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発信の手段と目的と

あんたは自分の発信について考えることがあるかい?

みんな大好きなももまろさんが、ちっと気になることを書いてくれていたんだ。

どんどん、つまらない場所へ流れる体感
平凡で当たり前のことしか言えない場所だからね

出展:ももまろさんのnote

ももまろさんの記事はいつだってエモーショナルな感じがする。
それゆえに、読むヒトの心を刺激するんだろうなぁ。

それはももまろさんが発信していることの価値そのものだとも思うんだよな。
なんつーの?興味深いわけよ。
ヒトの心ってのがこんなにも何も防御することなく表現できるものなのかってくらい、むき出しの感情がそこにあると思うのよ。

決して攻撃的になっているわけじゃなく、ホントにむき出しの感覚がそこにおいてある感じ。

俺なんかオッサンだからさ。
つい防御態勢を取ってしまうわけよ。
なんか、思ったことがあっても「いやまて、それはホントに筋が通っている話か?」って常に考える感じ。

やべえな。
俺、つまんなくなってきている?

今回は俺の発信を眺めなおしてみる回だ。

ちっと俺のオモロイを一緒に掘り起こしてくれよ。
♯他力本願


自分が発信してきたもの

自分が何を発信してきたのか。

とりあえず、量的なものから見てみると、ざっくり2350くらいの記事を投稿しているらしい。
まあまあな量だよな。

で、発信している内容とすると、ザ・ノージャンルって感じだ。

ワリカシ困ったときに政治ネタを書いている気もするけれど、いわゆる政治評論家みたいな知識があるわけでもなく、ただ感じたことを書いている。

その意味では政治以外でもコンテンツに関することだったり、誰かの発信で感じたことだったりと、「何か感じたこと」を書いているってのは共通しているかもしれない。

まあ俺が発信してきた記事を全部読んでいるのは世界中で俺だけだとめちゃくちゃ確信を持って言えるわけだけれど、ありがたいことにちょいちょい反応を返してもらえたりしている。

それは俺が何かを感じているってことが、なんかしらの価値を生み出しているってことだよな。

過去の発信

例えば、俺の過去の発信をランダムにピックアップしてみる。

なんつーか、我ながら読みにくい文章だなぁ。
自分の感覚という核心にたどり着くために、俺にまとわりついている何かをノミでガシガシ削ろうとしている過程みたいに見える。

結果として核心にまでたどり着いていないので「オマイ何が言いたいんよ?」ってなる感じ。

いや、感じたままに書いているからってのもあるけれど、これはひどい。
酔っぱらってふらついている感じすら受けるな。

過去の自分をこき下ろし続けたいわけじゃなくて、「感じていること」ってのはストレートに表現しても理解しがたいってのがあるのかもしれないって思ったわけよ。

いや、今の俺の表現が分かりやすいのかって言われたら「ごめんなさい」って言うしかないんだけれどさ。

共感してもらうことと理解してもらうこと

でね。

ももまろさんの日々の発信から俺が感じることと、俺の過去の発信から俺自身が感じることってのがあるわけさ。

俺の発信もももまろさんの発信も「感じたこと」を表現しているのは変わらないけれど、明らかにジャンルが違う感じがするじゃんか。

俺が求めているものとももまろさんが求めているものってのが違うものなんか?って思うくらいに違う気がする。
でもね。
きっと同じだって言うことは出来ると思うんだ。

「わかってほしい」

この言葉で俺はももまろさんと同じ場所に立っている気がしているんだ。
♯違ったらごめん

で、たぶん「わかってほしい」という目的に対する手段として、ももまろさんは「共感」という手段を取って、俺は「理解」という手段を使っているんだと思うわけよ。

俺たちは俺たち個人の工夫で「わかってもらう」しかないもんな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやって「わかって」もらい、その先に何を手に入れようとしているんだろうな?

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