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いたずら猫共

 実樹の悩みは、顔にたったひとつある、大きなにきびでした。

十四歳になるころに右の頬にできたにきびは、十五歳を迎えた今日まで、ゆっくりと確実に育っていて、だんだん目立つようになってしまいました。気になって気になってついつい触ってしまうのでばい菌が入っているのかもしれません。

お母さんはよく実樹を見て、「あんた、触るからひどくなるのよ」と言っていました。そしてこうも言いました。「じきに治るわ。若いうちだけよ」その言葉に実樹はいつも少しだけ安心して、これも自分のチャームポイントかもしれないと思い直していました。
 ところで、実樹の通っている中学にはものすごくお金持ちの女の子がいました。名前を翔子と言いました。翔子は、およそ実樹の持っていないものをたくさん持っていましたから(実樹だけでなくクラスの女の子の中で最も高価なものを持っているはずです)、みんな自分には敵うまいと考えてつんとした態度をとっているのでした。

 けれど、そんな翔子にも困っていることがありました。それは、左の頬にできたまんまるのにきびです。なんでも持っている完璧な自分のはずが、にきびという余計なものを持っているのは恥だと思っていました。しかも、気にして何度も触ってしまったので、さらに大きくなってしまい、翔子はこのにきびさえなくなってくれたらどれくらいすっきりするかといつも考えていました。

 ある日、学校の帰りに実樹が塾へ行こうとすると、放課後の教室で待っていたかのように翔子が話しかけてきました。
「実樹ちゃん、もう帰るの?」
 翔子はいつもまわりに二人の取り巻きをくっつけていて嫌な雰囲気が出ていたので、実樹はあまり近づこうとはしませんでしたが、話しかけられたことに関しては答えるようにしていたので、
「うん。帰るよ」
 と答えました。答えたはいいのですがなんだか落ち着かない気がしてそそくさと準備をすますと、脇を抜けてさっと行こうとしました。ところが、それは叶いませんでした。翔子の取り巻きのひとりが、目の前に立ちはだかるように移動してきたのです。


「あのさ、実樹ちゃん。知ってた?」

 翔子はびっくりする実樹をのぞきこんで言いました。楽しそうに取り巻きたちもにやにや笑いを浮かべています。気味が悪いな、と実樹は思いましたが、口には出しませんでした。でも、知ってるかときかれても『何を知っているのか』が分からなかったので、これにも答えることができません。

静かに首を振りました。
「あのね、そのにきび……治す方法があるんだ」
「にきび?」
 最初、翔子の言っている意味がまったく分かりませんでしたが、少しして、自分たちの頬にある大きなにきびのことを言っているのだと思い当たりました。しかも、治す方法がある、と聞こえたような気もしました。でも、もう一度聞き返すことは恐ろしくてできなかったので、実樹は「治す方法がある」と言われたことにして、翔子に言いました。
「そうなの? 翔子ちゃん、もしかしてその方法、私にも教えてくれるの?」
 半信半疑の気持ちで訊ねました。もしそれが本当なら、ぜひ知りたいと思う気持ちと、お金持ちで高飛車な翔子が簡単に教えてくれるのだろうかという気持ちです。でも、彼女からは完璧に飛びつかなくてよかった、と思うような答えが返ってきました。
「まっさか! 嘘に決まってるじゃない」
 翔子はぷっと吹き出すと、あっかんべをするように少し舌を出しました。そして取り巻きたちに『帰ろう』と合図を送ると、教室を出て行きました。

 こんな目に遭って、嫌な思いをしない人はいるでしょうか?
 実樹は、それこそまさか! と思いました。翔子に期待の眼差しを送らなくて良かったと心底思ったほどです。

 けれど少しだけ、本当だったらいいな、と思ってしまった自分がいたのも事実でした。実樹は本当に腹が立っていました。どうしてあんなに嫌な子の周りに女の子がくっついているのか理解ができませんでしたし、もし自分が取り巻きになるくらいなら、翔子がどれだけ人としてずれているかを本人に教えてあげたいくらいだとも思いました。それに、これではっきりしたことがあります。翔子は、唯一頬ににきびのある自分と実樹とを比べて、優位に立っていたいだけなのです。これまでも何度かこうして嫌がらせを受けたことがありましたが、今回のことでそれは明確になりました。


「どうして翔子ちゃんは誰かと比べるんだろう? 別に、私のにきびと翔子ちゃんのにきびは関係ないのに」
 実樹はそうひとりでつぶやくと、そっとため息をつきました。嫌なことを言う翔子に腹は立ちましたが、それでも、彼女も同じ悩みを抱えていることには変わりないのかもしれない、とも思ったのです。だんだんとやり切れない思いがしてきました。

 できることなら翔子と「一緒にがんばろうね」など声を掛け合いたいと思いました。でも、プライドの高いあの子のこと。それは叶わぬ夢なのかもしれません。実樹は顔を左右に振り、とにかく、自分はこのにきびを意外にも気に入っているんだと考え直して、塾の扉をぱたりと開きました。


 その日の塾の帰り道。実樹はとぼとぼと駅の裏通りを歩いていました。
 暗くなった路地に差し掛かったときです。
「にゃあ~お」「にゃあ」「な~ぁ」
 数匹の猫の鳴き声が響いてきました。そのあと突然、暗闇からふっと猫たちが駆け出してきました。
 驚いて飛びのくと、実樹は尻餅をついて倒れました。肩に掛けた鞄が重く、コンクリートについた手がざらざらして痛みを感じます。
「痛ーい……びっくりした……猫……?」
 ひとりごとを呟きながら、反射で閉じていた目を開くと。
 そこには、猫三匹が心配そうな顔で実樹のことを見つめているではありませんか!
 しかも。
「だ、大丈夫ですかにゃー?」
「どうしよう、人間を転ばせてしまった」
「悪さをしないって約束したばっかりなのににゃ」
 それぞれ好きなことをながら、お互いに顔を見合わせたり実樹の様子を覗き込んだりしているのです。これには実樹も固まって目を見開くばかりです。
 いったいぜんたい、これは、なんだろう? 夢かしら? 今日は嫌なことがあって、自分の気がおかしくなってしまったのかしら?
 ……と、一匹のぶちの猫がトコトコと歩いてきて、実樹のひざをぺろりと舐めました。そして、
「すまなかったにゃー」
 と言いました。
「い、いいえ。大丈夫です」
 驚きすぎると、まるで普通のことのように対応できてしまうものなのかもしれません。実樹はぺこりとお辞儀をする猫に合わせて、同じようにお辞儀をし返していたのですから。それから後ろで見守っていた二匹の猫は、実樹とぶちの猫におそるおそる近づいてきて、黒白の牛のような模様の猫が口を開きました。
「ごめんなさい、僕たち、いたずらっ子だからってついさっきお叱りを受けたんです。でも、こうやってまた誰かを困らせるようなことになってしまって……」
 続いて、茶色のしましまの猫が言いました。
「そうなのですにゃ。だから、僕たち、なにかお詫びをするにゃー!」
 これは、妙なことになりました。猫たちはにゃあにゃあ言いながら実樹の傍に寄ってきて、真面目な顔で座ってしまったのです。
「え、えー? これくらい、なんてことないのに……」
「だめですにゃ!」
「なにかお詫びをしないと、僕たち今度はもっと怒られてしまいます!」
「僕たちにできることなら、なんでも言ってほしいのにゃ!」
 猫たちは実樹をじいっと、詰め寄るような懇願するようなどちらともいえない表情で見つめると、そのうち、実樹が「じゃあ……」と言ったのでぱっと顔を輝かせました。
 今実樹が一番悩んでいることといえば、右の頬にあるにきびくらいです。あっても邪魔ではないけれど、もしこれがなくなってくれたら、少し心が軽くなるかもしれない、と考えたのです。
「このにきびをなくすこと、できる?」
「できる!」
 訊ねるや否や、三匹が声をそろえて即座に答えました。そうして、あっという間――それは本当に一瞬のできごとでした。あのにきびを、ぶちがするどい爪で、くりっ! と抜き取ってしまったのです。頬をなでてみても、あの大きなにきびは跡形もなく消えています。
「本当に、きれいさっぱりなくなっちゃった!」
 実樹が驚いて声を上げると、三匹は得意げな顔で「これくらいお安い御用だにゃ」と鼻を鳴らしてみせました。

 さて、翌日。学校へ行くと、予想通り、翔子が慌てた様子で実樹の元へと駆け寄ってきました。
「実樹ちゃん、にきびはどうしたの!?」
 実樹は昨晩あったことを、すべて翔子に話して聞かせました。最初は疑いの目を向けていた翔子も、次第に、「ふうん、そうなんだ。ずいぶん運がいいね」「今日も行ったらいるかもしれない」などと言って、取り巻きたちに目配せをしていました。きっと、塾が終わるころを見計らって、彼女たちもその路地裏へ行くのでしょう。本当はうらやましくてならないのです。


 翔子の態度は相変わらずでしたが、もしにきびが取れたら、もっと嫌な人になるかもしれないと思いました。なぜって、裕福で美人であれば、彼女はもっと女王様のように振舞い始めるだろうと考えたからです。
 夜、実樹が塾を出た時間に、翔子たちは駅の裏通りをきょろきょろしながら歩いていました。この時間は人通りが少なくなっており、さすがに三人は身を寄せ合っていましたが。
 ふと、どこかで猫の鳴き声がしたような気がしました。
「こっちよ」
 リーダーは小さくささやきました。実樹に教えてもらった通りは、もう一本先を左へ行ったところでした。暗くてあまり見えませんが、この辺は住宅街のようです。
 目的の曲がり角が見えると、翔子は「あっ」と小さく声をあげました。
 街灯の下に、三匹の猫が座っているではありませんか。きっとあの猫たちに違いありません。翔子はさっそく翔子は猫たちに近づいていって、声をかけました。
「こんばんは、猫さんがた。あなたたちが昨日、にきびを取った猫よね?」
 翔子は堂々と仁王立ちをしていました。猫は突然現れた人影にびっくりして、「にゃーー!」と叫びました。
「静かにして! うるさいわね! いいからこのにきびを取ってちょうだいっ!」
 今度は翔子がわめきたてると、今度は猫たちは叫ぶのを止め、じっと人間のほうを見つめました。なにか言いたげな顔をしていますが、なにも話しません。しばらくして、猫は顔を近づけあうと、なにやらこそこそと話し始めました。その話し声は聞き取れませんでしたが、ちらちらと自分たちのほうを見ていたので、相談しているのだと思いました。
 ややあって、ぶちの猫が一歩前に進み出て言いました。
「あなたはどなたですにゃ?」
「昨日あんたたちがにきびを取った子の、友達よ」
 二番目に、黒白の牛のような模様の猫が前に出て言いました。
「どうして僕たちが、あなたのにきびを取らなきゃならないんですか?」
「そりゃあ、だって……」
 ここで、はっと気がつきました。翔子は自分のにきびを取ってもらうことしか考えず、実樹の話の通りに行動しなかったのです。本当は、猫たちに驚いて、ひっくり返らなければならなかったのです。
「でも、あなたたちにはこのにきびが取れるでしょう?」
 平静を装って猫たちに訊ねると、今度は三匹目の茶色のしましま模様の猫が寄ってきて言いました。
「僕たち、取れるけど、こんなずうずうしい人間はお断りだにゃー!」
 それは突然のことでした!
 目にも止まらぬ速さで、ぶちの猫が翔子に飛び掛ってきたと思うと……
 ピターン!!
 右の頬に、にきびをくっつけてしまったのです!
 いたずら好きの猫たちは、ぴゅーっと一目散に走り去ってしまいました。
 
「なによ……これ……」
 その場にぺたんと座り込むと、翔子は右の頬をなでました。しっかりと大きなにきびがそこにはありました。
 後ろで取り巻きたちがびくびくしながら彼女のことを見ていましたが、そのうち、だんだんと馬鹿らしく見えてきたのでしょう。二人はさっさと帰っていってしまいました。
 ひとり残された左右ににきびのある女の子は、泣く泣く家へと帰ったのでした。

 次の日から、翔子はもう誰にも嫌なことを言ったり、見下したりすることはなくなったということです。


ーThe ENDー

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