおっしゃる通りなのだと、とても納得。
私の周囲の人は、常日頃からしつこいエネルギーを浴びせられていい迷惑だと思うけれど、どうかご容赦いただきたい。

できない理由を愚痴ってばかりの人生はまっぴら。私はまだまだ、もっともっとあがき続ける。とりわけ、QOLに関わることは、簡単に諦めるわけにはいかないから。
ハイリスクな問題を抱えつつも、一度きりの人生、おとなしく控えめに過ごすことだけが「ご自愛」だとは、私は思わない。

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