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はじロー(8) 神の律法を誇っていても…

ローマ人への手紙2章17-24節

「人間」の問題は、本質的に互いにさばき合ってしまいがちということ!をずばり指摘して、ユダヤ人をはじめとしてギリシャ人も、自分の「律法」をたてに自己正当化していることを描き出していきます。

まず、ユダヤ人から。パウロは、「ユダヤ人」を自称する人たちに「あなた」と個人的に呼びかけるように書き始めます。

世界の民族それぞれに、自分たちの誇りとすることがらを持っているだろうと思います。多民族国家インドネシアの日常でも、あまり口にはしないものの、他の民族(部族)と比べて自分たちは、という意識がある感じです。

ユダヤ人は、自分はユダヤ人だという自意識を作る根幹にあるものがモーセの律法でした。

神が自分たちにこの教えを下さった、それで神のみこころを知ることができるのが私たちだ、日常生活のもろもろを指導してくれているのがこの律法、と、誇っていたようです。

そして、自分たちこそ異邦人社会の只中で律法の教師なんだ、と自負している姿をパウロは描いています。

でも、はたから見ていると、そう自負している人が実践では律法を無視している、とパウロはポロリと言います。当時、すでに数百年の律法の専門家の伝統があったのですが、言い伝えられている内容はモーセの律法そのものではなく、後から付け足された数千の規則集のほうだったのです。

人が作った規則は、案外とその時々の都合に合わせていて、本来の教えからずいぶんとはずれているのですが、作る人もそれを習慣に実践する人も、これが神の教え、と思ってしまっていたのです。

実例が福音書の中に載っています。

神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。
それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。
マタイの福音書15章4-6節

これがイエス・キリストの教えでした。パウロはキリストと心を一つにしていたのです。

伝統を尊重し、自分の民族に誇りを持つことは大切ですが、間違うと、独りよがりに陥ってしまうことを警告。しかも何より「神の民」が異邦人に先んじて神に反するしているようです。

人間が作った宗教、人間が作った神々とは違う、天から怒りを啓示する神に、ちゃんと申し開きができる人はいない、という結論は、このあとまもなくです。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、 また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。
ローマ人への手紙 2章 17〜24節


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