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真夜なかの天使

「あたしの羽根が欲しいの?」

 雪沢のまっすぐな瞳がぼくを射抜いた。夜の教室は月明かりだけがぼくらを照らし出していて、まるで舞台の終焉のようだった。雪沢は上半身はだかで、大きくない胸をさらしているのにはずかしがるようすはない。下はプリーツのスカートで細い膝をのぞかせている。肌は白いがところどころ日に焼けたように赤くなっていて少し痛そうだった。それが、透明な青い光に透けて幻想的にも見えていた。もっとも、そう魅せているのは紛れもない彼女の背中から生える破れた茶色の羽根なのだろうけれど。
 なぜ雪沢が羽根を広げここにいて、そしてなぜそれをぼくが見ているのかというと。話はついさっきのことだ――。


 ぼくにはある趣味があった。その趣味というのは、夜中の学校にこっそり寝泊りすること。こんな気味の悪い趣味は誰にも言えないし、もちろん誰にだって秘密なわけだけれど。ぼくは放課後、ときどき数学準備室や理科準備室などの陰に隠れて誰もいなくなるのをじっと待っていたり、体育館倉庫のバスケットボールのかごに埋もれていたりする。人が学校からいなくなるとぼくはそこから動き出して自分の教室へ行く。そして自分の席について、ぼんやりと外を眺めるのだ。昼間の賑やかなそことはまるで別世界のようなその景色が、しんと眠るように静かにそこにあるのが好きだった。ぼくだけのやさしく冷たい世界。昼間もひとりだがこのひとりの時間はまた格別なのだった。月のひかりがとてもよく当たる窓際の真ん中の席で、ぼくは朝が来るのを黙って感じる。ただそれだけの、事実としてはまったく気味の悪くない趣味を楽しんでいた、ある日の晩。
 そっと踏み込んだ教室に、先客がいた。
 ぼくは驚いてあっと声を上げることもできなかったけれど、それはその人物の姿に一瞬にして目を奪われたからでもあった。彼女――そう彼女――は教室の後方の小さなスペースで、上半身はだかの状態で、手を重ね窓辺に向かって祈りをささげていたのだ。細い背中に肩甲骨がくっきりと浮き出て、びっくりするほど華奢な体つきをしている。透き通った薄い青の空気に包まれた彼女は、同じクラスの雪沢ひろこだった。黒く長い髪がいつもふんわりと彼女の背に乗っている姿を思い出す。小鹿みたいな体型で細身というよりは細い。高校に入学して数ヶ月間の彼女へのイメージはそれだけだ。
 声をかけられず数秒黙っていると、雪沢がふと顔を上げた。赤い頬にまつげの影が落ちる。目が金色に光っていた。そして振り向いて教室の扉で立ち尽くすぼくに気づいた。けれど驚きの声をあげることも微笑みを見せることもなくただ黙ってぼくを見据える。
 ぼくは、夜の共感者をやっと見つけたと感じた。
 それから雪沢はなにも言葉を話さないのでぼくもそれにならってなにも言わないことにした。夜中に教室にいるという事実はどちらも同じでどちらも十分『ふつう』とはずれている気がしたからだ。ここはすでに青い水に浸かっている湖底のような世界。ぼくはいつもどおり自分の席へと腰を降ろし、青白く光る月を見上げた。教室の床やクラスメイトの使う机、椅子などに窓枠の黒い影が綺麗におりている。ぼくの胸元にもそれが横切っていた。ちらりと後ろの彼女を盗み見てみる。雪沢はふたたび、祈るように手を合わせていた。

「雪沢さん」
 ぼくは今日はどうしても、夜の世界に浸ることができない。なにより彼女が気になって、我慢できずに声をかけてしまった。なぜ、君はここにいるの。それだけは訊かないようにしようと心に決めながら。
 振り返ると彼女はゆっくり顔を上げ金の目でぼくを見つめた。プリーツスカートからのぞく膝小僧が小さく丸く可愛らしいと思った。
「なに」
 それはもしかしたらぼくが初めてまともに聴く彼女の声であったろう。ひどく抑揚のない声で、にもかかわらず十五歳とは思えぬ大人びた色を持っていた。雪沢はその場からゆっくりと歩きぼくの目の前で立ち止まる。はだかとか胸とかを意識する前に、彼女の背中から大きな枯葉のようなものが見えていることに気づいた。さっきまでは、なかったはず。細い筋が何本も入ったぼろ布のようなそれは、ゆらゆらと揺らめいて――。
 それで回想はおしまい。

「羽根は、君のなの?」
 ぼくは月光の影に隠れる彼女の金の瞳を見ながら訪ねる。雪沢はちいさくうなずき、背中をぼくに向けた。近くで見るとそれはさらに大きく見える。昔見た映画の、かなしい天使の物語を思い出す。はたはたと誘惑するように羽根は揺れた。
「あげる。むしって」
「えっ。いや、そんなことはできないよ」
「ほしいんじゃないの?」
 骨の浮き出た肩を眺めながら言うと、素っ頓狂な声が肩越しに返ってきた。本当に驚いているというような声だった。
 ぼくは正直、この羽根は色もくすんで綺麗な状態の羽根ではないのだろうと思った。これは想像だが、彼女の羽根をくれるという行為は、もう使えないから、と言っているように聞こえたのだ。
 雪沢はしゃがみこんで、背中を向けたままぽつりと言葉をもらす。
「あたしのこれは、蝶の羽根なの。お母さんが、この羽根の持ち主だった」
「……ふうん。君のお母さんが蝶々なの?」
「正確に言うと違う。お母さんは蝶になりたかった。父と結婚する前からそうで、結婚してからさらにエスカレートしていったって。今はもうどちらもいないけど…………、お母さんはずっと毎晩、月に祈ってたんだって。さっきあたしがやっていたように」
 突然の物語にぼくは何も返せずにいた。本当だとしても嘘だとしても、雪沢の背中には羽が生えているし、それにここは湖に沈んだ世界だ。たとえばぼくが死んでしまっていることも、ここでは平然と流れていく事実なのかもしれない。
「あたしのお母さんね、いつからか頭がおかしくなってしまったんだって。美しいものへの執着がすごくて、それが特に蝶になりたかった理由みたい。それであるとき気付いたの。自分の体に取り込めばそうなれるんじゃないかって、ついに蝶を食べてしまった。それから数日後、母の背には羽根が生え始めた。わたしもそれを受け継いでる。それだけの話よ」
「呪いかなにか?」
「そうね、たぶんそう。でもね、邪魔にはならないし、生えてるのはいいんだけれど。飛べない羽根だもの、あってもしょうがないわ」
「飛びたいの?」
「うん、落ちることなく飛べるなら、ね。でもあたしは母と違って蝶になりたいわけじゃないの。せっかくある羽根だから飛びたいけれど、使えない羽根ならもいで欲しいわ。それをいつも月に祈っているのに、まったく叶いやしないったら」
 雪沢はもう一度ぼくのほうを向いて、今度は微笑んだ。こんなことは言えないけれど、かなしそうに微笑んでいるように見えた。
「どうしてぼくに、その話を?」
 そう問うと、一瞬悩むそぶりを見せたがすぐに返答がくる。
「だって、あなたなら、聞いてくれると思って。これが欲しいのかと思ったのよ、昇るためにいるものだから。それに、夜の学校にいるなんて、頭がおかしいか幽霊かのどっちかじゃない」
 そう仏頂面で言うものだから思わずぼくは笑った。向こうはさらに少しすねてしまった。
「君、いいじゃない。表情の変化があったほうがいいよ。かわいいんだし」
「ボロ羽根はえてるけどね」
「でも笑ったほうがいい」
 ぼくたちは、今日はじめて会話したにもかかわらず、一度話したらそれまでの空洞の時間がすべて思い出でいっぱいになった気がしていた。昔から知っているような、でもとても新鮮な、ふしぎな想いがぼくを満たした。
「じゃあ、今日でぼくの学校深夜徘徊はおしまいかな。ばれてしまっているなんてさ」
「あたしのお祈りも、おしまいにするわ」
「なぜ?」
「あなたを知ってるのはわたししかいない。成仏するなら、きっとこの羽根は使える。天使の羽根じゃなくて申し訳ないけれど」
「君はどうするの?」
「あなたのことは忘れないでおいてあげる、三浦くん」
 それからなにもいえなかった。ぼくは彼女の言葉を待ったけれど、彼女もなにも言おうとはしなかったから。静かに月がうせ、周囲が明るくなってきていることにそこではじめて気がつく。外をちらりと見やると、烏が数羽校舎を横切っていった。
「この羽根を、あなたにあげる。今ならまだ、あなたもちゃんと上へ行くことができる。あたしが連れて行くから」
 彼女はすべてぼくを見透かしているように最後にそう言い、ぼくの手を引いて窓を開け放った。三階は見晴らしがよく、まだ朝を迎えていない下の小さな家々が遠くまで広がっていた。
「つかまって」
 凛々しい横顔は、華奢なからだの持ち主とは思えぬほど意志の強さを現すようにまっすぐ前を見つめている。突風が吹き、彼女の長く柔らかな髪が風に舞った。
「君、飛べるの? さっき飛べないって」
「飛べる」
 もはやぼくたちは窓から足を放り投げている。朝日がどんどん近づいてくる。蝶々は両手を力いっぱい引いて、そしてぼくたちは、夜に沈んだ校舎から飛び立っていった。

ーThe ENDー

image by:Anatoly777

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