#不思議系小説 佐布里
いつもは無駄に早起きをしているのに、今日に限って寝過ごして憂鬱なまま目を覚ました──
のっそりと起き上がって体をほぐしながらトイレを済ませ手を洗い、そのまま顔を洗ってタオルで拭く
臭い
このタオル、ゆうべから取り換えていないらしい。どうしてこう生臭くて変にすっぱいタオルが平気なんだろう。長年暮らしている実家の家族に朝から苛立ちながら歯磨きをする。ドラッグストアのポイントと交換した景品の歯磨き粉はプレミアムと謳っているもののかえって安っぽく感じる
少し毛先の開いた歯ブラシを口の中に突っ込んでシャコシャコと動かす。泡が舌にのびて気持ちが悪い。吐き出して口をゆすぐ
のそのそと着替え、前日に買い置きしておいた菓子パンを幾つか掴んでガレージに停めたクルマの助手席に放り込む。この中古の白いワゴン車もすっかり元を取るくらい乗ってきた。あちこち凹んだり古びたりしているので買い取り価格なんかつかないだろう、と乗りつぶすつもりでいる
だけどやっぱり、時々ちょっとむなしくなる
クルマなんぞ動けばいいと思っているのは確かだが、道路を走る他のクルマが羨ましい時もなくはない
自分よりボロくて運転も下手な奴がイキっているのは気分が悪いが、反面ちょっと安心する自分が居るのも確かだ
道路に出るだけで色々と目について、いちいち考え込んでしまうのは疲れているからだろう。菓子パンをかじりながら、寝過ごした罰であるかのように混み合う峠道をバカみたいに連なって走る。そのまま市街地に入ってまだドン詰まりの中でパンを食う
なんなんだ
なんなんだこの暮らしは
会社まであと少し
退社まであと少し
不満八割、諦め二割のこの生活もあと数か月で終わる
長い長い五年間だった。疲労と苛立ちと不満と死にたさのピークは昨年四月だっただろうか。この会社ではどれだけ努力しても何も変わらず、報われないことがハッキリわかった。どいつもこいつも安請け合いの押し付け合いを繰り返すのに辟易していたが、退社を決めるにあたってそれを逆手に取ることにした
自分が辞めたら困るくらい仕事してやればいい。お金になるなら休みもいらない、と、とにかく仕事をしたのだ。そして頃合いを見て辞めればいい、新しい仕事探そう、新しいことしよう
嫌なことがあっても(どうせ辞めるし)と思えば腹は立つもののやり過ごすことくらいは出来るようになったし、そうやって根を詰めて仕事をすると思いのほか時間も空いた。そういうヒマな日はそこらを走り回って日ごろあまり行かないようなところにも足を伸ばした。ただ結局、客先の発注ミスや急遽入った仕事のせいで急ぎの注文が入ったり、イレギュラーに振り回されたりすることは変わらなかった
だが必要以上にお客の立場になって急いだり焦ったりすることはなくなった
こっちが今どこにいてどれくらいの時間がかかるかなんて、結局向こうはわからないのだ。何かとアナログで世間から軽く二十年は遅れているであろうこの会社の現場がこんな時ばかりは役に立つ。携帯電話や電子端末こそ日常的に使われてはいるものの、未だに手書きの伝票や請求書を書いて、ファックスで回覧の書類なんかが回ってくる
そんな暮らし
どんな暮らし?
そんなに大切な暮らし……?
クルマの列は遅々として進まず、やっと最初の丁字路を右に曲がることが出来た
湖のほとりに広がる古い街並みは道路が狭く逃げ場がない。メインの通りの他に抜け道がないのだ。そこに通学の時間が重なって、角々(かどかど)には蛍光色のチョッキを着たヒマな年寄りが朝から黄色い旗をもってワラワラ立っている
不便だったかもしれないが今よりずっとマシな生活水準で日々を過ごし、給料をもらい、このクソみたいな渋滞の先でクソみたいな仕事をする連中を一体どんな風に見てやがるんだろう
新しく広げた道路には縁石で仕切られた歩道が出来た
そこをワラワラ歩く黄色い帽子たち。コイツらはコイツらで毎日タイヘンなんだろうな、学校なんて仕事以上に逃げ場がないし揉めたり暴れたりしたら立場もない
長い長い一生のうちのごく僅かな間でしかない数年間が、その後の一生の大部分を決めてしまう可能性すらある恐ろしい場所だ。そしてそんな場所に通う途中で、まさに今この場でどこぞのクルマが暴走してあの帽子の列に突っ込んだりしたらそこで終わるんだ
そのクルマが自分だったとしたら……と考えて、また少しハンドルを握る手に汗をかく
反対側のコンビニにわざわざ混み合う対向車線を右折して入ろうとするバカのせいでまた詰まる
この先の進行方向側に別のコンビニがあるのに、そうまでしてそこに入りたがる理由はなんなんだ
いつも思うが、このチェーンの客にはバカが多い気がする
特に交差点の信号を無視して駐車場を突っ切っていく奴や、突然無理やり割り込んでくる奴が多い
イケ好かないバカをイケ好かない店内放送とイケ好かないコマーシャルで調子に乗せてイケ好かない揚げた鶏肉や砂糖水と脂を溶かして食うイケ好かない氷を買わせている店だから当たり前と言えば当たり前で、むしろ理にかなってるとも言える
だが私の前には割り込むな
また渋滞しているときというのは、私の前に限ってそういう割り込み待ちの奴がいたり、交差点や店先の乗り入れ口の前で止まったりしてしまう。そうなると気まずい
こっちだって急いでいるわけじゃないが、せっかく譲ってもなんの合図も出さず当然みたいな顔で入られると、足の小指を粉砕骨折しないかな、くらいは思う権利があるはずだ。今日もそんな風に何度も譲ってやった。自分も逆の立場になるのだからお互い様だが、合図をしたのはこのうちの一台だけだった
最後の交差点まで来た
左折レーンと直進・右折レーンがあって、直進して坂道を登れば愛しのわが社だ
今の気分のように薄暗くどんより曇っている空からパラパラと雨が降り出した。このまま仕事を始めれば、最初の配達に行く頃には本降りだろう。上着もシャツもズボンも靴までずぶ濡れで一日過ごすことになる
そんな生活もあともう少しだと思えば……思っても……思ったところで無理なものは無理だ
ああーあ、どうしようかなあ……
と小さな声で口に出して独り言をこぼしてみる
今日一日の仕事の流れは何となく決まっていた。アレとコレとココを回って、あとは時間が開いたらアレとコレを片付けて急な注文を寄越しそうなのはアイツとコイツで……と言った具合に
だが、それとは裏腹に心も既に決まっていた
体はとっくに動いていた
どうせ自分が居なくたって誰かがやる仕事なのだ
自分が辞めたら困るだろう、困ればいいと思ってやってきたが所詮はその程度の事でしかない。居なくなった奴の分は誰かが泥をかぶるだけだ
そうして私もかぶってきたし、私がかぶせた奴もいるのだろう
そんなことを考えるフリをしつつ私のクルマは左折レーンに入って、そのまま矢印信号に従って道路を左へ
関所の手前で旧道に入って国道に抜け、すぐ近くのインターチェンジでバイパスに乗った。そして西へ、西へ向かった
ここも混み合っているが、もう勝手にしろ
携帯電話の電源を切ってオーディオの音量をぐんと上げる
Foo Fightersの初期のナンバーが流れ出し、Dave Grohlが「やれやれ……」と歌う
相変わらず渋滞は続く
動脈硬化のように毎朝そこかしこで故障や事故に遭った車が道路脇に止められてそこで流れが詰まる
こればっかりは、いつ自分もそうなるかわからない
今日は四トンのトラックと赤い可愛い軽自動車だった。だが車外に出て小雨の降りしきるなか携帯電話を握りしめて何やらペコペコしている中年のオッサンと、トラックの運転手らしき前掛けをして如何にも苛立ちを露わにした金髪の青年以外にその場に誰も出ていない。あの赤い可愛い軽自動車はオッサンのだろうか
自分も目の前に停まっている
交通安全 皆様の夢を乗せて運ぶ 福島縣
なんて書かれたトラックの荷台に突っ込んでボンネットをベッコリ凹ませて路肩に停めてたら、そんな風に見られてゆくのだろうか
バイパスの終点までやってきた
通勤時間を少し超えたが、このまま混雑する交差点を左折して国道をさらに西へ
海の見える道路を走って、狭い抜け道を通り抜けて、もう一度バイパスに乗る
今度は果てしなく三重県の亀山まで続く道だ。そこから違うバイパスに乗れば奈良県の天理まで行ける。そこからなら大阪までもすぐだ
だが今はまだ愛知県にいる
この道がそんな風にどこまでも続いていることなんてあまり考えず目的地までただ走るために乗る人が運転するクルマに紛れて、なんの目的もなくただ軽めの逃避行を近場で済ませようとする私がいることなんて誰も知らないだろう
どこへ行ったか所在を知りたい連中も何人かいるはずだが今はどうでもいい
このまま西へ進んで行こう。どこかで適当に降りればいい
信号もなく、ピークを超えればさしたる混雑もないバイパスは実に快適でいい
雨が予想に反して少しずつ勢いを失いはじめ、見通しのいい西の空が明るくなってきている。のどかな緑の田園と里山に、ぽつりぽつりと民家や工場
古い街角の狭い道路、果樹園、コンビニ
赤い鉄橋、矢作川
真新しい物流センター。トラックヤードからクジラのようにせり出してきて合流してくる大型トラック
時々猛スピードですり抜けて行く行儀の悪いオートバイ
まるでベルト式のロードムービーのように私の背景となって通り過ぎて行く風景と大小さまざまな乗り物たち
うっすらかすむ遠くの線路をトコトコ走っている赤い電車が、白色の混じった丸っこい特急列車とすれ違っているのが見え
あの中もすし詰めになっているに違いない。
幾ら混雑しても渋滞しても車の中は基本的に一人だ、パーソナルスペースで言えば十分広いに違いない。たまにある軽の社用車に三人も四人も乗っているのはまた別の地獄だろうが、フツーに考えたら朝のラッシュ時に一人きりの空間が確保されていることは実に恵まれていると言えるのではないか
いやそれよりも渋滞や混雑もなく通勤出来るか、そもそも働かなくてもいいぐらいお金があればそっちのがいいけど……。
暫く走って、適当なところでバイパスを降りた
別に意味などない。
なんとなくココらで良いかと思ってアッサリ降りた。まだ名古屋までもう少しある
安城市の高棚福釜インターから県道を左折。まっすぐ伸びた田舎道をそのままずんずん進むと高浜市に入り、踏切を越えた先から綴ら折れの坂を下りたら衣浦大橋に出る
海底トンネルを通ろうかとも思ったが、そのまま橋を渡ることにした
ただでさえ古くて狭い橋なのが平日はタンクローリーやトレーラーなど海底トンネルを通れない大型車両が多く、すぐに詰まってしまう
すっかり晴れた空のおかげでじりじりと気温が上がってきて、フロントガラスごしの日光の熱がだんだん不快になってくる。クルマが古いのであまりエアコンを強くするとアクセルを踏み込んでも走ってくれない
どうしたもんか、と思っているうちに直進レーンに入っていた
そのまま県道を真っすぐ走ると半田市を通り越して阿久比町に入る
のどかな丘陵地帯を延々続く坂道がアップダウンを繰り返す。田畑の合間に掘っ立て小屋だとか潰れて久しい店なんかが残る、よくある田舎道だ。やがて知多半島道路をくぐって阿久比インターを通り越すと、青く晴れた空に向かって赤と白の高圧鉄塔が規則正しく並んでいる
少しの間だけ建物が増えるが、そこを通り過ぎるとまた田舎道
上り坂の向こうには発電所の煙突やコンビナートがうっすら見える
青くでっかい空にクラゲみたいな白い雲がぽかり、ぷかりと浮かんでいる
のんきなもんだ。ついさっきまでどんより薄暗く雨まで降っていたというのに
こんなに天気が良くなるなら、やっぱり仕事をしておけば良かったかな?
そんなことも考えなくはなかったが、考えなかったということにしてアクセルを踏み込んだ
ぐいん
と神社の前のなだらかな上り坂を超えてしまえば知多市に入る
知多半島というだけあってここがその付け根に当たるが実はそんなに大きな街ではなかった気がする。そんな知多市
なんとなく次の交差点を曲がってみることにした
道路がだいぶ空いてきたので、今なら右折も億劫ではなさそうだったから
スっと曲がるとすぐにセブンイレブン。その向こうには赤茶けたレンガの壁をした会社があって、交差点
坂道の多いところをまっすぐ進み、梅が丘二丁目の交差点を右に曲がってみる
そのすぐ次のも右へ
何かに呼ばれたみたいにくねくねした坂道をまた登るとやがて両側に池が見えてきた
池の真ん中に橋が架かっていて、たもとの木製看板に書かれた池の名前は
佐布里
何て読むんだ
気が付けば家を出てからノンストップで三時間以上走り続けているせいでケツの筋肉が少し熱を持ち始めていた
橋を渡り切ったところ駐車場を見つけてそこに滑り込んで、ようやくエンジンを停めて外に出た
緑と水の匂いが濃密に溶け込んだ空気が実に爽快だ
まだガソリンにも余裕がある
このままどこまで走ろうか、とりあえず辺りを散策でもしながら決めるとしよう
空はすっかり晴れ上がって、池の水面にキラキラと乱反射する陽射しが踊っているように見えた
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