スピンオフ作品「未熟な赤い果実」
僕が密かに想いを寄せていた女の子は、とても不思議な子だった。
僕の高校は、一般クラスと第一特進クラス。そして第二特進クラスが存在した。第一特進クラスは成績優秀者が在籍し、第二特進クラスは少し離れた校舎の南棟に教室があった。南棟は家庭科室や音楽室などがあり、実践科目を履修する時以外、一般クラスや第一特進クラスの生徒は立ち入らなかった。
第二特進クラスは謎に満ちていた。どこの中学校の出身かも、どんな生徒がいるのかも、よく分からなかった。僕ら一般クラスが、彼ら第二特進クラスと顔を合わせられるのは、全校集会の時くらいだけで、第二特進クラスに友人がいる生徒も周りにはいなかったし、正直何をしているクラスか分からなかった。ただ漠然と、「頭がいいんだろうなぁ」という程度に思っていた。
彼らの制服は、僕たち一般クラスや第一特進クラスの白いワイシャツではなく、黒いワイシャツだった。そのため、閉鎖的なクラスだったが、一目見れば分かった。
誰も寄り付かない、第二特進クラスのある南棟は日当たりがよく、人付き合いの苦手な僕は、南棟の階段で、よく購買部で買ったパンを食べていた。
その日も僕はいつもと同じように、南棟の階段で昼休みを過ごしていた。すると、誰かが階段から降りてくる足音を体に感じた。誰とも会ったことのなかった南棟で、僕はこの時、初めて彼女に会った。
階段を降りてきた彼女は小柄で瞳が大きく、長い髪を二つに結っていた。一見、おてんばそうな子だった。しかし、僕は彼女のワイシャツが黒であることに気づき、驚いた。
「ここで、なにしてるの?」
見た目は普通の女子高生に見えた。けれど彼女の声は掠れていて、大きな瞳は虚ろだった。それは到底子供の表情ではない。僕は少しだが、第二特進クラスが普通じゃないことを察した。
「こ、ここでよく、昼休みを過ごしてて……」
僕は咄嗟に言い訳をした。今まで南棟にいて、第二特進クラスの人間と遭遇したこともなかったから、焦っていたのだ。
「そう……」
彼女は静かにそう答えて、僕を通り過ぎ、階段を降りていった。
彼女は、まるで心が死んでいるかのような目をしていた。まだ僕たちには未来があって、これからどんな未来も切り開いていける力があるはずなのに、彼女はそれすらも見えていないかのようだった。よく通学の時、大人がそういう死んだような目をしているのはよく見るけれど、同じくらいの歳の子で、ああいう目をしている子を見るのは初めてだった。
関わらないのが一番だな、と僕は思った。ああいう子は心が病んでいるか、生い立ちに何かあるかくらいしかない。きっと過去や現在に引きずられて、中身がスカスカの人生を送ることしかできない人間だ。
けれど僕は彼女の目を忘れることができなかった。あんな虚ろで、生気のない目に、惹かれていた。
これが恋と呼ぶのか。正直分からなかった。惹かれる理由が分からない。健康でない人間に、なんの魅力があるというのか。強いていうなら、顔が少し可愛かったというだけ。だがそれ以上に彼女は心に面倒なものを抱えていそうだった。
それが、僕の手で彼女の死んだような瞳を蘇らせたいという欲求なのだと気付いた時には、僕はもう行動を起こしていた。
放課後、南棟で待ち伏せしていた僕は、下校しようとしていた彼女に声をかけた。
「話があるんだけど……」
他にいい引き止め方が思いつかなかった。あまりにもあからさまな引き止め方に、自分でも呆れた。
だけど彼女は表情一つ変えず、「分かった」と答えて、僕を南棟へ連れ込んだ。
僕の右手をつかむ彼女の手は氷のように冷たかったのに、なぜか僕の手は彼女に触れられた途端、メーターが振り切れたように、一気に熱を帯びた。この熱が彼女にバレていないか、気が気じゃなかった。だが、南棟の第二特進クラスの教室に着く頃には、彼女の氷のように冷たい手も、僕の熱で温かくなっていた。
「身体提供者志望……っていうことでいい?」
誰もいない、夕日の差し込む教室で彼女が僕に尋ねてきた。聞き慣れない言葉に、僕は首を横に振って「違う」と答えた。
「じゃ、何?」
おそらくこの時の彼女にとって、僕は心底面倒な存在だったと思う。
「君のこと、知りたいんだ」
彼女は驚いたみたいだった。僕の好意なんて、彼女には丸見えだった。
それから、僕は彼女と待ち合わせをして帰るようになった。一般クラスの僕と第二特進クラスの彼女は下校時間も違ったため、僕はいつも南棟に彼女を迎えに行った。一般クラスの校舎に彼女が来てもよかったが、変な噂が立ったら彼女が困ると思い、僕はいつも授業が終わるとすぐに南棟に向かった。
彼女は亜理という名前だった。最初は会話も続かなかったが、一緒に帰るのが1週間、2週間と経っていくうちに、彼女は変わっていった。
「晃は変わってる。あたしに声を掛けるなんて」
彼女は見る見るうちに元気になっていった。亜理はわがままで、僕はよく彼女に振り回された。それは女子高生らしい外見に心が近づいていっているかのようだった。
学校がある日だけでは話足りなくなった僕らは、休日に待ち合わせをして遊ぶようになった。ゲームセンターに行ったり、買い物に行ったりした。
亜理はもう、普通の女の子になっていた。あの虚ろな目は、もうどこにもなくなっていた。
僕は亜理の心が何か病に侵されていると思っていた。けれどそれは僕の勘違いで、亜理は人見知りなだけだったんだ。そう、自分の頭に刷り込もうとした。
ある日、僕は亜理に南棟の第二特進クラスに呼び出された。亜理が食べたいと言っていた、チョコレート菓子の新作を持って、僕は亜理の元へと向かった。
教室の中で僕を待っていた亜理は、どこか様子がおかしかった。僕が階段で亜理を初めて見た時と同じ、虚ろな目へと戻っていたのだ。
「もう、一緒にはいられない」
よく冗談を言う亜理にしては、度が過ぎていると思った。それが冗談ではなく本気だと気付いた僕は混乱し、亜理のために持って来たチョコレート菓子を床にばらまいた。
僕はもう戻れなかった。僕は彼女が好きだったし、おそらく彼女も僕の気持ちに気づいていた。それでも彼女が僕を拒否しなかったのは、少なからず僕を悪く思っていなかったからだ。
それが突然拒否され、僕は目の前が真っ暗になった。
「どうして……?理由を言ってよ」
「私は普通じゃないから」
亜理は虚ろな目で僕に語りかけた。
「そんなの理由になってないよ。ちゃんと説明してよ」
亜理が普通じゃないのは分かっていた。普通だったら、あんな虚ろな目なんてしない。
「私は、人に憑依できる体質だから」
「ひょうい……?」
彼女はおかしくなっているんだと思った。だから僕は笑って言った。
「そんな難しい冗談、面白くないよ。亜理」
いつもなら僕につられて笑ってくれるはずの亜理は、まったく笑わなかった。
「信じてくれないなら、見せてあげる」
そう言って一歩踏み出した亜理は、床に散らばったチョコレート菓子を容赦なく踏んで、僕へと近づいてきた。
亜理は僕をそっと抱き寄せた。心は絶望で真っ暗になっているはずなのに、身体は彼女に触れられて昂ぶっていた。
クラクラした。心臓が高鳴って、この場所が暑いのか寒いのか分からなくなった。
「ねぇ、窓を見て」
脳に直接語りかけてくるような亜理の声に、僕は辛うじて窓へと顔を向けた。
「今窓に写っているのは、自分?」
何を亜理は言っているのかと思った。自分が窓へ顔を向ければ自分の顔が反射して写る。そう思っていたのに、窓へと向いた僕の顔は、違う人間だった。
「え……?」
窓に反射する自分の顔をよく観察する。そこに写っているのは僕のはずなのに、そいつは僕の知らない表情をして、僕よりも色素の薄い髪色をしていた。
亜理はどこにもいなかった。
「亜理? 亜理?」
不安になって、僕は亜理の名前を呼んだ。すると、亜理の姿はないのに、「ここにいるよ」という亜理の返事が聞こえてきた。
亜理の声は、僕の中から聞こえていて、僕の脳に直接語りかけていた。
ふと、色素の薄くなった髪色は、亜理の髪質に似ていると思った。
「亜理、どういうことなの? 説明してよ」
混乱した僕は亜理を責めた。突然大きな目眩がし、膝から崩れ落ちると、暗く狭まった視界に亜理が現れた。
「あたしは人に憑依できる体質なの。小さい頃から国に管理されている。第二特進クラスの生徒は、みんな、あたしみたいな体質の憑依者。この学校にこのクラスがあるのは、あたしたち憑依者と身体を捧げる一般人を出会わせるため」
僕は何か合点がいった。第二特進クラスの生徒は、みな、亜理のような虚ろな目をしていた。それは彼らが普通の人間と違う生き方をしていたからだった。自由を持っていなかったからなんだ。
あれは僕が高校に入学した頃だった。それは亜理が高校に入学してくる以前。僕はもう1人、第二特進クラスの生徒を知っていた。話したことはなくて、2年学年が上の男子生徒だった。
そういえば、彼も他の人とは違う目をしていた。何か、僕のような普通の人間が知らないことを、山ほど見てきたような目をしていた。
僕は亜理の話を聞いて、彼も違う運命の中にいたことを知った。
「あたしはこれからの人生、この能力を使って人に憑依して、その人の身体を操って生きていかなきゃいけないの。だから、もう一緒にはいられない。今離れないと、もう離れられないような気がするから」
「僕じゃだめなの……? 僕が亜理に身体を捧げるのはだめなの?」
亜理の顔が強張った。
「……あたしは、戦わなきゃいけない。あたしに身体を捧げて、身体提供者になるってことは、あたしの代わりに人を傷つけて、あたしの代わりに殺されるかもしれないんだよ?」
「でも、亜理の一番そばに居られるんだよね?」
僕は何が何でも、彼女のそばに居たかった。人に傷つけられようと、殺されようと、今彼女に捨てられる苦しさに比べたら痛くないと思えた。
「ちゃんとよく考えてよ……。晃は何もわかってない……」
亜理の大きな目から、涙がポロポロと溢れた。
「亜理もよく考えてよ。僕は亜理のそばにいるために、まだ何も努力してない。それなのに突き放すのは、亜理の勝手すぎるよ」
「無理だよ……過去にも大切な人を身体提供者にした憑依者がいた。でもその人たちの関係はすぐに壊れた」
亜理の目が虚ろだった理由が分かった気がした。亜理にとって、きっと大切な人ができることだけが、唯一の希望だったのだ。
亜理の言う「大切な人を身体提供にした憑依者」というのはきっと近しい人間だ。その人間の壊れていく関係を見て、彼女は自分の人生に希望を失ったのだ。
「命が関わったら冷静でいられない! お互いにお互いを傷つける! あたしは、晃を傷つけたくない!」
彼女はわがままだ。だけど僕もわがままだった。
「僕は例え傷ついても、亜理のそばに居たいよ。亜理の一番近くにいる方法がそれしかないのなら、僕は喜んで亜理に身体を捧げるよ」
僕は、この繰り返す日常に辟易していた。僕は変化が欲しかった。血が沸騰するような興奮が欲しかった。そこに神様が亜理と出会わせてくれた。こんなわがままで、僕のことを本気で考えてくれる子に、僕はもう二度と出会えない気がした。
彼女の代わりに誰かを傷つけて、彼女の代わりに傷を受けて、彼女のために死ねるのなら、これ以上幸せなことはきっとない。
「ねぇ、亜理。僕は亜理が大好きだよ」
今まで言えなかったその言葉が、自然と口から溢れた。
「……あたしも」
亜理は目を見開いたまま、ポツリと答えた。僕は亜理が逃げないよう、亜理の両手を包み込むように握った。亜理の手は僕よりも熱かった。
「僕は亜理に、僕の身体も心も全部あげるよ」
彼女が、小さく頷いたのが分かった。
その日から、僕は彼女のために生きることを決めた。
END
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