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夏目漱石「虞美人草」

漱石「野分」に続いて「虞美人草」を読了しました。
少し時間がかかりましたが、「虞美人草」は「野分」とは異なり、わたしには大変に面白く読むことができました。
それはストーリーの面白さではなく、登場人物の描き方の巧みさに惹き込まれたからです。
「明暗」における性格描写に対する漱石の技量が、すでにこの作品に感じられます。
それは小説を読むときのわたしの好みかもしれません。
登場人物がリアルに描けてないと、わたしには興が冷めてしまうのです。

本書の内容を簡略します。

甲野藤尾は、美貌で才気もあり男を虜にする女性である。腹違いの兄欽吾は、継母の思惑から家、財産を妹に譲る気でいる。藤尾は欽吾と同期で銀時計をもらった成績優秀の小野と結婚したい思いを抱いている。しかし小野は孤児から面倒を見てくれていた井上先生の娘小夜子と結婚をすることが暗黙の約束になっていた。また、欽吾の友人の宗近は、藤尾を嫁にもらう気持ちがあった。藤尾と小野が結婚へと交際を深めるなか、宗近は、小野が小夜子との約束の反古を知り、小野に思いとどまらせることとなる。欽吾には自身の妹糸子と結婚し甲野家からは出ないように勧める。藤尾は毒を呷って自死する。

ストーリー的には、最後に藤尾が自死するなど飛躍しすぎているのではないかと釈然としないものがあります。
しかし、そこに至るまでの人物の会話が生き生きと描かれており、読みごたえがあります。
たとえば小説冒頭の場面は、欽吾と宗近が比叡山に登りながらの会話ですが、「二百十日」の圭さんと碌さんの二人の会話を連想します。
ほかにも、宗近と妹糸子、藤尾と小野、小野と小夜子、小野と井上先生の会話など見事にリアルに人物を彷彿とさせます。

ここでは藤尾と母との会話を以下に引用してみます。
(夏目漱石全集  Kindle 版. ちくま文庫版準拠)

「家を襲ぐのがあんなに厭なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪いんだよ。あんな事を云って私達に当付けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮え切らないっちゃありゃしない。彼人の顔を見るたんびに阿母は疳癪が起ってね。……」 
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」 
「なに、通じても、不知を切ってるんだよ」 
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」  
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。 
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多にあるものかね。──それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃しなさい、阿母さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉じ籠って寝転んでるしさ。──そうして他人には財産を藤尾にやって自分は流浪するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」

本心を隠して表面的な世間体を繕いたい母(欽吾にとっては継母)の思惑が見事に表現されています。
複雑な人間関係のなかで育った漱石は、人間の心底の厭らしさをひしひしと感じていたのかもしれません。

本書にはもちろん厭らしさだけではなく、師弟愛や兄弟愛などの場面も多くあります。
井上先生に幼いころから世話になっている小野の先生へ思い、にもかかわらず藤尾に惹かれて娘小夜子との結婚を躊躇う心理的な葛藤、宗近の妹糸子に対する兄弟愛、欽吾と宗近との友情など情感があふれておりその心情に思わずホロリとしてしまいます。

正直言いまして、この作品は結末とその過程に違和感を覚えるものがありました。
また、表現も古い言い回しや漢語が多用されており、若干の読みにくさと俗っぽい文章のようにも感じられます。 
しかし、この小説の真価はそこにあるのではありません。
真の人間がリアルに描かれていることに、わたしは感銘しました。
「明暗」の後に本書を読んだわけですが、「明暗」で遺憾なく発揮されている漱石の技量は本書「虞美人草」においてすでに垣間見ることができます。

職業作家として初めての作品において、小説家漱石の真髄を伺うことができたことは、わたしにとって本書を読んだ価値がありました。  


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