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『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』をめぐる対談【その2 アニメーション篇 第3回(全3回)】

人形アニメーション秘史

~人形芸術の極限に挑んだ川本喜八郎と、
日中友好に作家人生を捧げた持永只仁を中心に

壱岐國芳(川本喜八郎研究家)
聞き手・朝倉史明(編集者)

■第3回 「戦後アニメ隆盛史
作り手の大人と視聴者の子どもが“真剣勝負”をしていた時代」

 DU BOOKS発行の単行本『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』(以下、本書)は、音楽評論家・秋山邦晴(1929~96年)が1971年から78年にかけて「キネマ旬報」に執筆した、伝説の連載「日本映画音楽史を形作る人々」(全63回)を書籍化したもの、である。
 本書をめぐる対談の“第2弾”となる今回は、秋山が連載で4回にわたって取り上げた「人形アニメーション」を中心としたアニメーション全般の魅力について、川本喜八郎研究家の壱岐國芳氏に語っていただいた(全3回。聞き手は本書の担当編集者・朝倉)。

【第1回】はこちらから。
https://note.com/dubooks/n/nf98790b4bce9

【第2回】はこちらから。
https://note.com/dubooks/n/n9517e25083d5

●岡本忠成作品の衝撃

■朝倉 岡本忠成さんについては秋山さんは第55回などで取り上げられていますが、岡本さんのご業績も素晴らしいものです。星新一の小説が原作となっている『ふしぎなくすり』(1965年)、『ようこそ宇宙人』(1966年)、『キツツキ計画』(同)、『花ともぐら』(1970年)や、さねとうあきらの創作民話を情感ゆかたに演出した『おこんじょうるり』(1982年)、そして『チコタン ぼくのおよめさん』(1971年)……。先ほど、滝平二郎さんのお話のくだりで、斉藤隆介さん作の『モチモチの木』のことに触れましたが、岡本さんもこの『モチモチの木』を、滝平さんとはまた違った風合いの登場人物を用いて、見事に映像化(1972年)しておられます。
■壱岐 私は岡本忠成さんにお会いしたことがなくて、川本先生や岡本さんのご関係者の方々からお話を伺ったり、作品集を何度も観て大ファンになった遅ればせながらの一ファンなのですが、川本先生、持永先生と並ぶ、偉大な、世界的なマエストロだと思います。もっともっと世界に知られて評価されるべき方だと思います。1990年に58歳で亡くなってしまわれたんですが、その時の川本先生による弔辞が痛切で、胸に迫ります。「国もマスコミもそれを文化として中々認めようとしてくれない中で、信じられない程、手間暇も金もかかる、それでいて全く金にならないアニメーションというものの魅力にとりつかれ、何年も何年もやり続けてきた同志」を失った喪失感と悲しみです。その弔辞の中で、川本先生は岡本忠成さんの作品群について、「誰かがつらい時、困った時、温かい思いやりで勇気づけるというのが、岡本さんのすべての作品からきこえてくる、愛のメッセージです。」と讃えておられます。
 川本先生は岡本さんより7歳年長です。ちなみに、気がついて驚いたのですが、おふたりのお誕生日はともに1月11日。同じなんです。作風はまったく異なりますが、お互いに認め合い、切磋琢磨して人形アニメーションを極めようとしておられた素晴らしい盟友であったことがよくわかります。お二人とも持永只仁先生の直弟子でした。だから持永先生がまかれた種が花咲いた、といえます。
■朝倉 岡本作品でも音楽が大変に印象的ですが、なかでも歌のイメージが強くあります。
『南無一病息災』(1973年)の、画と及川恒平の歌の優しさとか、『おこんじょうるり』で狐のおこんによる浄瑠璃(曾我マミ)の凛とした清々しさなど……。『おこんじょうるり』では婆さまの、矍鑠とした力強い見事な語り口にも魅せられました。誰かと思ったら大ベテランの女優・長岡輝子さんで。大いに納得しました。
■壱岐 先ほども言いましたが、岡本さんは作風をあえて一作ずつ変えておられたんですね。
■朝倉 映画評論家の登川直樹さんが、「視聴覚教室」という雑誌の1990年3月号(日本視聴覚教育協会・刊)に、岡本さんの追悼文「岡本忠成さんに合掌」を寄せておられました。
 「1本ずつ新しくテクニックを試みていくその創造力の豊かさに感服する。ペーパークラフトの『キツツキ計画』、木彫り人形の『さるかに』(※引用者補足:1972年)、絵馬の調子を生かした『南無一病息災』、毛糸で線画の技法を試みた『五つの小さなお話』(※引用者補足:1974年)、泥人形の『おこんじょうるり』などなどとどまるところを知らない。いずれも日本の土俗的なスタイルを、まったく新鮮な感覚で作りなおしてみせるところがすばらしい」と書いています。
 人形アニメだけでなく、水彩画のようなアニメもある。作品のタッチが前のものと、がらっ、と変わる。アニメーション作家の山村浩二さんも、作品ごとに技法を変えていった岡本さんの姿勢に影響を受けている、とおっしゃっています。そして岡本さんのこの姿勢について山村さんは、「常に作品に対して忠実に向き合う。自分のスタイルをひとつ押し通すのではなくて、作品に対して最良の方法は何だろうと探っていく」ものだと言っておられる(山村浩二「岡本忠成の仕事」〈LOOP 映像メディア 東京藝術大学大学院映像研究科紀要 Vol.6〉東京藝術大学大学院映像研究科・刊)。
■壱岐 岡本さんの作品では、亡くなられた保坂純子さんという方が多くの作品で人形製作しておられて、毎回、物語にふさわしい素材を工夫し、大変すばらしい人形たちを岡本監督に提供しておられました。保坂さんのお通夜の会場にその人形たちが展示されていて、私は拝見してジーンと来ました。
 私が好きな作品は、やはり『おこんじょうるり』(1982年)、そして『日本むかしばなし さるかに』(1972年)ですね。私が好きな文楽の「曽根崎心中」でもそうですが、人形というものは、死を演じると本当に死んでしまうのだ、と、『おこんじょうるり』を見ると実感します。あれを見たら、可愛いやら、悲しいやらで、涙が止まらなくなります。可哀そう過ぎて観られない……という人もいるくらいです。人形でなければ表現できない”健気さ”と”切なさ”が良く出た名作だと思います。
 一方の『さるかに』の方は、皆さんご存じのように親のかたき討ちの昔話で、ひょっとすると今の世の中では扱いにくいテーマなのかもしれません。でも、岡本忠成監督はその物語を真っすぐに取り上げているのが印象的です。弱い者をいじめる強欲で自分勝手な者への怒りとか正義感がはっきりと出ている点が岡本作品らしくて私は好きですね。演出もドラマチックでとても面白い。
 それから、宮沢賢治原作の岡本監督作品『注文の多い料理店』(1991年)は、後半が製作途中のまま亡くなってしまわれた岡本監督に替わり、川本先生が監修して完成させた作品です。川本先生は盟友岡本さんのその遺作を完全なものにして差し上げようと、やや不完全だった絵コンテと演出の一部を変更して素晴らしい作品に仕上げました。私は川本先生が遺されたその絵コンテ群を拝見しましたが、その勇気ある演出変更は正解であったと納得しました。後半の大広間でのシーン、二人の男の前に現れる踊り子のシーンです。旧スタッフとともに仕上げる中での絵コンテの書き変えはとても勇気の要ることだったはずですが、川本先生は友のための責任を果たしたわけです。本物の友情だったことを私は確信し、感動しました。ちなみに、この作品でメインの作画を担当されたのは奥山玲子さんです。
 岡本作品で英訳されているものは、現在、どれくらいあるのでしょうか、いずれにせよ、これから世界的な認知度が広がっていくでしょう(●写真1)。
■朝倉 登川さんが、カナダの国立映画庁のアニメ部門の人たちに岡本さんの『ちからばし』を見せたところ、「おはなしと色の使い方のうまさを激賞してくれた」のだそうです。ただ、「語りの内容は翻訳できても、語りの調子を感じとってもらえないのは残念である」
と。この点も十分に理解したうえで評価してもらえるといいですね。
■壱岐 岡本忠成作品DVDは、これまで絶版になっていて中古版が高騰しましたが、今回、高画質版が通常価格で買えるようになったことは、ファンにとってはもちろん、研究者にとりましてもありがたいことだと思います。

(写真1)岡本忠成作品のDVD

■壱岐 ちなみに岡本作品に参加されたスタッフには、人形を作っておられた保坂さんをはじめ、川本先生の作品と共通でやっているかたが多いんですよ。カメラマンの田村実さんも両氏の作品を知っている貴重なかたです。
■朝倉 田村実さんは、岡本さんの会社である(株)エコーで、岡本さんの作品の撮影助手としてキャリアをスタートされたんですね。
■壱岐 岡本さんの作品には、社会の、悪というか、理不尽さ、それに対する正義感とか怒りのようなものが感じられます。たとえば交通事故……。そういうものに対する激しい憤りがストレートに出てきていて、心打たれます。『チコタン ぼくのおよめさん』がその代表的な名作でしょうね。ラストが衝撃的です。岡本忠成さんという方は本当に心が温かくて正義感のお強い方であったのだろう、と、私は感銘を受けました。
■朝倉 一見するとかわいい作品でも、観終わってから、その根底に、怒りとか苦さがあることに気づかされる……。山村浩二さんも、先にご発言を引用した紀要で(※もともとは公開講座の内容を編集したもの)、「フィルムに人の『心』というものが描かれている作品は、なかなか少ない気がしますが、岡本さんの作品は『心』を強く感じさせます」とおっしゃっていますが、そのとおりだと思います。
■壱岐 私はかねてから思っているんですが、戦争中に大変な思いをして戦後を懸命に生きてきた人たちは、様々なことを体験したり、見聞きしていますから、「これからは理不尽でない社会にしたい」という願いを強く持っておられたんですよね。
■朝倉 それは本当にそうですね。戦後の社会運動なんてまさに、「もう理不尽なことはごめんだ」という思いに端を発していますよ。川本さんが巻き込まれていった東宝争議もそうだったと思います。

●戦後のアニメーションの隆盛を観て育った世代

■朝倉 壱岐さんは以前、お生まれが1958年、昭和33年ということで、「テレビアニメの隆盛とともに育った」とおっしゃっていましたね。
■壱岐 国産初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963~1966年)のテレビ放映が始まったのが昭和38年で、私が一年間だけの幼稚園に通った5歳の時でしたので、まさにテレビを観て育った、ドンピシャリの世代です。ちなみに、その昭和38年はテレビアニメと漫画映画の全盛時代スタートの画期的な年なんです。テレビでは『鉄腕アトム』に続いてすぐに横山光輝先生の『鉄人28号』、『エイトマン』、『狼少年ケン』、いずれも大ヒットした名作です。また、映画では東映動画による名作がさらに続々とつくられました。
ちなみに横山光輝先生も豊島区ゆかりの偉大な漫画家です。
■朝倉 そうなんですよね。劇場用のアニメの分野も大きく花開いた時期でもありますよね。東映動画作品もお好きだそうで、ご所蔵のDVD、壮観です……(●写真2)。
■壱岐 孫にも全部、見せていて、成長とともに変化する反応を観察しています(笑)。

(写真2)壱岐氏の私物のDVDコレクション

■壱岐 私が東映動画作品に関心を持ったのは、持永只仁という人物をもっと知ろうとするうえで、その師匠である瀬尾光世さんのことを調べて、さらにその師匠の政岡憲三さんまでさかのぼって勉強してみたところ、政岡さんの教え子の中から戦後の東映動画を経由して現在のスタジオジブリへと良質なアニメの遺伝子が伝わっていることに気づいたから、なんですよ。
 それで、東映動画の初期の15~16年間の作品を、連続して何度も観直してみたら、漫画映画の変遷が理解できたんですよ。作品冒頭のクレジットを確認すると、いろいろな気づきもあって、なるほど、と実感しました。政岡憲三さん、森康二さん、大塚康生さん、高畑勲さん、小田部羊一さん、宮崎駿さん、といった系譜です。
 余談ですが、持永先生には東映動画の立ち上げに際して参加のお誘いがあったそうですが、自主作品製作を目指す持永先生は参加をお断りしたそうです。
■朝倉 東映動画の作品で特にお好きなものはどれですか?
■壱岐 私にとっての東映動画作品というと、幼い頃、テレビで観た『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』(1962年)と『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)。本当に大好きで、歌まで暗記しているほどです。音楽が素晴らしいというのはもっともなんですよ、『シンドバッド』は当時新進気鋭の冨田勲さん、『わんぱく王子』はゴジラの音楽でも有名な伊福部昭さんですから。
 あとは中学校の文化祭で鑑賞した『西遊記』(1960年)の印象が強くあります。
 『西遊記』は手塚治虫先生が構成を担当しておられますが、手塚先生の存在がありながらも画はしっかりと東映動画調ですよね。手塚先生は多くの原案で参加したものの、東映動画のキャラクターデザインでは担当させてはもらえなかった。ディズニーの影響を受けていると思われた手塚先生に対して、東映は独自の画風を志向していましたからね。その頃の東映動画にはすごい一流の先達たちが活躍していましたからね。
 『わんぱく王子の大蛇退治』(●写真3)は、ディズニーの『ファンタジア』(1940年)を超えようと、音楽の伊福部昭さんとスタッフが一丸となった完璧な映像と音楽の作品だと思います。製作メンバーも凄くて、演出助手だった高畑勲さんと、動画に参加された月岡貞夫さんのおふたりは、後に『狼少年ケン』(1963~65年)を作ることになる。そして、天岩戸の前での踊りのシーンを手掛けたのが、明治製菓の「カール」のおじさんのアニメーションでも有名になった、ひこねのりおさん。クライマックスのヤマタノオロチとの迫力ある戦闘シーンは大塚康生さんならではの名場面ですね。さらに、原画には、2019年のNHKの朝の連続テレビ小説『なつぞら』の主人公のモデルになった奥山玲子さんもいらっしゃった。
■朝倉 『なつぞら』、毎朝欠かさず観ていました。
■壱岐 奥山さんがおられたことで、画に優しい感じが出た気がします。ヒロインが、ただ単に美しいだけでなく、より人間的で、内面的な深みが増しているように感じました。そして、奥山さんと結婚される小田部羊一さんも動画で参加されているなど、後年に活躍される人たちの特色が作中にはっきりとあらわれていて、その点を観るのも実に面白いです。ちなみに、奥山玲子さんと小田部羊一さんのご夫妻は、2003年に発表された川本喜八郎先生の連句アニメーション『冬の日』(●写真4)にもご参加されていますね。
 話を戻して、それから、主人公・スサノオの声をあてた住田知仁さん。
■朝倉 少年時代の風間杜夫さんですね、これが実に上手い……。
■壱岐 天才的ですよねえ。

(写真3)『わんぱく王子の大蛇退治』のDVDと絵本
(写真4)『冬の日』のDVD

●東映動画の黄金時代とその前史

■壱岐 私は、作画監督の森康二さんが大好きで、その特徴を最もあらわしているのが、作画監督を担当された『わんぱく王子~』だと思うんです。森さんは回想で、「これ以上のキャラクターはもうできない」とおっしゃったくらいの自負があった。この作品にはディズニー色がまったくないですよ。私は絵と音楽も脚本も完璧な、日本のアニメーション映画を代表する作品のひとつだと思います。
■朝倉 そもそもストーリーが、スサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治など、日本の神話がベースですしね。
■壱岐 背景は日本画のようで、キャラクターは埴輪風で可愛らしい。そして、きわめて平面的な画でありながらも立体的なものを表しています。そしてその画と、伊福部昭の音楽が一体になっている……。伊福部さんは後年、『わんぱく王子~』の音楽を交響組曲として発表しておられます。私の大好きな音楽作品です。
■朝倉 『交響組曲「わんぱく王子の大蛇退治」』(2003年)。伊福部さんにとっても、やはり思い入れのある会心の作品だったんですね。
■壱岐 様々な面で魅力あふれる作品なんですよ。
 東映動画でちょうど大工原章さんと私が尊敬してやまない森康二さん、そして大塚康生さんが中心的な存在になったころに、動画と原画に奥山玲子さん、演出助手に高畑勲さん、そしてあの宮崎駿さんが入社され、黄金時代が築かれていくのですが、ディズニー映画とは全く異なる日本の漫画映画を目指した想いとセンスが結集したのが、『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』に続く、この『わんぱく王子~』だったように思います。作画監督という初めての制度でそれを担当し、成功させたのが森康二さんでした。
 興行的にも成功したのは『長ぐつをはいた猫』(1969年)でしょうね。宇野誠一郎さんの音楽の楽しさと、特に物語後半に繰り広げられる大塚康生さんや宮崎駿さんによるコミカルでスリリングなアクションシーンの名場面が有機的に繋がっていて見事です。
■朝倉 音楽は宇野誠一郎、脚本は井上ひさしと山元護久という、『ひょっこりひょうたん島』(NHK 1964年4月~1969年4月放送)でも知られるゴールデントリオで。私は『長ぐつ猫』シリーズの第2作『ながぐつ三銃士』(1972年)を先日初めて観ましたが、こちらはマカロニウエスタン風味の西部劇で、ガンファイトも迫力があって面白かったです。
■壱岐 その『ひょっこりひょうたん島』、それだけで1時間以上語れる面白い番組でした。変な大人たちの生態を、子どものまっさらな客観的な目で風刺し、笑い飛ばすミュージカル仕立てのひとみ座さんによるTV人形劇で、大人が聴いても難しい高度なセリフのオンパレードでしたが、案外、子どもたちは理解し面白がっていました。私もその一人でした。子どもを子ども扱いせず、子どもだましでない「制作側の大人の本気」が伝わる大人気な名作でしたね。
 話がそれました。ちなみに、“日本のアニメーションの神様”と言われているほどの功績を残した森康二さんの先生にあたる存在が、『くもとちゅうりっぷ』(1943年)を作られた政岡憲三さんです。
■朝倉 本書には政岡さんのインタビューも出てきます。
■壱岐 政岡さんは、親からの財産を生涯かけて使い果たしてアニメーションに捧げたというかたで、教え子には瀬尾光世さんもいました。瀬尾さんは、ディズニーが「四段マルチプレーン」という技術を作ったと聞いて、どういうものであるかを想像しながら、なんとその2年後に独自に作り上げてしまった。『桃太郎の海鷲』にその技術が生かされています。そしてこの作品の撮影と技術、構成を担当されたのが持永さんで、四段マルチプレーン撮影台を工夫して製作したのも実はこの持永さんです。なんでも作る精神と技術力を持っていた持永さんは、ディズニーのマルチプレーン撮影台というものを見たことはなくても、想像して同じものを作れたのですね。
 その後で瀬尾さんは、政岡さんが在籍しておられた松竹動画のほうに行かれて、政岡さんが影絵で参加された『桃太郎 海の神兵』(1944年製作)の演出を手掛けることになる……。
 この『海の神兵』が公開された1945年の日本は、空襲によって多くの地が焼け野原になっていて、この映画を観た人はほとんどいない、と言われていますけれど、手塚治虫さんは封切り時に観ていて、「自分もこういう漫画映画を作ろう」と決意した、と自伝に書かれています(出典:『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝1』毎日新聞社ほか)。そしてこの作品へのオマージュが、手塚さんが描かれたテレビアニメ『ジャングル大帝』(1965年)ではないかと言われることもあります。『海の神兵』における動物たちによる「アイウエオの歌」の合唱シーンと同じようなシーンがあると。私もそのシーンを確認しました。そのように、ものすごく影響を受けています。
■朝倉 師弟関係だったり、観客だったり、とにかく皆さん、しっかり繋がっている。
■壱岐 持永さん、政岡さん、瀬尾さん、そして手塚さん。各氏へのインタビューがこの本に収められていますが、本当に大変貴重なものですよ。よくぞ残してくださいました。
■朝倉 編者として言うのは変ですが、もっと早く本になるべきだったと思うんです……。
 あと、本書の中ではタイトルが出てくるだけでしたが、高畑勲演出の『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)も東映動画を代表する1本と言われていますね。間宮芳生による音楽も、スケールが大きく、しかし哀感が漂っていてとてもいい。巨人の造形に、宮崎駿っぽさを感じたりして面白く観ました。
■壱岐 『ホルス~』は群集劇ですので大変な時間とコストがかかったと言われています。個人的には――こんなことを言うとファンの方々から怒られるかもしれませんけれども――当時の感覚としては、たぶん、目指しているものが高度すぎる、と思われただろうと思います。少し生真面目すぎる感じもあって……。2019年に東京国立近代美術館で開催された大回顧展『高畑勲展』で、製作当時のスタッフの皆さんの情熱とチャレンジの意義を知ったのですが、その目で観ますとね、予算と製作期間カットのためか静止画で処理せざるを得なかったのであろうシーンなどが、高畑勲さんと宮崎駿さんの大ファンであるだけに、正直、つらいんですよ……。ご存じのように、ものすごく革新的なことをやられたのですが、興行的には苦しかったようです。でも、後のアニメに大きな影響を与えましたね。『ホルス~』を観ると、その後から現在に至るアニメ映画の発展、大人の鑑賞にも堪え得る芸術作品への発展の萌芽がいくつも感じられます。とにかく画期的な作品であることに間違いありません。
 高畑さんと言えば、フランスで製作されたアニメーション『王と鳥』(1979年)を先日観たんですが、実に素晴らしかったですよ(●写真5)。

(写真5)『王と鳥』のDVD

■朝倉 高畑さんには『王と鳥』についての著書(※『漫画映画の志―『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』』岩波書店・刊)があるんですね。スタジオジブリが絡んだ再上映も(※2006年に)されている。
■壱岐 この作品が日本のアニメ界に与えた影響はやはり大きいです。東映動画で宮崎駿さんが関わられた漫画映画『どうぶつ宝島』(1971年)や、『ルパン三世』、そしてその後のスタジオジブリ作品へも影響を与えてきたように感じます。
■朝倉 『王と鳥』って、“いわくつきの作品”なんですよね。『王と鳥』として製作が始まったものの、なかなか完成しないことからプロデューサーがしびれを切らして、監督の意向を無視し、途中までの素材などを使って違う作品――『やぶにらみの暴君』(1952年)として完成させ公開してしまった、という……。
 『やぶにらみの暴君』という作品タイトルは、昔の映画の本でよく、名作として紹介されていて、そのタイトルは強く印象に残っていましたが、でもそういう裏話があったことは最近まで知りませんでした。製作開始から四半世紀ぶりに正式に『王と鳥』が完成しますが、皮肉なことに『やぶにらみの暴君』のほうが名作なのではないか、という声もあるようで。ちなみに『王と鳥』は、秋山さんの著書『シネ・ミュージック講座 映画音楽の100年を聴く』(フィルムアート社・刊)では、『王と幸運の鳥』、という邦題で紹介されていました。
 ここで話を日本に戻しますが、一般的に日本の草創期のテレビアニメというと虫プロの『鉄腕アトム』の名前が真っ先に上がる印象がありますが、東映の『狼少年ケン』も重要な作品なんですね。
■壱岐 そうなんです。
 月岡貞夫さんが原作とキャラクターデザインを手掛けておられたそうですが、放送は毎週だから複数のチームによる分担制で作らなければ間に合わない、ということで、決められた設定を守りさえすればあとは自由でいい、ということになったらしい。これが、ユーモアのある回があり、お涙頂戴の回があり、というように様々なテイストを生みだして、作品世界を豊かなものにした。高畑さんも何本か演出をして、これが大きな経験になったそうですけど、そういう意味でも、人を育てたと言えますよね。2年間で計85話も続いた大人気番組で、私も大好きでした。おまけシールの付いた森永製菓さんの「まんがココア」と「まんがジュース」は子どもたちに大人気でした。キャラクターもさすが東映動画さんらしくしゃれていて、ストーリーも展開が速くて面白い。
 この『狼少年ケン』のテレビ放送が始まった昭和38年というのは本当にすごい年でしてね。有名な日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』が始まり、続いてTCJ(現在のエイケン)の『鉄人28号』(~65年)、『エイトマン』(~64年)、そして東映動画も『狼少年ケン』もスタートし、劇場では東映動画の名作『わんぱく王子の大蛇退治』も封切られた。いずれも時代を画す名作でした。
 どれもこれも、昭和の子どもたちの真剣勝負の遊びだったメンコにもなっていましたね。
■朝倉 鈴木伸一さんが最初の社長を務めたスタジオゼロができた年でもある。
■壱岐 『オバケのQ太郎』で、ラーメン好きのキャラクター・小池さんのモデルになった鈴木伸一先生ですね。トキワ荘の漫画家メンバーでいらっしゃって、アニメーション映画の開拓者になられた先生で、いま私ども豊島区の者も大変お世話になっております。
 スタジオゼロはトキワ荘に住まわれた漫画家の先生方が結集して設立された会社で、『オバケのQ太郎』こそ、真の協働作品だったと言えると私は思います。キャラクターを最初は分担して描いておられたということを最近知りましたが、いま読んでも、何度見ても面白いです。Q太郎は、空を飛ぶことと、消えたり、壁を通り抜けたり、変身したりできるだけで、何も事態を解決しないどころか、何をやっても失敗する……という困った子なんだけど、ストーリーは当時の世相をよく映し出していて、ユーモアと風刺の利いた良質で独特なギャグ漫画になっているんです。
■朝倉 私もオバQは大好きです。小学生の頃から、もう何回読んでいるのか……それでもいまだに笑えます(笑)。

●大人たちが真剣で、“子どもだまし”がなかった時代

■壱岐 今、お話ししたような作品を観てつくづく思うのは、かつては大人たちが「これからの社会を担っていく子供たちにどういう未来を迎えさせるか」ということを真剣に考えていて、“子供だまし”というものが少なかったな、ということです。各制作会社の大人たちは一作一作真剣勝負でしのぎを削り、音楽も一流で、キャラの立った新ジャンルのアニメを次々に放映し、それを観る子どもたちも、今のように録画などできないので、見落とすまいと真剣に観ていました。
 余談ですが、週刊少年漫画雑誌の「通信販売」コーナーでは、ホントに子どもをだますような、今から思えば詐欺スレスレの広告もあったようですね。例えば、「水中でも無線で動く金属製ロボット」を買って届いた箱を開けてみたら、小さな金属製フィギュアと磁石だけ、だったり(笑)。でも、子どもの方だって大人たちに騙されまいと真剣勝負でした。よく言えば、子どもたちはそうしてたくましく育っていったとも言えそうです。
 スタジオジブリさんやいくつかの作品は別として、今、興行的に大ヒットしたとしても、果たして次世代のことを本当に真剣に考えてあのように心血を注いで作品を作っているだろうか・作ることができるだろうか、と考えさせられます。
 とにかく、そんな戦後の、時代の空気というかな……特定の人物だけじゃなくて、その時代そのものを体系的に研究して評価しておく必要があると思います。私はそういう大人たちが作り上げてきた作品を、テレビや映画から様々な感動を受け取って育ってきた人間です。あの東京タワーと同年生まれなのですから、テレビ世代そのものと言っていい。幼稚園生のときにテレビアニメ第一号の『鉄腕アトム』と『鉄人28号』で科学・ロボット・ヒーローという言葉を知ると同時に、ケネディ大統領と力道山が亡くなったニュースを聴いて「ヒーローがなぜ死んでしまうんだ!」とショックを受けて、小学校1年生の時の東京オリンピックでは世界の中の日本に気づきました。またその幼児期にNHKの子ども向け番組とテレビCMで川本喜八郎先生の人形アニメーションを見て、本来動くはずがないものが動いている新鮮な驚きを感じて育ちました。さらに、小学6年生ではスポ根ものや劇画など今日に至る様々なバリエーションのTVアニメに触れつつ、その夏、アポロの月面着陸でSFマンガの世界が現実になっていく感動を味わい、中学1年生では大阪万国博覧会でいよいよ未来の世界へワクワクしました。
 その一方で当時「公害」と称された環境汚染、そしてベトナム戦争の悲惨などの世界の混沌を感じ、その後は30歳台前半で日本経済のバブル崩壊に直面し、日本経済の低迷とともに勤め人時代を終えたという、日本経済と文化の明暗をともに目撃し経験した世代です。時代の画期を体験したそんな世代の人間として、前の世代の人たちから受けたもの、その文化をどのように受け止めて育ったかを語っておく意味も少しはあるように思うんです。
■朝倉 それをダイレクトに受け取られた壱岐さんは、いろいろな活動を通じて、伝えようとしておられます。そこに、高橋アキさんが秋山邦晴さんのご生前の取り組みについて「歴史を知ることの重要性」とおっしゃっていたことと、同じ意志を感じるんですよ。
■壱岐 人間の文化の中でたとえば映画だけを切り取ってみても、映画自体、まだそれほど歴史のあるものではありません。ましてや人形アニメーションは、とてもマイナーな存在で、歴史もさらに浅い。だからこそちゃんと研究しなければいけないと思うんです。そのためには資料を後世に遺さなければいけません。
 芸術家が亡くなると、残された膨大な資料はやがて散逸してしまいます。そうなってはいけない、ということで、写真記録でアーカイブしていきましょう、という活動を川本プロダクションの福迫社長のご理解協力とご支援をいただき行ってきたわけです。6~7万枚の写真を撮って、主要なものはデータ化してお渡ししているんですが、さらに詳細な私がやらねばならない分類整理はこれからです。今は豊島区の財団に奉職中なので作業は一時中断していますが、私が自分に課したこの作業は生涯続くと思います。

●「地霊」の水脈を「まちづくり」にも活かす

■朝倉 壱岐さんは、なぜ、作家のことだけでなく、土地のことなども詳しく調べておられるのですか?
■壱岐 何か一つのことを本当に知るためには、まずその土地の「地霊」を知る必要がある、ということを、月刊誌「中央公論」の名編集長として戦後の文壇と論壇を育てられ、後年には月刊誌「東京人」を創刊された故・粕谷一希先生から教わったからなんですよ。
 「地霊」というのは、私の理解では、過去にその土地で生まれ育ち、あるいはかつて関りを持った人たちが積み重ねてきた事績や情念、つまりその土地の文化の遺伝子のことだと思っています。敬意をもって「地霊」を調べ、深く知った上で、自分たちの未来の子孫たちのために責任ある選択をする。これが「公共の精神」であると。ですから、先人たちのおかげで今の私たちがいることを忘れずに、過去と未来を繋いで、次世代のことを大切に考える町づくりをし、そういう文化を醸成できればいいなと思っています。とにかく今だけを生きて、今の利害得失ばかりを考えていると、どうしてもいやしい生き方になってしまう、と私は思うんです。

(写真6)粕谷一希の著書

 私は、川本先生のことを研究したことで持永先生の存在の大きさに気づいた。そして、粕谷先生からの教えを思い出して、豊島区雑司ヶ谷の歴史を私なりに深堀りしてみたら、一つの「地霊」の水脈に当たって、それが様々な他の水脈と立体的につながってることを知った……というわけです。豊島区の雑司が谷のことだけでも、調べてみたら様々なことがわかったのですから、日本全国、その土地・その土地で、地元の人たちが先人たちのことをしっかり調べて、その地の図書館が情報を発信する拠点になったとしたら、心豊かな町でいっぱいになるでしょうね。図書館はそういう場所でもあって欲しい。これも粕谷先生の教えです。
■朝倉 なるほど。
■壱岐 今から21年前、粕谷一希先生は高野之夫区長による豊島区の「文化によるまちづくり」構想のご相談に対して「編集の手法によるまちづくり」を説かれました。それが現在の豊島区国際アート・カルチャー都市づくりにつながっているのです。
■朝倉 「編集の手法によるまちづくり」、じつに興味深いです。
■壱岐 粕谷先生によれば、「編集とは、筆者とテーマの選択的構成である」と。粕谷先生はおっしゃったそうです。「まずは地域の文化についてよく調べることから始めたらどうだろうか。地域に根付いた文化には背景がある。その背景を知ることが大切だ。サロンのような座談会を定期的にやってみよう」と。それが、「ふるさと豊島を想う会」の始まりでした。会発足の趣意書を一部抜粋しますと、「……これまで市井に隠れ、孤立している知識人たちが、分野を超えて連帯し、相互の世界を理解し、協力して新しい構想力を生むことでしょう。詩人や文士、学者やジャーナリスト、画家や音楽家、演劇人や芸能人、これからは多彩な分野の人々の社交の時代です。政治家や官僚、実業家もそうした社交の輪に参加することで新しい視野が開けることでしょう。……」(出典:『文化によるまちづくりで財政赤字が消えた』(溝口禎三・著、めるくまーる・刊)(●写真7)

(●写真7)『文化によるまちづくりで財政赤字が消えた』

■壱岐 この運動論は現在の豊島区国際アート・カルチャー特定大使2,100名へとつながって、いま豊島区は官民連携・民民連携による全国でもめずらしいスキームでのまちづくりに取り組んでいます。区民でなくても、そんなまちづくり構想と運動論にご賛同いただける方ならばどなたでも特命大使になってイベントを企画提案し主役になるチャンスが得られます。豊島区ではそんな考え方で、持続可能で「誰もが主役になれる」まち、SDGs未来都市を目指しています。
 私はそんなまちづくりのスタートとなったともいえる「ふるさと豊島を想う会」の事務局の端っこで学ばせていただきました。そして学んだことの実践として、秋田アトリオン音楽ホールへ2年間単身赴任して、町と県と民間指定管理者の三者連携による公立音楽ホールの経営再建を果たす、ということもやりました。豊島区の財団に奉職しているご縁には、実はそんな経緯もありました。
■朝倉 壱岐さんがいま豊島区の文化財団にいらっしゃるのは、人形展とシンポジウムだけでなく、もっと以前からのそんな豊島区でのご活動があったからなのですね。よく理解できました。
■壱岐 私はこの対談で語り過ぎたかもしれません。私のようなアニメーションを観るだけの素人が、偉大な尊敬すべき、川本先生や持永先生やトルンカ先生のことを語ることなど、とても畏れ多いことです。でも、昨今の新型コロナ禍の状況下、誰もがいつどうなるかわかりません。知っていることや気づいたことを何も語らぬままに終わったら後世に偏った情報しか送れないですよね。ですので、敢えてご批判も覚悟の上、はじめてのことを多く語りました。
 皆さんも貴重なお話をたくさん持っていると思うのでぜひ話して欲しいですね。
■朝倉 今日は壱岐さんからいろいろなお話を伺えて、実に楽しい時間を過ごさせていただきました。大変でしょうが、今のファンの方々の他、後世の方たちのためにも頑張っていただきたいと思います。また、「豊島区国際アート・カルチャー特命大使」と「SDGs特命大使」の事務局としての今後のご活動にも期待しております。
 どうもありがとうございました。

秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜
~マエストロたちはどのように映画の音をつくってきたのか?

秋山邦晴 著 高崎俊夫+朝倉史明 編集
カバーデザイン:西山孝司 本文組版:真田幸治
A5・並製・672ページ 本体5,800円+税
ISBN: 978-4-86647-107-5
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK263

壱岐國芳(いき くによし)
1958年生まれ。川本喜八郎研究家、人形アニメーション史研究家。1980年早稲田大学卒。生命保険会社に入社し不動産・教育・営業管理など経験後、関連の教育会社へ志願出向。文化人100名に人生を訊くラジオ番組『元気e!』を企画推進しメルマガ・出版・教育プログラム開発など手掛けた後、秋田アトリオン音楽ホールの民間指定管理責任者に指名され公共ホールの経営再建も果たす。60歳で本社を定年退職後、川本プロダクションを経て、としま未来文化財団(東京都豊島区)の幹部として招かれ、区民活動を支援し「文化を基軸としたまちづくり」を応援。2023年3月、65歳財団定年を機に、ライフワークの人形美術家/アニメーション作家・川本喜八郎と持永只仁の研究など、著述と創作活動を再開。

朝倉史明(あさくら ふみあき)
1974年、神奈川県生まれ。編集者。大映映画スチール写真集『いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。』(責任編集・監修:小西康陽、DU BOOKS)や、2016年版から毎年発行している『名画座手帳』(企画・監修:のむみち、往来座編集室)、1968年に引退し今も根強い人気を誇る女優・芦川いづみのデビュー65周年記念の単行本『芦川いづみ 愁いを含んで、ほのかに甘く』(高崎俊夫との共編、文藝春秋)などの編集の他、日活映画『事件記者』シリーズのオリジナル・サウンドトラックCD(CINEMA-KAN Label、音楽:三保敬太郎)のプロデュースを手掛ける。

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