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子供の生活の中に神が生きて働いて下さるとは

(参考:創造的な聖書の教え方 第10章「生活の中に真理を」)

聖書は、歴史に学ぼう、という以上に学んで実践すべき内容。聖書が書かれた時にその書き手に働きかけていた聖霊が、聖書を読む人にも働きかけている。そして、読んだ人は、受け止めた言葉に従って行動を起こす。

自分勝手に読み取って、自分勝手に行動したことを、「神様に教えられた」と神様のせいにしてしまわないようにするにはどうするか。

以下の続きです。


「聖書が実践される生徒の家庭、活動現場で、聖霊がどのように働いてくださるか、私には知るわけがない」

インターネットを通じてどれほど多様な交流が生徒たちの間でなされているか。この世の人々との接点を持っているか。その中に入り込んで、青少年の心理を理解して、聖書の適用を教える、などというのは、不可能なことのように思える。

単純に、ただ一人の他人の生活ですら、はかり知ることのできないさまざまな問題に囲まれているわけで、その人ひとりを理解し、その人のための適用を考えるだけでもほとんど不可能。

では、聖書を教えられた子どもたちがそれぞれに自分で適用して実践するために、できることは、ただ祈ることだけなのか。

適用へのさまざまなアプローチ


誤った「適用のしかた」の授業をしていたら、生徒は、そのとおりに誤った適用のしかたを学ぶかもしれない。聖書に従った正しい習慣は身に着けるのが難しいものだが、誤った習慣は、おそらくもともと身に着いているために、何の苦もなくやりとげることができる。

内容だけで十分

クラスで教えられることは、聖書の内容だけ、というやり方をしていた場合、生徒は何を学び取るか。もしかしたら、「聖書とは読んで理解するだけでよい」ということを学んで終わり、実践することをまったく学ばないままに終わるかもしれない。

罪人である者は、罪人の習慣を身につけている。新しい人間になったとしても、習慣が自動的にすぐに更新されることはない。習慣は、やはり身に着くまでに、不断の意識改革が必要なのだ。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ12:2)

新しい習慣を身に着ける訓練が、クラスでなされる必要がある。

普遍化

聖書の物語(歴史)部分は、普遍的な教えとして解き明かされる必要がある。たいてい、聖書のほかの箇所で、その普遍化された教えというのが記載されている。それが見当たらない物語の瑣末は、普遍的な教えとし て語られるに至らないものかもしれない。

物語とそのイメージは、私たちの精神に深く印象を残す。それがどのような真理を指しているかを、明確に知る必要がある。そこから、自分自身に対する適用を考え始めることができる。知的な真理理解だけではなく、信仰者としての模範を具体的に物語の中に見出しながら、適用すべきことを考える。

それでは、生徒はすぐに聖書の登場人物と自分自身とを結びつけて考えることができるだろうか。多くの場合、「それは聖書の人物だから」と、自分と距離を置いてしまう。牧師や教師の体験にしても、「それは牧師だから」で済まされてしまう危険性は十分にある。

例話

特に、想像力がまだ十分に発達していない子供の場合は、自分を想定して問題を考える普遍化の作業は難しい。それで、現実の中で起こりうるいくつかの事例を、例話として話すことはできるだろう。でも、それすらも、その特定の実例を、自分自身の問題に 置き換えて考えるのは難しいかもしれない。罪人は、あえて、自分の罪の問題から目をそらそうとする傾向がある。

例話を提示するだけで、生徒が自分で適用すべき事柄・領域を考えることができるようになるには、もっと基本的な訓練がなされていなければならない。(礼拝説教を聞くための準備でもある。)


自分自身に適用するよう導く

クラスで、聖霊が生徒のすべてに働きかけてくださって、聖書の真理を各々、個人的に適用するようにしていただくことが、ここでの目標である。特定の誰かだけが、ではなく、伝えられた真理が、生徒一人々々の生活に触れるような方法を取る必要がある。

効果的な適用をする必要条件

真理は、自分の生活に関係付けられなければならない。

生徒各人は、固有の生活、必要がある。それに対して、聖書の真理を適用させるもっともふさわしい事柄・領域に、目を向けさせなければならない。聖書の真理を学んだなら、それを自分の生活の中でどう用いることができるかを、自分で発見させるための手助けをする。

適切な事柄・領域が探られなければならない。

はじめから成熟したクリスチャンがあるわけではない。成長の過程がある。それには、御言葉がどのように自分にかかわっているのかを理解する「場」が必要だ。御言葉をどのように読むべきかの訓練を受ける「場」が、日曜学校のクラスであり、聖書研究会の場である。「地方教会」の存在意義のひとつは、ともに御言葉を学ぶ場がそこにあるということだろう。

御言葉の適用すべき事柄・領域を探るための時間を、その場の中で持つ。そのような習慣を身に着けていないものにとっては、新しい経験だろう。聖書の真理が、自分の生活に、具体的にかかわる領域について思い巡らせることは、真に、聖書を神の御言葉として信じ、神がその領域に関わって下さることを期待することでもある。新しく生まれ変わった者だけが身につけることのできる、新しい習慣。

話し合いにおいて「保護」が必要:直接、生徒の過ちを尋ねだしていない。あからさまな罪の告白を、ここでは要求しない。(2サムエル12:1-6)

自分に適用するよう指導した結果

生徒が自分の生活の中で、その真理をどのように使ったらよいかを発見する。

計画した一つの機会で応答を実行することになれば、また別の新しい機会に実行することができる可能性が高くなる。

自主的に成長する能力を発達させる。教師に頼り続けるのではなく、自ら聖書を探るように、学びのパターンを身に着ける。

自分に適用するように指導する過程

普遍化(聖書箇所が与えている目的・目標)→種々の適用→敏感な領域の考察→個人的決断

教師と子供の対話がなされる。種々の適用は、最初に教師が導き与えるのは、教師に考え得る事例。子どもが実際に同じ経験をしていることは、もしかしたらあるかもしれないけれど、ごく限られた範囲。

それを呼び水にして、子どもたちから、何らかの経験を引き出すことができたらグッド。

「敏感な領域の考察」:自分の生活の中で、変えられるべき点を自覚するための導き。学んでいる聖書箇所の目的に沿って実行するのに、それを妨げていることを意識するような問いかけをする。

例)バプテスマのヨハネ

目標の普遍化(模範とされるヨハネの特質「他者と区別されるヨハネの特質は?」):物質的な快楽を重要視しない、神のメッセージを率直に語る、キリストを第一にする。

敏感な領域(普通の人とは異なる者について「アウトサイダー」):自分がアウトサイダーになることを恐れていないか。アウトサイダーな生活をしている友人を避けていないか。


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