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【翻訳】ファンタジー作家ロード・ダンセイニ インド紀行 その1

皆様、ごきげんよう。弾青娥だん せいがです。

このたびの記事では、日本、中国、インドといったアジアに関心を強く有した、アイルランドのファンタジー作家ロード・ダンセイニ(第18代ダンセイニ男爵;1878年~1957年)のインドの旅の記録を紹介します。過去には、以下のような特集記事を組みました。

今回の翻訳に関する具体的な内容を申し上げますと、2冊目の自伝While The Sirens Sleptの第27章In Jungles and Palacesの和訳になります。

2本の記事に分けて、同章の翻訳を披露させていただきます。よろしくお願いいたします。


註:〔〕の追記は和訳者によるものです。ほとんどの詳細は今回の翻訳の後に記しています。



第27章 ジャングルと宮殿にて

その秋〔1929年の秋〕、ロンドンで私は数編の物語を書きました。そのうちの3篇は東方に関するもので、東の方角は説明しなくともいいほどに私の想像がしばしば向く方角です。とはいえ、東洋の魅力と我が息子〔1〕に会いたい思いにより私たち夫婦はインドへいざなわれるところだったとの説明がある方が良かったかもしれません。私たちが旅路につくよりも先に、とうに私の想像はインドに向かっていました。そのようなことはロバート・ブリッジズ〔2〕が最も巧みに表現しています。船旅にまつわる詩です。

我は汝の目前にありて 汝がよく知る国にもはや着きにけり
その地の匂いたるを我は吸い込みたるところなり

ところで前述の物語群は、旅の途中に通りすぎることになる島々を題材にしています。そのうちの一篇は、意図的に未完成のままにしました。私がほとんど使うことのない要素である、郷土色をもって仕上げるためです。郷土色は私からすると、野や丘から直に得るものです。一方、私が絶えず書いてきたのは、地球が人類に見せてくれるような景色です。それも、私の記憶を通過して忘却と言えるところまで沈みきってから、いわゆる想像力を放出しきるまでふつふつと沸くという景色です。とはいえ、私はそうした景色をそのまま自らの物語の一部に組み込むようになりました。ベンヴェーヌト・チェッリーニ〔3〕による彫刻の人魚をフィラデルフィアのワイドナー氏〔4〕の邸宅で見ましたが、この芸術家が手つかずの大きな真珠をその作品の肉体の一部に使ったのは、私のそのやり方に似ていました。そして、荒野が私を再び呼んでいたのです。そこで私は妻とともに、11月に出発しました。無論、私たちは荒野だけに向かうというわけではありませんでした。のちに私に、自分の知るアフリカの荒野と、いわばリッツホテルとが溶け合ったような地だという印象をもたらすインドに向かったのです。しかし、いつも定期的に呼び声を耳にするように、私をもっとも強く引き寄せるのは荒野でした。人間は、わずか何世代か前の荒野に端を発する存在ではないのでしょうか。1年に1度スコットランドのあらゆる雄ジカが渇望をもって海へと誘われるように、もしかすると、どの人間の血にも荒野に時折戻りたいという思いが宿っているかもしれません。婉曲的な表現が読者の皆様にとってショックにならないのを望んでいますが、それは、平野が森で、山が雪ですっかり覆われるという仕組みが結局のところ、私たちのような非常に聡い人々が考えついて世界の大部分を舗装路で覆うよりも優れているということであるかもしれません。何はともあれ、何マイルもの舗装路を歩いてきた私は、道すら持たぬ地の呼び声を耳にすることがあります。このように書いている際にも聞こえてきましたが、実際のところ、自作の短い詩でその思いを表現し、その作品はアメリカの新聞に掲載されました。日付は失念しましたが、こちらがその内容です。

呼び声

突如として再び倫敦の広場に来たるは
あの消えがたい奇妙な匂い
駱駝や奇怪な煙草を思い起こす 雨雲を抜け
私の心は東に向かい
黄金色に光る平野を縦横無尽に覆う輝ける空へ
街の眼を覚ますべくあの地を再び踏まん

この詩に批評を寄せたあるアメリカの作家から「ロード・ダンセイニはどれほど旅をしたのか」と質問されました。私は長旅をしました。韻文に盛り込まれる全内容が示すように、本当にそのような感覚がありました。

古くからビーフステーキ・クラブ〔5〕の会員であり友人のダグラス・ストレート少佐は非常に親切にも、ラームプル藩王国の太守〔6〕とベナレス藩王〔7〕への紹介状を私に送ってくれました。さらに、ジャージー伯爵夫人からは、インドでは偉大な君主であり英国では外交官を我が島国出身の人物より立派に務めた印象を与える、今は亡きボーパール太守夫人〔8〕に会うことを勧められました。私たちはムルターン号に乗船しました。インド洋に入るやいなや、変わった体験が待っていました。ある日、舷窓の外からアフリカを思わせる声が私たちの耳に入りました。外を見ると、1隻の小さな帆船が目に入り、それから複数名のアラブ人か、ソマリア人が立ち上がって大きな声をあげてはシャツを振り回している様子が見えました。そのような行動を彼らは、私たちの乗る船がしばらくして止まるまで続けていましたが、止まってからも暫時そうしていました。彼ら曰く、自分たちは水と食料のない遭難中の船員だとのことでした。私たちの船長はわずかに言葉を発しましたが、たとえ船長が自らの思うことだけを口にしたとしても、この書籍にその一部を載せることは叶わなかったでしょう。最も優しい言葉で表現すれば「海賊行為」という言葉だったと思われます。しかしそれが彼らの言ったことではないと証明する手段はないため、船長はその船員たちが必要とするものは全て与えました。彼らの数名が自らの帆前船から浮かべた外洋航行用のカヌーに乗り、それを奪いました。私たち乗客全員は、彼らが与えられた水を緊急で欲していなかったことを悟りました。私がこの船旅の終わりに乗客を代表して船長に感謝の挨拶を頼まれた際、私たちにとって必要であったと思われるものに不足はなかったことを伝えました。また、乗客が一人でも必要最小限の量よりも多く物資を必要とするならば席から立ち上がって大声を上げながら1時間はシャツを振り回すことこそが船長に船を止めさせて自らの必要とするものを船長からもらえることになると今後の乗客に対して知らせるべきだとも控えめに伝えました。海の長旅での船上では頻繁にあることですが、チェスのトーナメントに興じました。私は銀杯を勝ち取りました。対戦相手には、インドで砲兵隊を統率する予定のアレクサンダー・ウォードロップ陸軍大将もいましたが、以前に何度も対戦したチェスの名手でした。長い旅の途中でかなり後日のことになりますが、当時はM.T.C.〔9〕の運転手を務めていた彼の姪のロザリー・ウォードロップ氏に会い、チェスを何試合も行いました。チェスは一族にとって相伝的なものです。理想的な政府においてそのような一族の人間が孤立されていようとも、チェスの戦術は街という街を転覆させる術に非常に密接に結びついているという意見を持つユートピアの発案者たちにとって益となるのです。さて、私たちはボンベイに到着しました。私が初めてインドというべきものを目にしたのは、私たちが町のはずれまでに及ぶ森を車で抜けてから、森の存在意義に害を及ぼさない考えを明白に生涯抱いている者たちに植えられた木々の下の道端にある村を見たときでした。波形鉄板は紛れもなく工場の生産物であり、工場がどれほど素晴らしかろうとも、その存在意義は森のものとは大いに異なります。それゆえこの二者は常に衝突せねばならないのです。しかし、ここにはそのような不調和は存在しませんでした。家という家が、工場ではなく森に由来するもので、その住人たちにとって悩みの種となる計画は、仮にそのようなものがあったとしても、たった一つしか無かったのです。私たちには、できる限り順応しておきたい悩みの種が二つ常につきまとっています。その二者は互いに大いに異なるために、それらが私たちの哲学と衝突すれば私たちの哲学は揺さぶられることもあるでしょう。例えば今年は厳冬になるだろうか、そして石油の価格はどうなるかと考えた場合、この二つの考えは容易に符合しません。ある人が片足に黒いブーツ、もう片足に茶色いブーツを履いていれば、即座に気付きます。しかし私たちの日常生活にはこれよりも大きな不調和があります。中心地から離れて私たちが車を進めている時に一人の苦行僧が自らの財産――半ば彼を覆っていた布、真鍮製の鉢に、長い杖――を持って広告版の前を通り過ぎていったのを私は見たのです。一方、その広告板には「うがい薬は必須だ(You MUST Have Mouthwasho)」と書かれてありました。満足した心地のこの男の姿が見えている間に、うがい薬が実際必要だと思う人間がいるでしょうか。同様に、うがいだけが必要となると思う人間もいるのでしょうか。

私たちは列車に乗ってボーパールに向かいました。私たちは眠りにつく前に、満月の光に照らされる中で西ガーツ山脈の頂と尖峰が見えました。ボーパールに着くと私たちは高級下宿所で歓待を受け、午後には、国政問題をすでに自らの息子にゆだねていた年老いた王妃のもとを訪ねに行きました。王妃は極めて質素ないでたちでした。王妃は、恐らく自分にできる盛装では州都からはるばる伸びる整った道と、良い統治が行なわれている国であることを明白に示すしるし――王妃のおかげで繁栄していました――に比肩するものがないと考えていたのでしょう。

ある日、太守の専属副官の一人であるイクバル・マホメット・カーンが私をジャングルでの猟に誘いました。この時私は何も狩らなかったものの、インドのジャングルでの初日を大いに楽しく過ごすことができました。その太守はインドで最も優れた馬上球技ポロの競技者です。つまり世界一の実力者ということになります。私たちが彼、そして妃と宮殿で食事をともにした際、彼は虎狩りの話をたくさんしてくれました。虎を狩れるかという不安が私にはありましたが、殿下は翌日、ありとあるチャンスを私に与えてくれました。同日、イクバル・マホメット・カーン大佐が再び私をジャングルに案内してくれました。夜明け前は複数の虎と水鹿サンバーが開けた土地から森のなかに戻る頃なのですが、そのような時に私たちはジャングルのへりまで達しました。ところが、年間で最高の時季ではなかったため、虎を1頭も目にすることはありませんでした。私たちは車でジャングルの奥へと少し移動し、それから私は牛車に乗って移動を続けました。というのも、牛車は獲物に近づく最善の手段の一つであるからです。ところで、巨大なインドボダイジュが複数、大聖堂の控え壁のように聳え立っていました。とりわけ崇敬すべき木には紙切れが吊るされていて、この木は聖なる存在だという内容が書かれていたのでしょう。私が知る限り、そういったものは、キリスト教が到来する前にアイルランドのアカシアの木に付けられて今も目にできる、ぼろ切れの小片に似た、何らかの祈祷文かもしれません。私たちは木々にすっかり囲まれた村に着くこともあれば、広大なジャングルで謎と静けさに満ちたところに再び至ることもありました。その地で、私はニルガイ〔10〕を1頭、水鹿を1頭しとめました。マンモスと今の象との関係性のように、水鹿は我が国におけるアカシカにあたる上、ジャングルで苦労してでも狩りたい貴重な存在に数えられます。

ボーパールの夕暮れは大変美しいものでした。それゆえ、この地のありのままの真実がフィクションのように形を変えやすく加工できる芸術向けの素材になるかもしれないと考えそうになりました。しかし、それは違います。まさに、雪玉をこしらえるためには、眩い凍雪が柔らかくなった雪にならなければならないように、作者の意図が現れるようにするためには純然たる真実が、または言い方がどうであれ、郷土色がフィクションにならなければなりません。とはいえ、この書籍は芸術作品ではありません。自らのことと、想像と徒歩とで行う放浪の旅のなかで目にして書くに値することを記すことが許された一人の芸術家の言葉にすぎません。そのため、物語または教訓を盛り込まずにボーパールの湖をそのままに描写したこのちょっとした文は、ここにしっくりと収まってくれるでしょう。1929年12月8日の夕刻に書いたものです。


ボーパール

あまりにも穏やかな水面であるため、湖は光を放たぬ静かな宝石のようで、帯状になった黄金のなかで固まった半貴石のようでもあった。〈東〉にも〈西〉にも長く伸びていた。地の果てでは太陽が深紅色と橙色のアーチを成して沈みゆく一方、真逆を向くとボーパールの街が湖面に白い閃光を放ちながら、群立する丸屋根と尖塔の美しさに夢見ごこちで目を向けているようだった。沈みゆく太陽のそばにある丘は透けたように見え、私たちとその丘の間に橙色の輝きのほとんどが注がれていた。あの帯状の黄金が宝石を有しているように見えたのは、それが終わる時だった。太陽が沈むと丘は青くなった。それからすぐに、煉瓦職人の灯した火が私のくつろいでいるテラスから遠く離れた下方より、はっきりと目に見えると、出し抜けに美しい飾りが施された。やがて不可思議なものが煙に当たり、ゆっくりと漂っていた。何らかの潜水鳥が飛び上がって湖から離れると、この鳥と湖に暗く映るその影がどこかの島へと向かった。私たちの眼下の遠くにある森から、姿は見えないものの、男たちの歌声が聞こえてきた。眼下では、アマツバメのような複数羽の鳥が素早く通りすぎるも、一気にスピードを速めた後は常に翼を上空に向けると、アマツバメと全く真逆で、しばらく空をあてどもなく舞った。遠くの下方からは、かすかにカエルの鳴き声が私たちに聞こえた。それよりはっきりと聞こえたのは、故郷のツグミのさえずりのように鳴く、ほの暗い空を飛ぶ鳥の声だった。日没の橙色の輝きが消えていくと、暗闇が大きくなり、湖上から一マイル先に位置する宮殿に光という光が灯された。私に同行しているオックスフォード大学の卒業生が一旦退出していいですかと私に確認した後、お祈りをした。その間ずっと、実在のボーパールがその素敵な像を見つめていた。やがてライラック色の輝きが太陽の寝床の上空に姿を見せ始め、その大きさと色の濃さが増していき、ついにはライラックのなかでも最も暗い色をした種の色合いをした巨大なアーチが幾筋もの光に支えられながら〈西〉に立った。寺院の鐘がゆっくりと鳴り、その音はおさまった。淡青のような色が白い大理石の上空へとこっそりと移動し始めた。星が一つ長きにわたって輝きを放っていた。もう一つの日中の時間が去った。もう一つの夜が驚異を秘めた館という館からやって来たのだった。


〔1〕我が息子
後の第19代ダンセイニ男爵。英国領インドにて英国陸軍のもとで軍務についていた。

〔2〕ロバート・ブリッジズ
英国の詩人(1844年~1930年)。1913年から没年まで同国の桂冠詩人だった。ロード・ダンセイニが引用したのは、同詩人の作品であるPasser-byの一節。

〔3〕ベンヴェーヌト・チェッリーニ
ルネサンス期の芸術家(1500年~1571年)。ロード・ダンセイニの有名作の一つであるファンタジー小説『エルフランドの王女』内で言及されている。

〔4〕フィラデルフィアのワイドナー氏
ジョージ・ダントン・ワイドナー(1861年~1912年)、またはその一家のことと考えられる。父は路面鉄道事業でフィラデルフィアで財を成した人物。ジョージ・ダントン・ワイドナー本人は、息子とともにタイタニック号の事故で落命。

〔5〕ビーフステーキ・クラブ
1705年ごろにロンドンで設立された社交クラブ。英国俳優の代表格であるヘンリー・アーヴィング(1838年~1905年)も会員だった。

〔6〕ラームプル藩王国の太守
Hamid Ali Khan of Rampur(ラームプルのハミド・アリ・カーン;1875年~1930年)のことと考えられる。ラームプル藩王国は、現在のラームプルという都市があるところに存在(ニューデリーと、ネパールの西端の中間地点あたり)。

〔7〕ベナレス藩王
Prabhu Narayan Singh(プラブ・ナーラーヤン・シング;1855年~1931年)のことと考えられる。ベナレス藩王国は、ヒンドゥー教徒の巡礼地として有名なヴァーラーナシー(旧称ベナレス)に存在。

〔8〕今は亡きボーパール太守夫人
Sultan Jahan(スルターン・ジャハーン;1855年~1931年)のことと考えられる。ボーパール藩王国は現在のインド中部に位置する都市ボーパールに存在。

〔9〕M.T.C.
Mechanised Transport Corps(機甲化輸送隊)のことと考えられる。第二次世界大戦時に輸送業と軍服の提供に携わった英国の婦人団体。

〔10〕ニルガイ
インド半島に原生する偶蹄類。


今回はここまでです。次回の「ロード・ダンセイニのインド紀行」もお楽しみに。最後まで読んで下さった方に御礼申し上げます。

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