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髑髏(されこうべ)の場

マタイ27:32-44

日常生活圏に「されこうべの場」という名前がついている所があったら、あまり近寄りたくない場所というイメージです。

1998年、インドネシアで私たちの通勤途上の道沿いで起きた「呪い師AS事件」の現場は、一時期、観光地のようでした。呪い師が次々と殺していた人の白骨体が、見つかっただけで40体以上。現場検証で掘り出された頭蓋骨を手にして記念撮影をする「観光客」と、その客目当ての屋台や臨時駐車場が周辺に急増。

今から2000年前に十字架刑が行われていた場所は、苦痛と悲惨が満ち、特にユダヤ人には呪われた所として、観光地になりようがありませんでした。凶悪犯として処刑された人々の白骨体がごろごろしていたとは思えませんが、遠回りになってでも避けて行くでしょう。

イエス・キリストがエルサレム市内を引き回され、ついた場所が「されこうべの場」でした。

 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。 そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。
 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、 そこにすわってイエスの番をしていた。 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

1.兵士によって無理に負わせられた十字架

イエスをもてあそんだ兵士たちが、刑場へと引き連れていきます。その途中で出会った「シモン」というクレネ人。

イエス・キリストの裁判が行われた総督邸までついていきながら、「イエスなんて知らない」とおびえて保身に徹し、逃げてしまった「シモン・ペテロ」へのあてつけではないでしょうが、たまたまここでイエスの十字架を無理に負わせられたのが、シモンでした。

福音書では、登場人物のすべての名前が明かされているわけではありません。福音書が書かれた時点で、個人情報を出しても大丈夫な教会の指導者の名前が記載されているようにも思えます。もしかしたら、シモンが教会指導者になったきっかけは、イエス・キリストを間近に見て、その十字架を負わせられて「されこうべの場」まで一緒に行ったことだったかもしれません。

シモンは「無理に」でしたが、イエス・キリストが十字架刑にさせられたのは、決して「無理に」ではありませんでした。ここに至るまでのイエス・キリストの言動は、自分から進んで十字架刑にかかろうとするものだったのです。

ゲッセマネの園でイエス・キリストは「父のみこころのままに」と祈っていました。

イエス・キリストを捕らえようとやってきた人々に、シモン・ペテロが剣で切り付けて抵抗を示したことをイエスは止め、自分から捕らえられるために進み出ていました。

ユダヤ教の宗教裁判では、積極的に自らを旧約聖書の預言で描かれている神的なものであることを証言し、それが決定的な死刑の根拠となります。

ローマ帝国の総督による裁判でも、イエス・キリストに不利な証言に対する反論を全くせず、「ユダヤ人の王」であることに、やはり積極的に答えるのです。


2.イエス・キリストの十字架の周辺描写

イエス・キリストの着物が、兵士によって分けられます。くじを引いて、とは、縫い目のない下着を、くじで当たった人に与えられたことをさします。イエス・キリストは、裸にされて十字架にかけられたのでした。

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マタイの福音書を初めから読むと、「預言者によって言われたことの成就するため」というフレーズが繰り返し出てきます。それで、マタイが福音書を書いた時に想定されていた最初の読者がユダヤ人だったからだろう、と考えられています。ユダヤ人にとっては、預言の通りに成就した数々の出来事は、イエスが預言の通りのキリスト、王であることの証拠でした

ところが、十字架の場面では、このフレーズが全く書かれていません。十字架に掲げられた「ユダヤ人の王」という言葉とは対照的に、まるで預言されていた「王」であることをいったん後回しにしているかのようです。それとも、書くまでもなく、ユダヤ人だったら知り尽くしているはずの預言の成就だ、ということだったのでしょうか。

さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。

ヨハネによる福音書19章23-24節


兵卒たちがその預言を知っていて、その通りに演じたかのようです。でも、ローマ兵がユダヤ人の聖書の預言を知っていたはずはありません。彼らの行為は、キリストの十字架刑よりも千年前に書かれた詩篇に描かれていて、しかもこの後の十字架のいくつかの出来事もこの詩篇にあるのです。

詩篇22篇
1わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
・・・
6しかし、わたしは虫であって、人ではない。
人にそしられ、民に侮られる。
7すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、
くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
8「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。
主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
・・・
14わたしは水のように注ぎ出され、
わたしの骨はことごとくはずれ、
わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。
15わたしの力は陶器の破片のようにかわき、
わたしの舌はあごにつく。
あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
16まことに、犬はわたしをめぐり、
悪を行う者の群れがわたしを囲んで、
わたしの手と足を刺し貫いた。
17わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。
彼らは目をとめて、わたしを見る。
18彼らは互にわたしの衣服を分け、
わたしの着物をくじ引にする。
・・・


紀元前1000年に書かれた、ダビデ王の詩です。

十字架の周辺には、神の見えない手がしっかりと働いていたのです。

3.とがある者と共に数えられた「王」

髑髏の場は、十字架にかけられた人を見物したい人が自由に十字架に近づけたようです。

そうして外部からやってきた人たちは、皆、誹謗中傷の言葉を投げつけていきます。

「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。」

大祭司の邸宅で行われた裁判でも言われていたことでした。もともとは、イエス・キリストが、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」と語ったことを受けて、それを揶揄しているのでした。

ヨハネによる福音書では、その言葉はイエス・キリスト自身の復活を予告したもの、と解説されています。でも、そうしたことを信じない者にとっては、数十年も改築が進んでいる大規模なエルサレム神殿を壊してそれを立て直す力がある者、というようにだけしか解釈できない言葉だったのです。

そして、もうひとつ。

「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。」

ユダヤ人だったら避けていくはずの場所に、祭司長たちはわざわざやってきて、このように呼びかけます。

生まれつき足がきかない人、生まれつき目が見えなかった人、耳が聞こえず口もきけなかった人。その他多くの病気の人を癒し、悪霊を追い出したことは、中傷する人々も認めないわけにはいかない事実だったのです。その上で、「自分自身を救うことができない」と、あざけります。

ユダヤ教の指導者たちもイスラエルの王の到来を待ち望みながらも、イエスは偽の王だと断定して、そのように自称していたものとして、こんな言葉をイエスに投げつけていたのです。

そして、「もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」「いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。」と挑戦的な言葉。十字架から降りることなどできないだろう、との嘲りでした。

からだにも暴行を受け、言葉でも暴力を受けていたのが、髑髏の場です。

それらを預言している言葉。

イザヤ53章
2彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
・・・
11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。

十字架の時間は、こうして前半が過ぎていきました。

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