シンプルってかんたん?
私が小さい頃、ピカソの若い頃の作品(銅像や絵)を本で見かけたことがある。
銅像を見て思ったことは、
『このひと、ちょうこくもつくれるの?』
そして、絵になると写実的だった。
『ふつうにむずかしくかけるのに、なんでかんたんなえをかくんだろう?』(ピカソさん、ごめんなさい。)
私には抽象画の質の高さはよく分からない。
だけれど、私の頭に残ったピカソの辿った道が、自分の中に物づくりのイメージを作った。それは物心ついて大分経ってからだ。
イメージはそのまま、
『抽象画のシンプルな1本の線は、複雑な線をいくつも重ねてきた結果で引かれたもの』
ということ。
ピカソの抽象画の作品は、子ども心には一見分かりやすそうでいて意味不明。そして、簡単そうな印象だった。大人になっても本気でそう感じている人は少ないだろうと思う。
TVや本で『ゲルニカ』という作品を見て、その線や造形1つとっても、剥き出しの、刺々しいものを感じたことがあった。私も意味が分からないなりに、感じてはいたようだ。
少し話がそれる。
TVで昔見たのだけれど、お笑いで即興の笑いに実戦で取り組む人がいる。
個人的には真面目に笑いを追求する姿勢に刺激される。だけれど、その即興の笑いがとても面白い、とは思えてこない事が多い。
私には即興の完成度という点について、疑問がある。
誰でも、試される舞台があるから頑張れる。
だけれど試される側として、毎度刹那続きで人に見せられる形にするには、時間が不足する。
個人的に、それは今に集中する、今を大事にする、ということとは少し違う気がしている。
お笑いに限らず、あなたにもアドリブが人に受けた経験はないだろうか?
即興が上手くいったとき。
それは日頃どこかで意識したことが、ふとした弾みで思いがけない形になって出ていたことに気付かされる。
火事場の馬鹿力は当人にその力が備わっていなければ出ない。
ある人は場数を踏むことの大切さをアドバイスする。
私のことになるのだけれど、ただ即興という場数を踏んで失敗を重ねて、改善もなく終わることがあった。
意識すら出来ない程の速さで失敗を積み重ねても、経験にはならない。絶対とも書けないけれど、苦い教訓だった。
即興のお笑いの環境で、面白いアドリブを繰り出す力が身に付くだろうか?
私の体験上ではそれは恐らく、難しい。
まずは1つ1つを人に伝わる形にする事ではないだろうか。
話を戻す。
ピカソという人が抽象画でシンプルな線を1本引く。そこには多分に意味が含まれると考えている。
私たち自身やその周りで、シンプルに映るものにはその作りに意味や根拠があるだろうか?
一見理にかなっていても、質がちゃちだったり、無駄が残っていないだろうか?
シンプルなものにはポジティヴ、ネガティヴのどちらの要素にも耐えうる強さがある。
結果、シンプルで集まったものはどこか淡白で、抽象的になってしまうのだけれど、それは無理もない話だと思う。
私は恐らく、普遍的なことというものは、結局普通に還っていくものなのだと考えている。
沢山の複雑な線を引いては削ぎ落としていく。最終的に必要で残ったものが意識の籠もった1本の線になる。
私たちがその沢山の複雑な線を引くにあたって、
ネットやメディアに触れたときは分かりやすさを求めがちだけれど、内容の複雑さや小難しさに耐える力も必要だと思っている。
賢い誰かに端折った説明で踊らされないために。
それから、いつか誰かにシンプルに伝えるために。
それはきっと、役に立つ。
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