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ドリアンのマタイ・ワールド

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マタイ福音書ノートの目次
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#イエスキリスト

マタイによる福音書

イエス・キリストの歴史と真理 ~「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」~系図(ギリシャ語でgenesis) マタイは、イエス・キリストの十二使徒のひとり(マタイ10:3)。自分に関して「取税人」とわざわざ肩書のように記しています。マルコもルカも、肩書なしのマタイとだけ紹介しているだけなのに(マルコ3:18,ルカ6:15)。エピソードの順序を時間順ではなくテーマごとにまとめて書いているマタイが、自分の出自を福音書9章に置いているのは、罪が赦された奇跡的な

山上の説教-至福の教え

幸せを実感できる、って、どういう時なのか。どういう人なのか。それを端的な言葉で語っているのが、キリストの八至福の教え。 聖書の言葉の中で、たぶんもっとも有名なのが山上の説教。その中でも特に、この説教の冒頭の八つの「幸福」は有名です。 1.心の貧しい人~天国は彼らのもの2.悲しんでいる人~慰められる3.柔和な人~地を受け継ぐ4.義に飢え渇いている人~義に飽き足りる5.あわれみ深い人~あわれみを受ける6.心の清い人~神を見る7.平和を作り出す人~神の子と呼ばれる8.義のために

ピュア~小さい時は神様がいた~

マタイ5:8 私の場合は、小さい頃は神様がいなくって、大人になってから付き合い始めた。 小学校4年生か5年生の頃だったと思うけれど、学校から帰ってきて家の玄関を入る瞬間、なぜか、自分は「ひとり」だと感じたことがありました。前後の脈絡も何も覚えていないけれど。 それで、ほかに頼れるものはないのだから、自分が頑張らなきゃ、と、努力タイプの人生を歩み始めていたんですね。 もっと小さい頃には、神さまがいたんだろうか。なぜか、昔の記憶はほとんどないのです。 心の清い人たちは

あわれみ、って?

マタイ5:7 ~マタイが受けたあわれみ~ Levi'sと言えば、ジーンズが特に好きな人じゃなくても知っているブランド名。カタカナ名にすると「レビ」(世界人名辞典)。福音書を書いた「マタイ」は、本名はレビでした。 イスラエル民族の中で、旧約聖書の時代、「レビ」は宗教を担当する特別な部族でした。それが、この「マタイ」と呼ばれるようになった人物は、他人からはさげすまれるような職業についていて、宗教家からは社会の敵みたいに思われていた人。 でもその「レビ」がイエス・キリストの福

タダシさを追い求める人の天国

マタイ5:6  ~やさしさのあとの正しさ~ 天国に入れる一番手は正しい人じゃなかった!ということ?「さいわいな人」の4番目でようやく、「正しさ」がでてきます。 たしかに、この世では正しいと思っている人どうしのぶつかり合いが多いし、オーバーヒートにもなりがちだし。やさしさを身に着けてから、正しいことは何かを考えるのは、正しいのかも。。。 義に飢えかわいている人たちは、 さいわいである、彼らは 飽き足りるようになるであろう。 “正しい”のではなく”飢えかわいている”熱帯の

天国のやさしさ

マタイ5:5 ~やさしさが世界を包むときが来る~  世界の富裕層トップ何人かの資産が貧困層何十億人の資産と同じ、というような報道があります。土地の所有はどうなのでしょう? そして最後に地を所有することになるのは、だれなのでしょうか。 柔和な人たちは、 さいわいである、彼らは 地を受けつぐであろう。 それは柔和な人たちだ、とイエス・キリストは言いましたが、裕福さが人をやさしくするということ、なのでしょうか。。。 地を受け継ぐさいわいは、この山上の説教を聞いている人に向け

自分の居場所が天国になる

マタイ5:4 ~自分の居場所を喜ぶ~  自分の居場所がなくて放浪しなければならない、って、、、 「ヨソモノ」がその地に溶け込むまで10年はかかるかもしれません。もしかしたら、いつまでたってもそうならないかも、と考えたら、どうやって生きていけるのでしょうか。 海外で暮らしていると、けっこう身につまされる状況です。 悲しんでいる人たちは、 さいわいである、彼らは 慰められるであろう。  他民族に支配されている者への約束の言葉今から二千年前、イエス・キリストが山上の説教を

毎日が天国

マタイ5:3 ~今、永遠の命を生きる~ 日本では、聖書の中で一番有名な箇所かもしれません。山上の説教と呼ばれる個所の冒頭の言葉です。 こころの貧しい人たちは、 さいわいである、 天国は彼らのものである。 天国は近づいた、天国は彼らのものイエス・キリストは、すぐ前の章で「悔い改めよ、天国は近づいた。」とのメッセージを伝えています。五章のここでは、近づいただけでなく、すでにその人の手中にある、と宣言しているわけです。その人こそが本当に幸せなんだ、と。 好きではない言葉の

パッションとミッション

マタイ28:16-20 ネバー・エンディング・ストーリーというファンタジー映画 (原作はドイツ語の子供向けファンタジー小説) がありました。物語が本の中にとどまらず、今の自分にかかわってくる、と。。。 マタイの福音書も、そんな感じです。 エルサレムの郊外で十字架にかけられたイエス・キリストが、復活。このパッションの物語が、福音書の頂上。そこから一気にジャンプ台から踏み切る、という最後を迎えます。 アジアの東の端に生まれて、アジアの西の端のことなど遠い世界で全く知らなか

髑髏(されこうべ)の場

マタイ27:32-44 日常生活圏に「されこうべの場」という名前がついている所があったら、あまり近寄りたくない場所というイメージです。 1998年、インドネシアで私たちの通勤途上の道沿いで起きた「呪い師AS事件」の現場は、一時期、観光地のようでした。呪い師が次々と殺していた人の白骨体が、見つかっただけで40体以上。現場検証で掘り出された頭蓋骨を手にして記念撮影をする「観光客」と、その客目当ての屋台や臨時駐車場が周辺に急増。 今から2000年前に十字架刑が行われていた場所

喜びのあいさつ

マタイ28:1-10 朝起きて、最初に出会う人にあいさつをする時、どんな気持ち?普通?それともうれしい? 何人かの女性たちにとって、この日曜日は特別でした。特別な人とあいさつを交わしたのですから。  さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。

極刑と恩赦

マタイ27:11-31 罪に対する刑罰は当然。その最も重いのが「極刑」と言われる死刑。論争はあるけれど、被害者の家族の心情からしたら、それを求めるのも無理はないなぁ、と思えるのも確か。 命には命、目には目、歯には歯、、、償わせなければならないと定められているのが旧約の律法です。 でも、イエス・キリストの命を強硬に求めた宗教家たちは、自分たちが何か被害を受けたからと極刑を要求したのではありませんでした。 神の真理にではなく宗教の伝統に根ざしてしまっていたための、キリスト

深い後悔、絶望に終わらぬために

マタイ27:1-10 事故物件の取り扱いはいろいろと限られてくるものです。2000年前に起きた一つの自殺もそうでした。 イスカリオテのユダが自殺して、ユダから投げ返されたお金をどうするかが問題となります。神殿で使うわけにはいかない。 それで、ユダヤ人にとっては、おそらく当時、すでに多く存在していた「外国人巡礼者」で巡礼のさなかで死亡した人の墓地をどうするか、という問題があったのでしょう。 神殿も、ユダヤ人男性が入ってよい区域、ユダヤ人女性が入ってよい区域、その外側にあ

自分を知る時

マタイ26:69-75 いざという時に自分がどう行動するのか。 いろいろな危機管理の想定はありますが、個人の危機管理は、なかなか難しいものです。いざという時に、自分がどうするかわからない、というところが正直なところ。 もしかしたら、その時の姿が、自分で知らなかった本当の自分かも。 そうした記録が、福音書にあります。一番弟子を自認していたと思えるペテロの失敗談が赤裸々に記されているのです。イエス・キリストの一番弟子でもそうなのか、と、安心させてくれるための物語かと思える