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50年ぶりに読む「カラマーゾフの兄弟」


わたしは、ある大学の聴講生をしています。
大学の学生さんと一緒に講義を聞くのですが、現在はコロナ禍でオンライン授業となっています。
後期にわたしが選択した科目は、哲学に関する講義です。
その科目の先生が取り上げたのが、ドストエフスキイの「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の章でした。
実は、わたしは50年以上前の大学生のときに「カラマーゾフの兄弟」を読んでいましたが、「大審問官」に関する箇所はまったく記憶にありません。
この小説は読まなければいけないみたいな義務感から読んでいましたので、もっとも有名な「大審問官」を覚えていなかったものと思います。情けないことです。

この大審問官は、登場人物であるイワンが弟の修道僧アリョーシャに語った小説の中の物語であり、神の存在、人間の自由をテーマにしてます。
大審問官が捕らわれたイエスと思しき人に対して、なぜ今ごろ我々の邪魔をしに出てきたのかと責めます。お前は人間に自由な選択を与えたがために逆に人間を苦しめることとなった。我々は彼らの自由を制限することにより彼らを幸せにしているのだ。
当時の西ヨーロッパでは異端裁判により多くの人が火刑に処せられています。現に昨日も大審問官は100人くらいを火刑にしています。イエスと思しき人も火刑に処せられるため牢獄につながれました。
上記の大審問官とイエスの問答は、その牢獄で行われたのです。
イエスは一言も発せずに弁明しません。
大審問官の糾弾が終わると、イエスは変わることなく穏やかに大審問官の唇に接吻します。
大審問官はイエスを火刑にはできずに、「もうここには絶対来るな」と言ってイエスを牢獄から放ちます。

上記のような内容なのですが、なかなか上手くまとめることができません。
ただ、わたしはこの章を再読して、正直言いまして衝撃を受けました。
胸に匕首を突き付けられたような思いです。
今まで、哲学書や聖書や仏典なども読んできましたが、この有名な一章を覚えていなかったこと、この結末に対する自分なりの考えも述べられないことが何とも言えず愕然とします。

50年前「カラマーゾフの兄弟」を読んで何も感じなかった自分と今この小説を読んで衝撃を受けている自分との違いがあるのは、多少の慰めかもしれません。
ロシア文学では、トルストイばかり読んできてドストエフスキイをあまり読んでこなかったのは、バランスを欠いていました。
これから改めて「カラマーゾフの兄弟」を義務感からではなく読もう思います。



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