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朝鮮半島におけるヨーロッパ演劇② ~キム・ウジンに続いた演劇人たち~

皆様、ごきげんよう。弾青娥だんせいがです。

前編では、早稲田大学の英文科に在籍するキム・ウジンが、朝鮮半島での演劇近代化の先鞭をつけたところまで、執筆いたしました。今回はその続きになります。よろしくお願いします。

5:土月会による新劇運動

新劇運動は、キム・ウジンを筆頭にした劇芸術協会の公演以後、盛んになります。その代表格といえる劇団が、土月会です。明治大学で英文学を専攻したパク・スンヒ(朴勝喜)を中心に、1922年の春に結成された団体です。

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パク・スンヒ(1901-1964)

この団体の活動に貢献した俳優の中には、キム・ウジンの勧めで加入したユン・シムドク(尹心悳)もいました。

ユン・シムドク(1897-1926)
朝鮮半島初のソプラノ歌手でもありました。

土月会は、朝鮮半島の観衆に近代劇を生業として提供する第一号の劇団になりました。二度の公演の中では、以下のヨーロッパ劇が上演されます。

  • ジョージ・バーナード・ショー「その男がその女の亭主にどんな嘘をついたか(How He Lied to Her Husband)」

  • ジョン・ミリントン・シング「谷間の影(In the Shadow of the Glen)」

  • ロード・ダンセイニ「山の神々(The Gods of the Mountain)」

  • ロード・ダンセイニ「名声と詩人(Fame and the Poet)」

  • ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスター「アルト・ハイデルベルク」

  • ストリンドベリ「債鬼」

  • チェーホフ「熊」

  • トルストイ「復活」
    ※太字表記の劇は、アイルランド演劇。

しかし、劇団員は頻繁に変わる劇のプログラムと日々の上演に翻弄されて、与えられる役に対する集中力を保てなくなります。また、観客に恵まれなかったこともあり、土月会は財政難に陥ります。第三回の公演からは、土月会は職業大衆劇団に変わり、劇レパートリーからはヨーロッパ劇は無くなり、朝鮮の劇作家による劇が中心になりました。

一方で、朝鮮半島の演劇改革の草分けとなったキム・ウジンは、1926年5月の『朝鮮日報』に「我らの新劇運動の初めの道(우리 신극운동의 첫길)」という論を寄稿します。ところが、それから3か月後の8月のことです――キム・ウジンユン・シムドクは一緒に徳寿丸に乗船し、対馬海峡で投身して帰らぬ人になります。この一件は、当時の同郷の演劇人にとって大きな衝撃をもたらしたことでしょう。

6:劇芸術研究会による新劇運動

ショッキングな1926年の夏を経て、土月会の次に、半島における新劇運動に大きく関わったのは劇芸術研究会でした。このグループは、日本大学芸術科を卒業して1930年に日本から朝鮮半島に戻ったホン・ヘソン(洪海星)が中心メンバーとなって1931年の6月に結成されます。

このホン・ヘソン、キム・ウジンの劇芸術協会に加わっただけでなく、前述の『朝鮮日報』の論考にも携わった共同執筆者でもありました。加えて、友田恭助の紹介で日本の築地小劇場にも参加し、110もの作品に俳優として出演します。

築地小劇場。ホン・ヘソンは、ゴーゴリの「検察官」、チェーホフの「三人姉妹」、
メーテルリンクの「青い鳥」などで舞台に立ちました。

リーダー的立ち位置のホン・ヘソンが「翻訳劇優先論」と「小劇場中心論」を重要視していたため、劇芸術研究会の結成直後の劇レパートリーの重点はヨーロッパ劇に置かれます。1932年の第一回の試演では、ゴーゴリの「検察官」がホン・ヘソンの演出で披露されました。劇団の一員であるイ・ハユン(異河潤)は、演出家としてロード・ダンセイニの「アラビア人の天幕」の上演をサポートしました。

ホン・ヘソン(1894-1957)

劇芸術研究会は1932年から1934年までに、ほかにもゲーリングの「海戦」、ジョージ・バーナード・ショーの「武器と人」、イプセンの「人形の家」、チェーホフの「桜の園」なども上演します。同劇団は、観客にとって自分たちの演目が伝わりやすくなるよう、劇レパートリーに関する前置き・説明や、朝鮮語の訳文を提供するなど、観客に対する配慮に励みました。けれども、その戦略的な配慮もむなしく、観客はヨーロッパの近代劇に対して不慣れなままでした。が、立教大学卒業のユ・チジン(柳致真)が1933年に、自分たちの演劇に重点を置くべきと主張したことにより、劇団と観客との距離を詰めていくことに成功します。ホン・ヘソンが1934年に経済的理由で別の劇団に移籍すると、ユ・チジン劇芸術研究会を率いるようになります。

ユ・チジン(1905-1974)

ユ・チジンは同研究会の第三回公演と第五回公演で、自らの創作劇「土幕」と「柳のある村の風景」をヒットさせます。翻訳劇でなく創作劇が成功したわけですが、『韓国近代演劇批評史研究』を著した梁承国の見解を借りて言えば、「劇芸術研究会の翻訳劇公演はあくまでも創作劇啓発のためのもの」でした。同研究会は、多くの朝鮮半島出身の劇作家・脚本家を輩出します。けれども、1938年の3月に、劇芸術研究会は朝鮮総督府によって解体されます。翌月には、ユ・チジンらの主導で劇団劇研座が結成されるも、劇団員の主導権争いと財政難が原因となり、わずか1か月で解散を迎えます。

7:ヨーロッパ近代劇が朝鮮半島のインテリ層に受容された理由

朝鮮半島のインテリ層に、ヨーロッパの近代劇が受容されたのには、近代化された社会を創るという目的がありました。そして、ヨーロッパ演劇の中でも特に、アイルランド演劇が受容されましたが、その要因として挙げられるのは次の二点に集約されます。

①アイルランドが、弱い小国の文化的な闘争の地として見なされた。
②アイルランド演劇の文学的な価値。

とりわけ初めの項目について言えば、朝鮮のインテリ層はイギリスという大国に虐げられてきたアイルランドの歴史と、当時の自分たちの状況を照らし合わせたことが言えるでしょう。このような性質を持ったアイルランド劇であれば、観客にも受け入れやすく、また近代化された社会の創造につなげやすいと、朝鮮半島のインテリ層は考えたと思われます。

とはいうものの、アイルランド劇を含めたヨーロッパ劇は、当時の観客に人気が出ることはありませんでした。そのため、劇芸術協会の一員だったキム・ウジンホン・ヘソンは、近代劇運動よりも、教養のある観客を育て上げることが大切だという主張を残しました。また、ユ・チジンは次のように創作劇の重要性を力説しています。

私たちにはなるべく、いつも翻訳劇より創作劇を高く評価する用意があるし、将来に出現する戯曲のために出来るだけの便利を図らなければならない。出版においては勿論、上演にあたっても、作品としてまだ及ばない点があり、効果から見て足りないところがあっても、いつも創作劇を先に立たせるほどの寛大性を持たなければならない。

ユ・チジン「戯曲界展望-創作劇と翻訳劇」『東亜日報』(1933年9月27日)
李知映による日本語訳。

7:まとめ

電灯、電車・電話・映画の登場や、愛国啓蒙運動下での西洋の新学問の受容に支えられ、日本の大学で勉学に励んだ朝鮮のインテリ層が主導した朝鮮半島の近代劇運動は、1920年代初頭から30年代末まで盛んになりました。

ヨーロッパ劇の上演時の、劇団と観客との隔たりは埋まりにくかったとはいえ、ヨーロッパ劇が朝鮮半島の近代劇運動において果たした役割は、朝鮮半島のインテリ層にとって小さくなかったと言えます。

なかんずく、日本という大国に支配された自分たちの境遇と似たアイルランドの劇は、朝鮮のインテリ層に好まれて上演されました。アイルランド劇が朝鮮半島の近代劇運動における中心的な原動力になったのは明白、と述べたところで、こちらの記事を締めくくりましょう。最後まで読んで下さった方に、深謝申し上げます。

こちらの記事は元々2013年に執筆したものでした。
キム・ウジンユン・シムドクに焦点を当てたドラマ『死の賛美』が2018年に放映されたことは、キム・ウジン愛好家の私(朝鮮半島で最初にダンセイニ卿の戯曲を上演したのが理由です)にとってビッグ・サプライズでした。今回の前後半の記事にて言及したホン・ヘソン、チョ・ミョンヒ、友田恭助も登場しているのも嬉しいポイントです。

追記:朝鮮半島初のソプラノ歌手ユン・シムドク(尹心悳)の歌った楽曲「死の賛美」の音源がアップされていますので、紹介させていただきます。現代の歌手がカバーしたバージョンもあるようです。

参考文献

  • 徐淵昊 『韓国演劇史』

  • 朝鮮史研究会 『朝鮮の歴史』

  • Woe-Jae Jang "Irish Influences on Korean Theatre during the 1920s and 1930s"

  • クォンボドゥレ「金星圭と金祐鎮、3・1運動前後における世代葛藤の一断面」※『同志社コリア研究叢書1』(2014年)所収

  • 共有マダン(韓国語)

  • 「我らの新劇運動の初めの道(우리 신극운동의 첫길)」

  • 梁承国『韓国近代演劇批評史研究』

  • 李知映「京城府「府民館」を通じてみる新劇の新たな展開 ―1930年代の「劇芸術研究会」の活動を中心に―」※『文化資源学』第15号(2017年)所収

  • 民族文化大百科事典(韓国語)

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