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重い

 わたしの目に映らなくなってしまったものがあった。わたしはそれがとても好きだったので大切に、大切にしてきたしたくさん愛情を注いでいつも声を掛け見つめ、とにかく、それはそれは大事にしてきたのである。

 それが見えなくなってしまった。
 それはいつでもそこにあった。わたしの隣にあって、なにかと役立っていたような気もするしわたしをひどく疲弊させるものであった気もする。それでも心から大事に思っていた。

 目に見えないだけならまだ存在を確認することができるだろう。触れることは難しいかもしれないが手探りなら可能ではあるし、見えずとも名前を呼ぶことだってできる。しかし見えないと気づいた次の日には、それの姿形、色や名前さえも記憶からすっぽりと抜け落ちてしまったのである。つまりわたしはそれを見ることも思い出すこともできない状態になった。
 だがここで信じて欲しいのは、わたしが愛してやまなかったそれは必ず存在していた(厳密には存在しているのだろうがわたしには認識できない)ということである。在った、というのは事実であり決してわたしの可笑しな妄想などではない。

 見えなくなる直前のことをぼんやり思い出してみた。それが鮮やかであったのか、分厚かったのか、大きかったのか、はたまた真逆であるのか、依然として分からないままだが好きだったという記憶が消滅していなくて良かったと心底思う。やはり想いが消えるというのは悲しいことだと思ったのだ。認識不可能になって三日目のことであった。
 かすかに瞼に浮かぶ、それがあったと思しき場所はやはりわたしの家であった。脳裏には白いベッドの映像が掠れて再生されたがシルエットもなにも映しはしなかった。横たえていたとでもいうのだろうか。記憶の中の情景にも断固として存在を示そうとはしないらしい。苦笑を漏らし、わたしはベッドにうつ伏せた。呼吸が少しだけ苦しくなった気がした。

 五日目。友人が家に訪ねてきた。夕方の西日の強く差す時刻のことであった。窓から見えるそのひかりにまぶしさを感じていたと思う。少し痩せたんじゃない、というのが第一声でわたしの顔を覗きこみながら言うものだから思わず笑ってしまった。否定したのに彼女はずっとわたしを心配していた。しきりに大丈夫かと問われ、少しだけ疲れが増してしまったなと感じた。
 しかし彼女はいつもわたしを一番に考えてくれる。なのでおそらく親友と呼ばせてもらえると思う。優しい彼女が傷つけられるような事があればきっとわたしが許さないだろう。その旨を伝えるとどこか涙まじりの声で、だったら****にわたしも苦しめられてる、と言った。
 一部分聴こえなかったので勝手な判断だがわたしの認識できないそれのことを言われたのだろう。わたしの愛していたそれ。けれど彼女を苦しめるならそれですら許せないなと漠然と考えていた。

 見えなくなってから一週間が過ぎようとしているが、わたしの症状にほとんど変化はないように思う。しいていうなら、それに対する愛は衰えるばかりか見えなくなってしまってからの方がいとしく想えている、ということが我ながら不思議であった。そして、それについて知りたいとも感じていた。それというのは、何故みえなくなってしまったのだろう。わたしが大切にするあまり逃げていってしまったのだろうか? もしもそうであったらとても恐ろしい。一番心を支配していたものがわたしを拒否したということになるのだろう。わたしはそれ、のために生きてきたと言っても過言ではないのだが……。
 なかなか寝付けず布団にもぐりこんでいた、その一週間が過ぎようとしている夜中のことだ。このまま平穏に、見えないものを恋しく思いながらも生活してゆくのだと思っていた矢先、わたしはふと自身のある違和感に気づいた。
 あれ、がない。あれ、というのはあれなのだが、あれというのがどれのことだか、わからない。なにかがない。なにかが。ないということはわかるのになにがないのかがわからないのだ。わたしは言いようのない恐怖を覚える。あれは、わたしの生活の中にあったもののはずなのだ。いつからあれもわたしの目に映らなくなったのか。わたしはあれも、それと同じように心から愛していたし大切にしていた。なのにあれについての情報が、記憶が、どういうふうにわたしのそばにありどういうふうにわたしが大切にしていたのかが、もともと無かったかのように、存在を消してしまった。これで二つ目だ。もしかしたらわたしが気づかないだけでもっとたくさんのなにかがわたしの記憶から剥がれ落ち、そして思い出せないところに行ってしまっているのではないか。
 それはひどく恐ろしいことに思えるが、まだ間に合うかもしれないというわずかな期待を抱え、ふたたび目をつむり、体で思い出そうと試みた。わたしの中の、すべての細胞に呼びかけるように、想像の中でゆっくりと部屋を歩き回ってみる。キッチン、リビング、寝室、風呂場…………まだ、見つからない。洗濯機の中、いつもの朝食、友人の顔、それでも、どこにも見当たらない。
 わたしは悲しくなった。なぜ、まるでわたしから身を隠すようにどんどん見えなくなってしまうのだろう。

 ふと目が醒めた。体の強張りが一気に解けたように反射的に目を見開く。視界は黒でおそらく夜中だろうと察しがついたが呼吸が大きく乱れているのでわたしがと同じようにして眠ってしまったわけではないことを悟った。荒く繰り返される断続的な酸素の入れ換え。粗く空気を擦る心の揺れ。さきほどの、見当たらないあれを探すわたしは、夢か現実、どちらだったのだろう。くらくらと眩暈がした。わたしは何を探しているのだろう。それとあれは同じなのだろうか。なぜ探そうと、思い出そうとしているのだろうか。……ぱちんと何かがはじけるような音が、聴こえた気がした。
 目覚め、に、容赦は無い。

 突然に湧き上がる悲哀の激情、見えなくなってしまったものが消えてしまったものが全身を突き抜けた。

「いない! いないの、彼がっ!」

 彼がこのベッドで眠った夜、彼が先に目覚めた朝、彼がわたしを軽蔑する目、彼が別れを告げた、夢、そして、閉ざしたこころと太陽の光――。


 すべてがわたしを殺そうとした。


 思い出してしまった。消したはずの彼との記憶が零から未来までのすべて、そのすべてを。
 愛しすぎたのだ。優しくしすぎたのだ。甘やかしてしまったのだ。困らせていたのだ。だって、そばにいて、欲しかったの。
 気がついたら彼はわたしを置いて立ち去る現実が残るだけだった。わたしは彼の去っていく姿を、この窓から眺めていた。朝のひかりの強い中へ吸い込まれていくように消える彼を。ただ好きでいただけなのに、最後の言葉はあまりにもあっけない。『重い』とただ一言である。わたしは彼を忘れるなんてできないのだろう。だから無かったことにしようとしていた。
 わたしに優しい親友は彼を呪うだろうが、わたしはやはり彼を憎むことはできないのだ。
 きっとできない。

 夜の中、真っ暗な部屋。彼のいたベッドの左側を撫でてみてももう温もりなんて残っているはずもなかった。においだって染み付いていやしない。本当に、彼が居たのかさえも疑わしく思う。

 彼を失ってから十日を過ごした。カーテンを開けてひかりを受け入れることもわたしにはできそうにない。
 今日も独り、少し広いベッドの左側に、暗い影に、身体を重ねて眠る。


ーThe ENDー

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