天才漫画家って誰だと思う?
あんたにも「天才」って思う奴がいるよな?
世の中には確かに天才と呼ばれる一握りのヒトがいる。
ノーベル賞を取るようなわかりやすい天才もいれば、西野亮廣さんや堀江貴文さんのような尖った天才ってヒトもいる。
ただ、インターネットが生活に浸透した今という時代では、万人がそうだと認める天才ってヒトはなかなか居ないっていうか、ありえなくなってきている。
どんなヒトを天才って思うかってのは、もはや個性なんだね。
今回は、俺が天才だと思う人について言葉にすることで、俺の個性を浮き彫りにしてみようっていうエゴな回だ。
あんたの天才もそのうち教えてくれよな。
漫画という世界での天才
まあ、俺くらいの感動ソムリエともなるとだな(なんだそりゃ)、物語ってやつは、ありとあらゆる感動の源泉だと思うんだよな。
そして、その物語を表現する手段として漫画は日本が世界に誇れる素晴らしいメディアだと思っているわけだ。
漫画の延長にはアニメーションがあり、映画があり、ゲームがある。
同じ物語を複数の表現方法で俺たち作品消費者に届けてもらえる。
インターネットが俺たちの生活に溶け込んできて、このメディアミックスってやつが持っている力はエゲツない感じで増大してきていると思うんだよね。
で、その物語の出発点として選ばれるメディアが漫画だと思うわけだよ。
漫画は俺たちに映像的な刺激を与えつつ、動画ほど何もかもを提供してくれるわけじゃない。
漫画のコマ割りの間にあるモノを俺たちは息をするように自然に想像しながら物語に浸っていく。
そう、俺が天才だと思う漫画家は俺の想像力をもぉすごい勢いで刺激し続けるヒトってわけだ。
天才「冨樫義博」
長期休載で有名な漫画家冨樫義博さん。
このヒトの話作りって天才的な要素がてんこ盛りだと思うんだよね。
現在連載中のHUNTER×HUNTERでもその話作りの極みのような展開は遺憾なく発揮されている。
例えば、キメラアント編での最後の展開をあんたは覚えているだろうか?
何度見返しても、このキメラアント編のラストは涙なしには語れない。
キメラアント編のラスボスの位置にあるキメラアントの王。その名はメルエム。
でもこの名前が物語の中で登場してくるタイミングはものすごく限られている。
名付けされる瞬間と、その名を王に伝えられる会長バトルのラストシーン。さらにはこの最期のコムギとのやり取りだけだ。
名前という個の象徴と王という立場の象徴があるとすれば、メルエムの生の大半は立場の象徴としての振る舞いだったんだと思うんだよね。
最強であるように生まれて、最強であるように振る舞った。
そして、ヒトの問題点を的確に把握し、それに対して王として対処をし続けた。
そこにはメルエム個人の欲望だとか欲求は微塵もない。食事をするというごく基本的なことですら「最強である」という責務を果たすがごとくにこなしていく。
そんなメルエムが最期の最期。
個としての欲求に準じていく。
そして、その個としての欲求に、文字通り命をかけて応えるコムギ。
これが涙なくして見られるだろうか?
冨樫義博さんの話作り
どうやってこんなふうな話作りが出来るのか?
あるインタビュー漫画にそれは描かれていた。
この中で、冨樫義博さんは話を「漫才のように作り上げる」と言っている。
キャラクターのボケとツッコミで話を展開させて、その展開を遥かに超える解を主人公に託す。
そう言う作り方をするんだそうだ。
そのボケとツッコミの展開を作り上げる中で気にしていること。
それがキャラクターの個性だってことらしい。
このキャラクターはこんな事言わないだとか、このキャラクターならどうやってもこう言う行動してしまうだとか。
そんな風に個性と向き合いながら話を作っていくんだそうだ。
ああ、そうか。
物語というのは、俺たちが俺たち以外の個性を感じるためのツールなんだね。
俺たちは、俺たち以外の人生という物語を俺たちの人生という物語に取り込みたいんだ。
だから俺たちは冨樫義博さんを天才だって思うわけだ。
なあ、あんたはどう思う?
あんたの人生の中に、どんな物語を取り込んでいこうか?
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