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深い後悔、絶望に終わらぬために

マタイ27:1-10

事故物件の取り扱いはいろいろと限られてくるものです。2000年前に起きた一つの自殺もそうでした。

イスカリオテのユダが自殺して、ユダから投げ返されたお金をどうするかが問題となります。神殿で使うわけにはいかない。

それで、ユダヤ人にとっては、おそらく当時、すでに多く存在していた「外国人巡礼者」で巡礼のさなかで死亡した人の墓地をどうするか、という問題があったのでしょう。

神殿も、ユダヤ人男性が入ってよい区域、ユダヤ人女性が入ってよい区域、その外側にある外国人はここまでなら入ってもよい区域に分けられていました。

ユダが投げ返したお金で、その外国人墓地の土地を買うことにしたのでした。

自殺したユダ本人は、宗教家たちからは一顧だにされなかったのです。

夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、
「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。
しかし彼らは言った、
「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、
「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくのない」。
そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。

1.魔が差したユダの後悔

イエス裁判が終わります。ユダヤ教の最高法院は、死刑判決を下しました。

それをユダが聞き知った時、非常に大きな後悔の念にさいなまれることになります。

ユダは、イエスが罪のない人であることはわかっています。まさに魔が差したとしか言えないきっかけでイエスを売り渡すことになっていったことを、「死刑判決」のニュースを聞いて、後悔するのでした。

魔が差した。

ヨハネの福音書では、こんな記述があります。

夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた
ヨハネによる福音書13章2節

魔が差す、ということは本当にあるのです。

でも、そこに至るプロセスもあったようでした。マリヤがイエスに高価な油を注いだ時の説明に、ユダの事は「自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった」とあります。悪事が高じていった時、その一歩先に「魔が差した」のです。

でも、最後には後悔の念にさいなまれるのでした。

イエス・キリストの弟子に選ばれるほどでしたから、基本的に、善人だったのでしょう。グループのお金を預かる役割をしていたから、皆からよほど信頼されるほどだったでしょう。

でも、「魔が差した」。

そして、悔やみきれずに、絶望の果てに自殺してしまいます。

2.ペテロの失敗との違い

ペテロも、イエス・キリストを裏切ったことでは、同罪ではなかったでしょうか。

ペテロは、泣き崩れるほどの後悔はしたものの、絶望の果ての死に至るほどではなかった、ということだったのでしょうか。

マタイが書き記している範囲から知ることができる違いは、ペテロはイエス・キリストの言葉を思い起こしていたが、ユダはそうではなかった、という点です。

ユダにとって、イエス・キリストは「罪のない人」でした。でも、これだけでは、ユダとの個人的なかかわりあいがはっきりしません。つまり、それくらいの人間関係だった、ということだったろうと思えるわけです。

ペテロは違います。ペテロに対して個人的に語られた言葉があるのです。それが思い起こされて、自分がしでかしたことに気づかされたのでした。

それでは、ユダには、何もイエス・キリストから語りかけられていた言葉はなかったのでしょうか。

ありました。

マリヤが香油を注いだ時には、「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいる」。あなたは貧しくはない、と言外に意味が込められているようです。

最後の晩餐の席で、裏切る者がいる、と弟子たちに告げられ、ユダが「まさかわたしではないでしょう」と言うと、イエス・キリストは「いや、あなただ」と明確に答えます。ユダがその時にすべきことは、心をかえて、正直に告白することだったでしょう。

ゲッセマネの園で、イエス捕縛のために先頭に立ってきたユダに、「友よ、なんのためにきたのか」と声をかけられます。

ユダの意識は、イエス・キリストに向けられるよりも、イエスを売り渡した自分にとどまってしまっていたのでした。心に、イエス・キリストはなかったかのようです。

ユダは、イエス・キリストに愛されていても、それに気がつくことができず、自分の思いにとらわれ続けてしまいました。行き着く先は、絶望だったのです。

3.あと三日とどまっていたら。。。

ユダは、後悔の果てに、祭司から受け取った30枚の銀貨を返しに行きます。そこで、「罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」と告げています。

それに対して、宗教家たちは、「自分で始末をしろ」と、まったく取り合わないままに追い返してしまいます。投げ入れられたお金はそのままにして、です。

ユダは、宗教家たちに何らかの信頼感を持っていたでしょう。少なくても、仲間意識を持っていただろうとは思います。宗教家たちがイエスに対する殺意をいだいていることを知っていて、それを利用して得たお金でした。魔が差しての行動だったでしょうが、後悔の念を他にもっていくところは他になかったのです。

宗教家たちの返事は、当然のものだと言えます。イエスへの殺意はこれで果たせそうだ、というところまで来ているのです。いまさらユダが後悔したところで、彼らには殺意を翻すつもりはありませんでした。イエスが「罪のない人」などとも思っていなかったのですし。

ユダが、あと3日、後悔しながらもそのままいたら、復活のイエス・キリストの知らせを聞くことができたのに。でも、ユダの聞いた言葉からは、絶望しかありませんでした。

イエス・キリストがユダに対してあわれんでいたのは、ユダの、死ぬほどの後悔についてでした。そのあわれみの思いを心に受け止めていたなら、結果は違っていたでしょう。

十字架の上でイエス・キリストが祈った言葉を知ったなら、ユダも心を変えることになっていたのでは、と思えてなりません。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
 ルカによる福音書23章34節

三日という時間。罪のゆるしの言葉を知ること。イエス・キリストの復活を知ること。

多くの人が命を保つこと、永遠の命を得る機会を逃すことのないように、祈ります。


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