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大切なものを手放すこと

自分にとって価値あるもの、
貴重なもの、大切なものを、
もし自分以上に求めている
他人が側にいると分かったとき、
あなたはそれを手放して、
渡すことができるだろうか?

槇原敬之さんの歌である
『僕が一番ほしいもの』を聞いて、
そんな問いを投げかけられた気がして、
ドキッとした。


この歌には偶然、
Youtubeで行き着いた。

先日飲みに行ったカラオケもできるお店で、
あるお客さんが槙原さんの歌である
『遠く遠く』を熱唱されていて、
そんな曲もあったなと懐かしく思い、
運転中にYoutubeで聞いていると、
関連動画の中にその歌は出てきた。

その歌はこんな風に始まる。
※以下括弧の中は1番の歌詞の抜粋

「さっきとても素敵なものを拾って、
僕は喜んでいた。ふと気がついて、
横に目をやると誰かがいるのに気づいた。

その人はさっき僕が拾った素敵なものを
今の僕以上に必要としている人だということが
わかった。惜しいような気もしたけど、
僕はそれをあげることにした。

きっとこのままこの先探していれば、
もっと素敵なものが見つかるだろう。
その人は何度もありがとうと、
嬉しそうに僕に笑ってくれた。」
・・・2番につづく

果たして僕は、
今持っているものを、
僕以上に必要としていたり、
僕以上に上手に使える人がいたときに
それを渡すことを今までしてきたのだろうか。

過去を振り返ってみると、
お年玉3,000円を
僕以上に有効に使えるだろう、
(僕であれば1回分の飲み代で浪費してしまう)
中学生や高校生の従兄弟にあげたり、
革靴を1足も持っていなかった弟に
持っていた新品の革靴を上げたり、
読み終わった本を誰にふさわしいかを考えて、
正月に親族が集まったときに従兄弟に配ったり、
美味しいお酒をいただいたときは、
お酒が好きな人を誘って一緒に飲んだり、
会議に参加して、ファシリテーターに
頭の中に浮かんだアイデアを提供したり、
そんなことしか思い浮かばない。

生きるということは、
今自分が持っているものを
自分以上にふさわしい人に渡して、
その空白に新しいものが入ってきて、
またそれを自分よりもふさわしい人に渡して、
そんな繰り返しなのかもしれない。

これを何十、何百、何千の人に対して、
何十、何百、何千回できるかによって、
風格や、社会に対する影響力、
人生の充実感は変わるのかもしれない。

そんなことを
真夜中の帰り道で考えていた。

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