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越境学習をめぐる冒険 【書評】

今回は、「越境学習」をめぐって考えたことについて書いてみたいと思います。

私は「学習」とか「学び」のあり方に関心があり、自身の研究テーマにもしています。noteで連載している「山の日本語学校物語」も、いってみれば「学習」とは何かについて探究している物語とも言えます。「山の日本語学校」では、PBL(Project Based Learning)を主軸したプログラムを展開しましたが、この運用プロセスでは、さまざまな形の「学習」が錯綜していました。

「学習」といったとき、一般的に「知識やスキルを身につけること」と捉えられますが、PBLでは、これとは違う「学習」を目指しました。しかし、「言語習得」という文脈では、「語彙や文法をできるだけ多く理解し、使えるようにすること」が目的とされるので、それとは違う「学習」とは何なのかというのは、共通理解が得られにくいと感じています。

ここ最近、「越境」に関連する本を何冊か読みました。そして、「学習」を「越境」という文脈から捉え直し、今の自分自身に置き換えて考えたとき、これまでとは違った視点を得たように思いました。そこで今回は、「越境学習をめぐる冒険」というテーマで考えたことをまとめたいと思います。

なお、私は「学習」を「学び」と表現することがあります。これは「学習」という言葉が、従来の「知識やスキルを身につける」という意味を想起させるため、誤解を避ける意図があります。以下、この記事の中では、「学習」に統一して、さまざまな「学習」の意味についても考えてみたいと思います。

石山恒貴・伊達洋駆(2022)『越境学習入門 ー組織を強くする冒険人材の育て方』 日本能率協会マネジメントセンター

まずは、「入門」ということで、こちらの本からみていきたいと思います。本書では、「越境学習」を以下のように定義しています。

ホームとアウェイを往還する(行き来する)ことによる学び

『越境学習入門 ー組織を強くする冒険人材の育て方』p.28

「往還することで生まれる違和感、葛藤が学習効果をもたらす(p.30)」とも書かれていますので、ここでは「越境学習」の定義を「ホームとアウェイを往還する(行き来する)ことで生まれる違和感、葛藤がもたらす学び」としておきます。

本書は、「経産省が立ち上げ、著者らが実施した越境学習における効果を見える化し、評価するためのガイドラインや効果指標(ルーブリック)を開発するプロジェクトがもとになって」いるので、ここで、取り上げられている事例は、基本的に企業主導で行われた企業間の「越境」がもとになっています。

ホーム企業で活躍している社員をあえて、スタートアップ企業やNPOなどに「越境」させ、一定期間働いてから、また元のホーム企業に戻って勤務する。そういう「冒険人材」のインタビューを通して、その人に何が起こっているのかを調査、分析し、その結果がまとめられています。

私は、企業で働くことの窮屈さに耐えられず、個人開業し、フリーランスという働き方を選択しましたが、ここで言及されている「越境」の感覚はなぜか共感できるものが多かったです。以下、共感できた点について書きたいと思います。

脱社会化

企業主導で、ホーム企業からアウェイ企業に「越境」する冒険人材は、越境前に「脱社会化」するためのプログラムを実施するそうです。これは、所属企業に同化している自分を、一度、組織から切り離すことを意味します。組織に過剰適応し、組織の価値観と自分の価値観が一体化している場合、越境前に、自身の価値観を組織の価値観から引き剥がし、自分の言葉で語れるようにすることが必要なのだそうです。

これは、組織にどっぷりと浸かり、目の前に現れる課題に日々格闘するという経験を繰り返してきた私にも、よくわかる感覚です。「ここは私がなんとかしないと」という責任感で働いていると、だんだんと自分が組織を背負っているような感覚になります。周りに頼りにされるとなおさらその感覚が強くなります。そして、おそらく組織と自分が一体化していることに、本人は気づかなくなっていくのではないかと思います。

「越境」するときには、この感覚をあえて引き剥がすというのが非常に興味深いと思いました。組織でなく、自分が大切にしている価値観とは何かを言語化する。これは、結構タフな課題だと思いました。

なぜ「脱社会化」が必要なのかというと、所属組織のアイデンティティを持ったまま越境しても、ホーム組織の常識を疑うほどの違和感や葛藤が生まれにくいからだそうです。本書では、このマインドの違いを「見学者」と「冒険者」というメタファーで説明しています。慣れ親しんだ組織から離れ、一個人として、越境先に飛び込もうという「冒険者」マインドを得るためには、価値観の引き剥がしが必要なのだそうです。

「学習」には、常識を揺るがすような違和感や葛藤が大きく影響するのですが、そういった「学習」のためには、自分自身の持つ価値観を自己認識することが必要だという点が、非常に興味深いと思いました。

越境学習者は二度死ぬ

これも衝撃的な言葉です。これまで慣れ親しんだホーム組織から、別の文化を持ったアウェイ組織で働くわけですから、越境先で「死ぬ」のはわかるような気がします。越境先には、上司もいませんし、誰も指示してくれる人がいません。

そういう状況では、全てを自分で判断し、自分の意志で動かなければなりません。これは、結構大変な経験です。大きな違和感や葛藤が生まれるのも想像できます。

しかし、注目すべきなのは、「二度目の死」=越境する前のホーム企業に戻ってきたときです。これまで自分が慣れ親しんだ組織が違って見えるようになる。ここでも「違和感」が生まれるのです。しかも、こちらの葛藤の方が根深いように感じました。

この点も私の経験に置き換えて考えると、これまで、ずっと組織の中で働いてきた私がフリーランスになったという経験は、いわば、強制的に「引き剥がし」作業を行ったと言えます。そして、自分の意志で、他業界の人と一緒に仕事をするという選択をしました。そういう経験を経て、改めて自分がいた業界を眺めてみると、どうも違和感を感じてしまいます。

今は、フリーランスなので、組織より、自分の属する業界や職業自体に違和感を感じることがあります。私は、どこに戻ればいいんだろうというのが、ここ最近の私の葛藤です。

「越境学習」は自立のための「学習」?

『越境学習入門』では、「越境学習」と「経験学習」との違いを明確にしています。「経験学習」では、自分の経験をリフレクションし、抽象度をあげながら専門性を深化させていく「学習」だと言えます。一方で、「越境学習」は、あえて全く別の世界に踏み出すことによって視野が広がり、自分の専門性ってなんだろうと考えることになります。自分の立ち位置さえ、揺るがすような「学習」だと思いました。

「経験学習」については、以前に以下の記事を書きました。

改めて読んでみると、自身の実践知を「概念化」する際、「越境学習」で得られる広い視野も必要ではないかと感じました。「経験学習」も「越境学習」もどちらが優れていて、どちらがより重要だというものではなく、同時進行的に行ったり来たりすることが必要なのではないかと思いました。向かっているベクトルが違うのですが、切り分けて考えるのは難しいなあという印象です。

『越境学習入門』では、企業における人材育成という文脈で書かれています。しかし、「越境」をするのはあくまでも個人です。本書を読むと、組織のためというよりも、むしろ、自分の価値観や立ち位置をしっかりと認識し、自立をするための「学習」ではないかと思いました。

そこで、「越境」を考えるために、もう一冊、紹介したいと思います。以下の著書では、「越境学習」をより個人の生き方にフォーカスして書かれていると思いました。

長岡健(2021)『みんなのアンラーニング論 ー組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ』 翔泳社

副題に「組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ」とありますから、まさに、個人の「学習」にフォーカスした「アンラーニング論」です。タイトルには「越境」の文字がありませんが、「アンラーニング」に「越境」は欠かせないのではないかと思いました。著者の長岡氏の愛にあふれた「学習論」です。

本書は、次の言葉から始まります。

「アンラーニングしながら働き、生きる」とは、どういうことか。無味乾燥な用語の定義や箇条書きしたノウハウより、もっと鮮明なイメージを共有することから、”知的探索の旅”を始めましょう。

『みんなのアンラーニング論 ー組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ』p.20

「働き方・生き方と学習の関係を再構築していく”知的探索の旅”(p.154)」とも書かれており、本書を読み進めるプロセスは、「学習とは何か」を考える「知的探索」をしているようでした。

「アンラーニングとは・・・だ」と答えを出すのではなく、最後まで「探索の旅」が続きます。本書の内容についてまとめることは、著者の意にそぐわないと思いますので、ここでは、私の「知的探索」のプロセスについて書きたいと思います。

学習は手段なのか

『越境学習入門』では、企業主導の越境学習の事例が取れ上げられていました。つまり、人材育成という文脈で「越境学習」が語られています。

しかし、本書では、人材育成という文脈で行われた「経験学習」を取り上げ、「学習が手段化」したことを指摘しています。そして、長岡氏は、繰り返し「学習は手段なのか」と投げかけています。

ここでは、本当に組織から飛び出し、それぞれの価値観やビジョンに従って生きている魅力的な人たちの事例が取り上げられていました。今の私の「フリーランス」という働き方を考えると、こちらの「越境」事例の方が近いと思いました。

ただ、私はここで紹介されている方々のように、本当に自由に、組織に縛られずに生きているのだろうかと考えると何か違うように思いました。この違いはどこにあるのだろう?

「学習」とは何か、「アンラーニング」とは何か、「学習」を自身のテーマにしながらも、本当の「学習」の意味を私自身が理解してないのではないかと思いました。

プロセスとしての越境

そこで、もう一度「越境」について考えてみます。と言いつつ、本書は、「アンラーニング論」について書かれたものであり、「越境学習」について書かれたものではありません。(実際に「越境学習」という用語は使われていません)「越境」とは、自分自身を揺さぶるための「プロセス」とされ、以下のようにまとめてられています。

越境とは、これまで興味がなかったテーマ、直接的な利害関係が薄い人物、自分とは異なる価値観などにあえて触れていく体験を通じて、自分自身を揺さぶりながら、自分にとって当たり前な考え方やモノの見方を見つめ直し、自分の進むべき方向や目指したい未来像を探索すること

『みんなのアンラーニング論 ー組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ』p.104

私自身、フリーランスとして働くようになり、これまでとは、異なる価値観を持った人や、これまで縁のなかった業界の人と接することが多くなりました。そうすると、これまで当たり前のように自分の中に存在していた「日本語教師」という職業が、人によって全く違う捉え方をされていたり、そもそもその価値さえ認められていないと感じることもあります。存在自体が根底から揺さぶられます。

本書では、「越境で大切なのは脱予定調和を楽しむこと」とありますが、こうなってくると、プロセスを楽しむどころか、モヤモヤだらけで、迷子になってしまうこともあります。先の『越境学習入門』の言葉を借りれば、越境学習者として二度目の「死」を迎えているのかもしれません。

一方で、これは「自分の進むべき方向」を探索するための大きなチャンスでもあると考えられます。これまで培った価値観を、一旦、引き剥がすときがきているのかもしれないと思いました。他人の規定によって縛られる職業に依存するのでなく、自分の判断でもっと自由な生き方を模索していけばいいのだと思いました。まさに「アンラーニング」です。

2つの「アンラーニング」

「アンラーニング」が必要だ、となると、どうやってアンラーニングすればいいのかという発想になりがちですが、この発想は、長岡氏が危惧するように、「アンラーニング」が手段化することになってしまいます。

長岡氏は、「アンラーニング」に2種類があると整理します。一つが「変化に対応するためのアンラーニング」であり、もう一つが「学習を解き放すためのアンラーニング」です。前者は、「学習棄却」とも訳され、不適切になった知識やスキルを捨て去り、新しいものに入れ替えることだと説明しています。これを人材育成的なアンラーニングだとも指摘しています。

後者の「アンラーニング」は、「学びほぐし」と訳され、「因習化した知識や時代錯誤の価値観を捨て去ったかどうかの「結果」ではなく、行動を他者に縛られず、判断を他者に依存しない自分自身を醸成していく「プロセス」(p.200)」だと説明しています。

つまり、今、私が直面している「学習」は、後者の「アンラーニング」なのではないかと思いました。今、日本語教育業界では、ITツールや翻訳ツールの進化により、前者のアンラーニングが必要になっています。しかし、働き方、生き方を考えると、私自身は、後者のアンラーニングを必要としており、自分自身を揺さぶりまくっている真っ只中にあるのだと認識しました。

「学習」の本質を考えた時、揺さぶりに耐えられる耐性をつけていくことも、一つの「学習」のあり方なのだと思いました。こう考えると、なんだか今の状態が楽しく思えてきます。(単純)

ちょっと長くなりますが、楽しくなったついでに、下記の本も簡単に触れておきます。

石山恒貴 編著(2019)『地域とゆるくつながろう! ーサードプレイスと関係人口の時代』静岡新聞社

先の『越境学習入門』と同じ石山氏による著書ですが、こちらの本は、企業主導の「越境」とは全く違う文脈で書かれています。本書では、「越境」という言葉は使われていませんが、地域と関わりながら生きているこれまた魅力的な人たちの話が満載です。まさに「越境」する人々です。

ここに登場する人々は、みんないきいきしていて楽しそう。この本を初めて読んでから、少し時間が経っていましたが、今回「そういえば」と思い、もう一度読み返し、忘れていたものを思い出したような気がしました。

ということで、今回は、「越境」について考えながら、今の自分の生き方をもう一度振り返ってみました。この振り返りのプロセス自体が「学習」だなあ、と実感しつつ、「言語学習」というのは、「学習」の中のほんの一部分でしかないということを再認識しました。

ということは、日本語教師なんていう職業は、大きな「学習」の中のほんの一部を担っているにすぎず、そんなにこだわることないなあと思った次第です。やっぱり、「学習」は奥が深い。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!