62.10:00 「人と違ってはいけない」と何故思ってしまうのか
最高気温27度予想の今日、文化の日。
自由と平和を愛し、文化をすすめる日だそうだ。
文化をすすめる、か。
日本の重要な文化である四季を重んじた様々な生活様式。
それを大切にしたくても、こうも暑い日が続く秋では移り行く季節を感じることもできない。
何処か切ない、文化の日である。
文化はどこで学ぶのか。
家庭の次に学ぶのは「学校」という組織である。
そこでは、算数や国語、理科、社会と教科に分けて文化を教えてくれる。
私が特に好きだった音楽も、もちろん文化だ。
ただ子どもたちは自分が文化を学んでいるとは感じていない。
「勉強」をしなければならないから、学んでいるのだ。
自分もそうだった。
実は、学校ではそういった教科で教えられる文化以外にも、学校という特殊な場所であるからこそ経験し、身につく文化もある。
分かりやすく教科書で教えたりしない文化。
そんな文化の一つに、「人と違ってはいけない。」というものがある。
誰に教えられたわけでもない。
けれどいつの間にか身についていた。
この「人と違ってはいけない。」という文化。
勿論、学校はそんなこと教えるつもりはないだろうし、問えば「教えていない」というだろう。
皆違って皆いい、という言葉すらある。
しかし、この「人と違ってはいけない。」という文化、言い換えれば価値観、は学校に根深く蔓延っていて、私たちを侵食してきたのが現実だ。
制服や髪形、持ち物、言動や態度、そういった日常生活の様々な場面で、「同じ」であることが求められているのだ。
私はこれに振り回された学校生活だった。
物凄く優等生を気取っていたので、この「同じであれ」という文化はもちろん当たり前のことだった。
逆に、違う人を見つけては悪口を言うような子どもだった。
本当に恥ずかしい。
特に、小学生の時幼馴染を傷つけたことを今も鮮明に覚えている。
体重測定の日、その子はぽっちゃりしていたので、標準である自分たちよりも少し重かった。
それをからかったのだ。
「違う」ことを。
その子は泣いて怒った。
当たり前だ。
私が100パーセント悪い。
傷ついた顔を今も覚えている。
そんな私だが、年々髪のくせがひどくなり思春期には相当な天然パーマになっていた。
周りは、黒くてサラサラの髪をした子たちばかり。
私は人と「違う」見た目になったのだ。
そこで、私は逆に「違う」ことを攻撃される立場になった。
持って生まれた身体的特徴は変えられない。
そして変える必要もないのだが、当時の私はそれを変えたくて仕方なかった。
そんな体に生んだ親を恨んだりもした。
髪をきつく結び、なるべく目立たなくしていた日々。
少しでもまっすぐな髪に見せたくて、色々な方法を試したりもした。
結局高校に入ってからは縮毛矯正をすることになった。
髪の毛の特徴で悩んでいた日々、私に「そのままでいい。人と違ってもいい。」と言ってくれる人は誰一人いなかった。
今の私はというと、随分前に縮毛矯正を卒業し、自分のくせを活かした髪形を楽しんでいる。
自分の髪が、そのままでもいいと思わせてくれた美容師の方との出会いや、自分の価値観の変化があったからだ。
「同じであれ」、「人と違ってはいけない。」と思い込んでいた学校生活とは違い、今私は社会のなかで文化を学んでいる。
社会では「違い」にこそ焦点があてられ、より「違う」人間こそが認められる傾向があるようだ。
ただ、突き詰めれば、これも「違う」ことを強要するようなある種の「同一化」の文化かもしれない。
そう深く考えだすとややこしいのだが、「違う」ことが認められるという点においては学校文化よりましなのだろう。
今言えるのは、「同じ」ことも「違う」ことも両方に価値があるのではないか、ということだ。
どちらも自分で選択したことであれば、それで良いのだ。
他人に強要されることではないということ。
「自分の価値観は自分で選ぶ自由がある。」
そんな文化が学校でも社会でも広がればいいのに、と今日「文化の日」に思う事であった。