〜に流し流されて生きるのさ

『インターネットの利用を免許制にする。』

そうした方が空気の良くない事態を減らせると私は考えている。

極論の理由はリテラシーというものがあるからだ。

以下は特別、目新しいことは書いていないと思っている。


私たちは日本国内にいて平成を経て、令和に入りきらない内にインターネットを利用する側、される側としての日常に身を置く様になった。


スマホなどで話題やニュースを見ようとどこかのお勧めの記事を一覧すると、リテラシーの大事さやそれが軽んじられる傾向や無視した様な行いを時折目の当たりにする。

タップして、何となくの範囲で後悔していることもある。遣った時間とか、内容のどうでもよさとか。

いつも世の中にははみ出し者がいて、それは斜に構えるまでもなく、馴染みづらい『フツーなもの(こと)』に違和感を持てる感性を持った人でもあると私は考えるのだけれど、その人や集まりがインターネットに関わると、その『フツー』が変わることがある。


インターネット利用者としての『フツー』の良識を個々人の意識に任せることは、管理上は甘い上に、凶器になると思っている。

世代も、その真偽を確認する程度も異なる人同士が良くも悪くも平等に、同じ空間を利用することになるのだから、個人を危険に晒すリスクも平等にあり得る。

リスクもよく判らないまま反社会性に片脚を入れていることもある。

反社会性に興味を覚える年代になれば、ゲームのチートを知りたがることと似た様に、積極的にそちら側の知識を求めるケースもあるかと思う。


私たちがアカウントを持つことのよくあるSNSだろうと、情報を出す側にも編集能力や、構成の技術が要る。受ける側にも適切に読み取る技術が必要になる。

うっかりすると、ニュアンス1つで解釈が変わり、拡散すれば流れが大きくなって止まるにいたらず、法的に罰せられるところまで行くこともある。

旧来の電子掲示板でも、流れというものはよく見られていた。それは現在もどこかの質問サイトでも見られることだ。

1つの書き込みに対して、1つ否定的、懐疑的な意見がつき、後に続いた人もそうであったりすると、そういう見え方やニュアンスは出来始めてしまう。

場の空気というのだろうか。

誰かが罰せられても、その責任意識は分散していく。匿名性や、アカウントをまたいだロンダリングもあれば、その傾向はより強まる。


少し余談になるけれど、

発達障がいを持つ私にとっては、Amazon等での買い物で、決済までをインターネット上で行っても、金額といい、支払ったことといい、実感が湧きにくい。

それは過程から結果まで、行ったことが目に見えないからだ。

インターネット上に書くことも転載することも、リスクや責任の実感は湧いているだろうか?

人の反応から気付かされることは多い。


インターネット上では誰もが無難な利用の仕方をする、という保証が全く無い。

大人がいくら端末にロックや設定をかけようと、他の端末でネットを使い調べれば、子どもには知識が付き、外し方も簡単にわかってしまう。

情報を処理する能力に差がある内から同じステージに立たせることは、大人なら無責任なことだと考えるのが自然だと思う。

インターネットの利用を免許制にする、ということについて、

それをパスしてしまう良くない人は幾らでもいるのかもしれないけれど、私はリテラシーの保証は最低限は必要だと考える。

流れに乗るならば、乗るも反るも意識的に選択出来る様になれれば、と思っている。

せっかく軍事目的から始まったインターネットが民間に普及して、利用しながら生きていくのが自然な形になったのだから。


締めが少し昔のセカオワの様になってしまったけれど、記事のタイトルはオザケンこと、小沢健二のアルバム『LIFE』内の楽曲名を改変したものから。

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