建築教育とのアナロジーによるデザイン教育

デザイン教育は、何ができるようになってもらうことが目的なのだろうか?具体的なスキルセットはさておき、個人的には以下のようないくつかの目標を掲げている。丁寧に言語化していないので精確ではないが、自分自身が考えていることの芯はおおよそ外していないと思う。ちなみに本記事における「デザイン」とは、主にサービスデザインやco-designのことを指している。以下ではすべて端的に「デザイン」と記す。

  • 目の前の個人からシステム全体までに広がるホリスティックを捉えることができること、またそれぞれが絡みあう複雑性がそこにあるのだと知っていること

  • 具体的な介入を行うための能力と姿勢を持つこと

  • 自分の根底に思想的芯をもつこと

  • 歴史的流れのなかに自己を位置づけつつ、自分と混ぜ合わせながら未来に対して投げかけていくことができること

これらを考えるときに、建築教育の強さをひしひしと感じている。上記の四点を教育として伝達する歴史的機構が整っているというか、特性として上記がやりやすいとでもいうか。そしてそれゆえに、デザイン教育を建築教育とのアナロジーとして捉えていくことには一定のメリットがあると思う。筋が良いと思う。

それぞれについて書く。


1) システムのホリスティックな把握とその複雑性を受容するケイパビリティに関するデザイン教育と建築教育

デザインを行う上で、多様なアクターの複雑な絡みあいを理解するのは非常に重要なことだ。それは、HCDからシステミックデザイン、つまり「目の前の個人」から、「多様なアクターやサービスやインスティテューションが絡み合うアッサンブラージュの総体」までをホリスティックに捉えることを意味する。

ここで最重要なのは、それらを理解するための方法論のみならず、より一義的に「すべての物事は、おそるべき複雑性をもって絡み合っているのだ」ということの根本的な理解である―すべての物事は、適切に深掘るならば、一切の例外なく、複雑に絡みあっている。

アールトの授業では、HCDとシステミックデザイン双方の往来としてサービスデザインを捉えるという立場が取られていた。僕もこれに賛同する。そしてこれを捉えるうえでは、因果ループ図(イシューマップ)よりも、おそらくステークホルダーマップにその視点が明確にあらわれるように思う。

模式的に言えば、こうした絡みあいのシステミックな把握は、以下のように三レイヤーで捉えることができる。

個人 - フロントステージ(直接影響) - バックステージ(間接影響)

例えば介護サービスについて考えてみれば、被介護者となる個人がおり、それに対してフロントステージとして介護サービス事業者がおり、またバックステージとして制度側である県や国がいる。もちろん、各レイヤには複数のアクターがおり、それらは複雑に絡みあっている。

このそれぞれのレイヤー―個人、サービス、システムを丁寧に深掘りしていくなかで、おお、これは想像以上に一筋縄ではいかないぞ…ということが見えてくる。デザインはそこからしか始まらない、と僕は思っている。ここまで、つまり「複雑だということへの理解」まで辿り着くのは結構大変で、簡単なインタビューでは、課題提供者=サービス事業者が何をやっているか、何が課題か、までの理解に留まることが多く、その先の個々人のリアリティや、制度策定の歴史感やサービス事業者と制度策定者の複雑な相互形成プロセスについて理解することは難しい。

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さて、これを建築で見るとこのようになる。

個人 - 建築 - 都市

これが非常に強いのは、いずれもが極めてタンジブルな―そこにまざまざと存在するマテリアリティを有する―概念だということである。建築系の学生は、建築模型をつくり、都市模型をつくり、そのなかで建築=サービス、都市=システムの様態を具体的に検討することができる。歩き、触り、自分自身でつくりながら、その絡みあいの複雑さを知っていくことができる(さらにポイントは、ここで自身でつくっているという点だと思う。都市=システムとの関係性のなかに、自らの建築そのものを挿入していくという)。さらに、その時間的遡及も比較的現実に即している。都市の歴史も、場合によっては建築/土地の歴史も、そこにまざまざと記録が残っていることが多々ある。

これは果たして羨ましい。サービスにもシステムにもかたちはない。実際に具体を触りながら関係性や意義や影響を考えていきながら、それを抽象化していくことができればいいのだが、デザインははじめから終わりまで、インタンジブルなものの表面をなぞろうとするような営みに終始することが多い。またここでのリサーチは、制作と比較的距離がある。デザインリサーチとデザインプロセスそのものにはかなり距離があると感じている。さらにいえば、歴史的側面も見えづらい。どうしてこの制度が策定されたのか?事業者と制度のあいだにどんな軋轢があったのか?そうしたことは記録には残っていない。それぞれのアクターの記憶を辿る、地道で泥臭い作業である。

そんなことを考えると、むしろ建築的なところから始めたほうが、そしてそのあとにデザイン的なほうへと移行したほうが、こうした複雑さへの理解にもう少し直接的に辿り着けるのではないかと思ったりする。

近しい理解に至るために、僕たちはインタビューのみならず、フィールドワークをしたり、参与観察やシャドーイングを行ったり、いろいろなことを試みる。それでも、記録にないもの、言いたくないこと、信頼関係を構築するプロセス、そういうアンコントローラブルなものたちに僕たちはまみれながら、なかなかその一番リアルなところに触れることができずに、表層的なリサーチをして、表層的な提案をして満足してしまうことが多いように思う。

2) 強度ある介入に関するデザイン教育と建築教育

建築はモノをつくる。とりわけ、目の前の木材からはじめて、多様なサイズに展開できる点に強みがあると思う。

デザインは、とりわけ現代のデザインは、アプリやサービス、しくみなど、グラフィックにさえならないアウトプットを提供することが増加しつつある。これもまたインタンジブルであるがゆえに、ラストワンマイルとでもいうか、自分自身の接触的な理解やフィードバックがない。

椅子をつくってみる。触ってみる。座ってみる。壊れる。腐る。

こうしたタンジブルなマテリアリティからあらわれるリアルな体験そのものがないのは、なかなか苦しい。また、とりわけ僕の、地域におけるco-designという観点で見ると、即時的な介入、タンジブルな介入ができないという非力さを痛感することも多い。そこにベンチをつくるというたったひとつの介入が景色を変えることなんて、いくらでもある。そのときに、よし、といって、即座に木材を買ってきて作ることのできるアジリティのある建築学生たちと、まごついてしまう僕たちのあいだの距離。この距離は、具体的に空間を触り、場を物理的に生み出していくことを考えるとき、より顕著になる。建築学生はイベントやワークショップもできるけど、デザイナーはベンチをつくったりDIYしたりできない、というのでは、あまりに非対称性が大きいのではないか。ハイフィデリティなものでなくてもよいから、僕たちも本当は、さわり、つくり、ためしあいながら思考を深めていけるとよいのだが、と思う。

これを体験するために、僕たちはロールプレイをしたり、プロトタイプをしたり、実際にやってリフレクションをしてみたりするわけだけれども、それはそのフィデリティという観点でも、そのアジリティ/即時性という観点でも、建築的な行為にはやや劣っている。こうしたリアルなものを出力して試すという営みは、チラシとかポスターなどのグラフィック的なレベルでいいから(それが劣っているという意味ではまったくない)、忘れずに試み続けていきたいものだとおもう。

3) 思想についてのデザイン教育と建築教育

建築では思想が顕著に重要視されているような気がする。それも、しかしまた、そのうごめくマテリアリティに囲まれた自己を自覚させられるからなのではないかと思う。ありていに言えば、どう自分は他と違うのか/違うことをするのかの差別化を求められるからなんじゃないかなと。

あるいはまた、デザインにおける解決主義的なイデオロギーのもとでデザイナーが顕著に匿名化・透明化するのに対し、建築ではできあがるものに作家性が付与されることも多い(もちろんそうではないものが多々あることを理解しつつ)。こうしたなかで、ある種の権威性/作家性のもとでどう思想を表現していくかが求められるという側面もあるのか。

いずれにせよ、これは1)とも関係していることだと思うのだけれど、建築教育では、個々人が何をしたいのか、どういう都市/社会のために、どう建築で貢献しようとするのかという思想的基盤が常に求められる。これは、デザイン教育がむしろ他者の課題にある種依存することで思想的な深掘りを回避できてしまうこととは対照的だ。

もちろん、こうした思想を重視する建築教育の位置づけが、ひとりよがりで、地域/ユーザが求めるものよりもむしろ自分自身の表現として建築を使用してしまうというデメリットの側面を否定しない。けれども、デザイン教育において、どういう社会をつくっていきたいのか、私たちにとっての理想な社会とはなにか、を個々人が基盤として持てるような状況はどうにかして作っていきたいなあと思っている。

4) 過去/現在への参照についてのデザイン教育と建築教育

(サービス/co)デザインと建築の教育のあいだの極めて大きな差は、過去/歴史に対する参照が駆動するかどうかではないかとよく思っている。

これもマテリアリティが基盤になって生じている差異で、建築においては、「この素材はあの人らしい」「この表現はあの人らしい」みたいな歴史的な蓄積が写真なりその場なりに可視的に残っていて、それを模倣し学びながら歴史が進展してきた。建築学生は、材であれ、レイアウトであれ、表現であれ、常にマテリアルとして過去への参照を駆動させることができる(これについては、グラフィックデザインやプロダクトデザインにも同様の特徴がある)。

これに対してデザインは、過去への参照を起動させるのが極めて難しい―デザインにおいて参照すべきは成果よりむしろ「過程」だからである。一体どんな思想をもって、どこからどうお金が出て、どんなチーム編成で、どんなツールを用いて、どんな風に人を巻き込み、どんな風にインタビューを設計し、どんな風にデータを集め、どんな風に分析し、どんな風にインサイトを析出させ、それに対してどう案出しをし、どんな風に合意形成をし、誰を巻き込んで企画を確立し、どうやってそれを広報し、どうやって世界に産み落としたのか?―私たちに見えるのは、その最後のビジュアライズされたかけらだけである。参照できたかもしれない様々な要素は、すっかり捨象されてしまうのだ。

そして、このプロセス的な歴史の不足は、それが不足していることが理解されてさえいないがゆえに、まとまってアーカイブされたものがほとんどない。少なくとも私は残念ながら全く知らない。その結果、ツールやモデルは私たちの手のもとに残りつつも、そのプロセスそのものは何度も何度も「車輪の再発明」が繰り返されている。そうした記録は、デザインのノマド的な性質ゆえに、様々な領域の、様々などこかに、ぱらぱらと書き残されているのだろうと思う。でもそれは、見て分かるものではない、明確に残されたものも少ない。そうしたなかで私たちが学ぶのは、可視化された最終成果物のみなのである。

よいリサーチはプロセスを書き残す。そしてそれは、それ自体で価値のあるものだと思う。loftworkの「高齢社会の機会領域を探るデザインリサーチ」だとか。最近見たものでいえば、仙田さんの「患者の意思決定を支援する「俯瞰型」リーフレットの制作」とか。

森の研究上の興味関心はまさにこのあたりにある。参加型デザインは本来そのあたりこそが重要なリアリティであるにも関わらず、これらはほとんど記述されてこなかった。参加型デザインにかなり初期の段階で人類学的にもアプローチしてきたEhn, Bjorgvinsson, Binderらでさえ、この点を必ずしも適切に描写できていない。それらを適切に書き残し、デザインにおける参照を駆動させるための仕組みが絶対に必要だ。そうでなければ、デザインの価値は個々の再発明した車輪の強さに依存してしまう。そしてデザインは、内輪のコミュニティ内で互いの実践を口伝で参照しあう、小さく弱い流れに留まったままになってしまう。

この点、すなわちプロセスという観点で見てみると、これは建築教育においても問題になりつつあるように思う。すなわち、現在の建築はいまやSDL的観点でいえばまさに「サービス」になりつつある。建築はいまや「よき建築」を建てることを超えて、その過程で誰を巻き込み、どんな素材を用い、どう人々をエンパワメントし、どう人々を結びつけ、どう使用のなかで変化していくか、という現代的なデザインの観点を踏まえた実践が求められる領域である。にも関わらずやはり、建築でもこの領域は軽視されがちで、属人的な歴史性に依拠した蓄積が続いている(それでも「書き残す」ということには建築はまだ強いと思う。「都市の〈隙間〉からまちをつくろう」、「銭湯から広げるまちづくり」をはじめ、こうした実践を丁寧に書き残した記録はいくつも思い浮かびそうな気がする)。

このプロセス的なものを参照可能にしていく営みは、デザインだから建築だからということを超えて、様々な領域で試みるべきものだと僕は思っている。

終わりに

ここまで、4つの個人的にデザイン教育で達成したい点と、それに対して建築教育が先んじていると思う点について述べてきた。もちろん、そんなことないと思う人も多いのかもしれないし、建築だからといって最適な教育ができているとも思わない(まだよく知らない)。しかし、こうした点を踏まえて、建築教育とのアナロジーによってデザイン教育を捉えることは筋が良いことだと僕は思うし、そこで見えてくるハードルをひとつひとつ超えていければ、いいデザイン教育は達成できるんじゃないかと僕は思う。まだわからん。

ぜひみなさんからも、こんなことしてるよとか、こんな風にやったらいいんじゃないか、みたいなアイディアを聞かせてもらえたら嬉しいです。


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