誰かを納得させるために費やされる無駄な労力と時間

台風21号が日本に上陸する前日、仕事上でトラブルが発生しました。

トラブルを発生させた原因は、本人の日常業務に対する慣れからくる不注意でした。

人間なら誰でもする、単純な確認不足です。

トラブルが発生した当日、会社へ戻ってきた本人と話すと、全然確認していませんでしたと正直に打ち明けてくれました。

トラブルが発生したら、業務を依頼してくれているお客様へ、その顛末を報告書にして提出します。

その報告書に、今回のトラブルは確認不足が起因すると記載して提出しました。

受け取ったお客様は、顔をしかめ、ウーンと唸ります。

私もその気持ちは重々分かります。

なぜなら、確認不足に代表される、単純なミスが起因となるトラブルは、再発を防止するための対策をたてづらく、また最終的にその報告書を受け取るお客様に納得してもらいづらいからです。

それを受けて、会議室ではどんなことが行われるかというと、最終的に報告書を受け取るお客様を納得させるため、本来意味のないところに無理やり意味付けする行為です。

事件は会議室ではなく、現場で起こりますが、無理やり意味付けする行為は現場ではなく、会議室で起こります。

あれは私が就職した2005年頃だったと記憶していますが、論理的思考とかロジックという言葉が世間を席巻した時代を経て、データやエビデンスはどれだとか、トラブルの原因がそんな単純な理由では納得できないという慣習が一気に強まり、それを受けて意味がないことに無理やり意味を見出そうとする行為が本格的に浸透したような気がします。

僕には知るよしもありませんが、もしかしたら1950年代や1960年代の高度経済成長の頃からとか、バブル崩壊後の1990年代前半頃から、すでに日本社会にはどんな事情があるにせよデータやエビデンスを出せ、単純な理由では納得できないという慣習が確立されていたのかもしれません。

個人的には、その頃は意味のないことに無理やり意味づけをするような行為が今ほど横行しておらず、発生した事象を複雑にすることなく、捻じ曲げることなく、ありのまま受け入れて対処していたのではないか、社会全体がもっと寛容だったのではないかと淡い期待も込めて想像したりします。

間違っていたら、すみません。

誰かを納得させるために単純な事象を無理やり複雑にしたり、意味のないことに無理やり意味を見出そうとすることに労力を割く行為をやめませんか。

働き方改革と世間が騒いでいるこのタイミングで、誰かを納得させるためだけに費やされるビジネスパーソンの貴重な時間がなるべく減ることを期待していますし、僕が仕事に費やす時間の中で自己コントロール可能な部分については、そういう無駄な時間を削っていますし、これから一層そうしていこうと思っています。

多くの会社、特に大きな規模の会社の上層部の人たちが別に納得してくれなくてもよいから、データやエビデンス、ロジックや意味がない単純な事象をありのまま寛容に受け入れてくれたなら、現在の日本国内の労働環境が劇的に改善することは間違いありません。

『なるほど、分かりました。』という二言くらいで受け入れてほしいものです。

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