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『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』をめぐる対談【その2 アニメーション篇 第2回(全3回)】

人形アニメーション秘史

~人形芸術の極限に挑んだ川本喜八郎と、
日中友好に作家人生を捧げた持永只仁を中心に

壱岐國芳(川本喜八郎研究家)
聞き手・朝倉史明(編集者)

■第2回 「日中の人形アニメ創始者・持永只仁
~日中友好の懸け橋となった偉人~」

 DU BOOKS発行の単行本『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』(以下、本書)は、音楽評論家・秋山邦晴(1929~96年)が1971年から78年にかけて「キネマ旬報」に執筆した、伝説の連載「日本映画音楽史を形作る人々」(全63回)を書籍化したもの、である。
 本書をめぐる対談の“第2弾”となる今回は、秋山が連載で4回にわたって取り上げた「人形アニメーション」を中心としたアニメーション全般の魅力について、川本喜八郎研究家の壱岐國芳氏に語っていただいた(全3回。聞き手は本書の担当編集者・朝倉)。

【第1回】はこちらから。
https://note.com/dubooks/n/nf98790b4bce9

大人たいじん・持永只仁

■壱岐 川本喜八郎先生を研究していくうえで私は、飯沢匡さん、デザイナーの土方重巳さんなど、先生が影響を受けた人々のことをたどっていったのですが、その過程で、人形アニメーションのコマ撮り映画の技術を川本先生に伝授して下さった持永只仁先生の存在を初めて知ったんです。この持永先生がまた実に偉大な方なんですよ。
■朝倉 持永さんは、本書の第52回で秋山さんのインタビューに応じておられますが、私もその業績に驚きました。
■壱岐 戦時中、瀬尾光世監督のもとで、セル画アニメの歴史的作品『アリチャン』(1941年)と、日本初の長編漫画映画である伝説的な作品、『桃太郎の海鷲』(1942年)に参加されて。その後、『フクちゃんの潜水艦』(1944年)で実質的に監督を務めますが、新宿のご自宅が空襲で焼けてしまって、さらに栄養失調で健康を害してしまわれたことから、中国の旧長春におられるご親戚を頼って、ご家族で渡航されます。そして健康が少し癒えたところで満州映画協会(満映)から「映画製作を手伝って欲しい」と請われるんですね。
■朝倉 漫画映画づくりのキャリアはすでに旧満州でも有名だった。
■壱岐 ご本人の言葉を借りると「フィルムのにおいに負けて」映画づくりを開始したそうですが、2ケ月で終戦になってしまう……。その後、中国の映画界の人たちから請われ、アニメーション映画の作り方を指導し、ご家族とともに8年間、中国に留まられたわけですが、その期間に、全く独自の発想から、人形の全身に関節を入れた本格的な人形アニメーション映画を開発して中国のスタッフにこれを教え、さらに、上海映画製作所の立ち上げにも関わられた。そして帰国後も生涯をかけて日中の架け橋になろうとした、というドラマチックなすごい人物なのですが、残念なことに、一部の関係者以外からは忘れられてきたに等しい状況にありました。
 ちなみに、それらの経緯は、持永先生の死後に出版された自伝(『アニメーション日中交流記 持永只仁自伝』東方書店。写真1)に書かれているんですが、わからない部分もぜひ確認しておきたかったので、シンポジウムの企画に際し、私は約9ケ月間にわたって持永さんのご息女の持永伯子さんにたびたびヒアリングさせていただいて、貴重なお写真も拝見することができました。
 なお、持永さんは終戦までの間に、満映の社内でもいろいろな改革をされたそうで、自伝によれば、たとえば「日本人、中国人、朝鮮人の待遇が違う。この差別はどういうことなのか。待遇に差があるのはおかしい」って、上司に掛け合ったそうです。
■朝倉 本書の編集作業の過程で持永さんのお声を、秋山さんの取材テープから耳にする機会があったのですが、語り口も穏やかで、「優しいかたなんだろうなあ」と思いました。民族を問わず慕われていたんでしょうねえ。
■壱岐 持永さんは東京でお生まれになって、お育ちが佐賀県ですが、お父様のお仕事の関係もあり、幼少期を旧満州で過ごしたこともあってか、国境を超越した平等思考をお持ちだったようで。そんな持永さんの姿を各国のスタッフたちが見ていたんですね。それで終戦後の混乱の最中に、満映で働いていた中国人の旧スタッフたちが持永さんご一家を探し出して、「漫画映画の作り方を教えてください」と頼みに来た。それでご家族とともに新生中国にとどまって、技術を分け隔てなく、惜しみなく教えられたのだそうです。
 動乱期の戦火を逃れる持永先生たちの、北へ南への大移動について、私はご長女の伯子さんにもヒアリングして地図と年表にしたのですが、これはまさに“激動”というべきもので、まるで大河ドラマを見るような気がしました。満映の理事長は、あの甘粕正彦大尉ですし、その他、戦後の名作映画『宮本武蔵』を撮ることになる内田吐夢監督や、本書でも取り上げられている『音楽喜劇 ほろよひ人生』の木村荘十二監督、日本で最初のSF漫画『火星探検』(1940年)を描いた漫画家の大城のぼるさんたちもおられた。持永先生とともに皆さん、戦後の動乱の中国大陸を本当に北へ南へと移られ、大変苦労されたようです。
 ちなみに、大城さんの漫画『火星探検』の原作者は、豊島区千早町などで活躍し、今も熱烈なファンを持つ、詩人・小説家・画家の小熊秀雄で、手塚治虫先生も『火星探検』に刺激を受けたとされています。どちらも豊島区ゆかりの偉人なんです。
 それから、作家赤川次郎さんのお父上(映画プロデューサー・赤川孝一)やゴダイゴのタケカワユキヒデさんのお父上(音楽評論家の武川寛海)もいらっしゃって、満州映画協会は実にドラマチックです。どなたか、この中国大陸でのドラマを映画化してくれないものでしょうかねえ。

●『皇帝の夢』と『皇帝の鶯』
               ~持永作品への誤解を解く

■朝倉 赤川さんは後年、東映動画にも関わる人物ですよね。スケールが大きくて、途方もない予算がかかりそうですが(笑)。
 しかし持永さんが戦後、中国で人形アニメも製作された、というのはすごいですよ。
■壱岐 それは持永さんのもとに依頼が来たことから始まったんです。
 どんな依頼だったか、といいますと、「たくさんの武器を抱えた(アメリカ代表・)マーシャルが蒋介石の糸操り人形を操っている政治漫画をフィルム化して欲しい」というものでした。そこで持永さんは、関節の繋ぎに細い革を釘づけしたマリオネットを作って映画を作ろうとしたのですが、うまくいかなかった。そこで、関節の部分にヒューズを入れた人形を作り、マリオネットではなく「コマ撮り」でやってみたらどうだろうと考えて、必要な機材は手作りして白黒30秒の短編人形アニメーションを作ってみたそうです。これが持永先生による人形映画の最初の作品『翻身年』(1947年)となりました。
 この作品が中国の映画館と移動映写隊によって映写されると、村々で大喝采をうけた。それを見て東北電影製片廠の党書記から、「何とか人形を使った人形映画ができないだろうか? チェコスロバキアでは成功している。もしこれが成功すれば、私たちの映画の分野にも新しい試みが拓けることになる。ぜひ研究してみて下さい」(前記 持永只仁自伝)という、さらなる依頼がきました。
 そこで持永先生はまず、さきほどお話しした30秒の人形アニメを作ってみた経験から、本格的な長編を撮影するためには、人形を安定させ固定できる、しっかりとした関節が必要ではないか、と考えた。そして、満映時代からの知り合いで行動をともにした木村荘十二監督から、関節の入ったフランス製のモデル人形を借りて、研究したそうです。モデル人形の関節に使われていた真鍮は当時の中国では手に入らないので、鉄など別種の金属で試したけれども上手くいかず、結局、農村の女性が頭部に着けている銀の櫛を小さなボール状に削って関節に用いるなど、苦心して人形を作ったのだそうです。
 そして1947年11月に完成させ、発表したのが、持永先生初の長編人形アニメーション映画『皇帝の夢』という作品でした。
■朝倉 本書での秋山さんによる持永さんへのインタビューでも、「かつて義肢を作っていた技術がこの時、役に立ちました」と言っておられます。
■壱岐 器用な人だったんですね。人形をコマ撮りで撮影するためには、人形本体の腰、下半身が安定していないと動きがギクシャクしたものになってしまうそうなんです。
■朝倉 座りが悪いと、動きがブレてしまう。だから安定・固定する必要があった。
■壱岐 ブレるとお化けみたいな動きになっちゃうんですね。
 持永先生の『皇帝の夢』(1947年)は日本では観ることはできませんが、当時の中国大陸内の政治と国際関係そして戦闘情勢の構図を、当時の中国共産党の立場から表現したものです。脚本は京劇の形式が取り入れられていたので、持永さんは京劇の約束事や独特の動きを研究するために、京劇役者によるライブアクションの撮影までしたそうで、私はその時のお写真をご長女の持永伯子さんから見せていただきました。現場に活気が溢れている様子がよくわかりました。
 ……ひょっとすると、この対談を読む方の中には、持永先生御一家が戦後中国に残留なされた、というお話を聞くと、「抑留、つまり残留を命じられたのでは?」と誤解されるかたがおられるかもしれません。でも、決して抑留ではなかったんですよ。
 中国に残られた、持永先生とその他の日本人満映関係者の方々は、「空襲で焼け野原になったと聞く日本へ帰国しても職がなく、食べるものもなく、とても生活していける状況ではないだろう……」ということを思案した上で自分の意志によって残留されて、中国の映画人の育成に協力したのだった、という点をご理解いただきたいと思います。無理やりに映画を“作らされる”という立場ではなくて、“技術を開発し、その技術を教え、育成する”、まさに日中が協力する“映画づくりのチーム”だった、というわけです。そのような雰囲気は、私が拝見した数多くの写真でも確認することができました。そのことは、持永さんの自伝にも書かれていますし、持永伯子さんからもそのように伺いました。
 なお私は、先ほど述べたシンポジウムの開催にあたって、『皇帝の夢』がどこまで本格的な人形アニメーションであったのかを確認しておく必要があったので、研究のために拝見したのですが、たしかに、様々な工夫がなされた本格的な人形アニメーション作品(26分)でした。そして、今日普及している「金属製の全身関節入り人形を独創で作り、それを用いてヒトの物語を映画化した」という点で、持永先生は「中国で人形アニメーションを創始した」だけでなく「世界のアニメーション界に先駆けた」……ということを、確認することができました。
 そのように、人形アニメーション、つまり「コマ撮り人形アニメーション」の技術は、中国においては持永只仁という人物による独自の工夫で創始されました。そして、その持永只仁氏が日本へ帰国して川本喜八郎先生にその技術を伝えたのです。だから、持永只仁先生は、少なくとも「中国と日本における人形アニメーションの開祖」です。しかもその技術水準は、世界的視点から見ても、一気に一流レベルに達していたように思います。
 当時、他国では昆虫やおもちゃや動物の模型を動かす初歩的なものが存在してはいましたが、持永氏は、世界からの情報が途絶されていた当時の中国で、見たこともない人形アニメーションの技術を誰に教わることもなく独創した。しかもその独創技術は「ヒトの物語」を描くに足る世界的水準に達していた訳です。これは驚くべきことだと私は思います。その技術の最重要ポイントが、「金属製の全身関節入り人形構造」でした。
■朝倉 しかし、持永さんが独自開発したはずだったその技術が後年に誤解を生んでしまった……。
■壱岐 そうなんです。
 「発明」の世界ではよくあることだと思いますが、偶然にもほぼ同じ時期に当時のチェコスロバキアでもほとんど同じ技術発展がなされていました。イジィ・トルンカ先生が製作した人形アニメに、アンデルセンの童話を描いた『皇帝の鶯』(1948年)という作品がありましてね。これは本当に素晴らしい、偉大な名作として世界的に有名になるんですが、1952年になってこれを最初に観た日本の誰もが、「持永只仁という日本人が中国で人形アニメーション映画を作ったと聞くが、それはこの『皇帝の鶯』で使われた人形を参考にしたのだろう」、と思いこんでしまった可能性があるのです。そして、「人形の関節を使う技術もチェコから伝わってきたものを参考にしたのだ」ということになってしまい、持永先生のご帰国をいち早く情報入手した飯沢先生は、「トルンカ仕込み」だと思い込んだその技術の伝来を待ち焦がれた……。
 というようにして、「日本に伝わった人形アニメーションの技術は、チェコから中国経由で伝来したものだ」という間違った説が日本国内に広まって定着してしまうことになるんですが、先程も詳しくお話したように、私の調べでは、持永只仁先生の『皇帝の夢』は、イジィ・トルンカ先生の『皇帝の鶯』よりも公開年が1年早かった。つまり、持永さんの作品のほうが早かった。中国で1947年に持永先生が製作し発表した『皇帝の夢』が、その翌年の1948年にチェコでトルンカ先生が製作した『皇帝の鶯』の人形を参考にできたはずはありません。しかも、そもそもその当時、チェコと中国は国交がありませんでしたので、中国でチェコの作品を観ることも、人形を送ることも不可能だったんですよ(註:中国とチェコの国交樹立は1949年10月)。
 ちなみに、トルンカ先生の人形はたしかに中国に伝わって、持永先生も中国でそれをご覧になってはいるのですが、1950年代以降の話です。そして人形の関節構造は、持永先生がすでに作っていたものとほとんど同じだったのだそうです。発明の世界でよくある“同時性”ですね。
 ちなみに、ともにタイトルに「皇帝」の語が入っていますけれども全くの偶然で、両作品には関連性も模倣もありません。でも、アニメの専門家でもまだ誤解しておられる方がいて、今も書籍に誤って書かれていることがあるのは残念です。もっとも、アニメの専門家でも持永先生の『皇帝の夢』を実際に観た方は少ないですので、無理もないかもしれません。
 これらの誤解については、2019年に東京都豊島区池袋で開催したシンポジウムで、私が年表などを使って発表しているんですが、その後もその誤解が拡大再発信されてしまっていることは悲しいです。川本先生もそれを望まれてはいない、と私は思うのですが……。
■朝倉 秋山さんのこの連載当時(第59回。1977年12月下旬号)は、その説をひっくり返す発見がまだされていなかったことから、これまでの通説に則って書かれていました。そして書籍化にあたって、この点を註釈で補足させていただきました。
■壱岐 私はその誤解が発信されてしまった経過をいろいろな資料を調べて確認しましたが、誰かが悪気があって広めたものではないんですよ。今日のようにインターネットで世界の情報を知ることなどできない時代でしたし、当時、日中間は国交がない状態でしたから、避けられない不幸な誤解であったのだと思います。川本先生は帰国された持永先生から1953年に人形アニメーションの技術を伝授されますが、飯沢先生もその誤解に基づいたエッセイなど書いておられたこともあって、飯沢先生に忠実な川本先生が「持永さんの技術はトルンカ先生の技術である」と信じ切っていたとしても不思議はありません。
 それでも、持永さんご自身は、「『皇帝の夢』の全身関節入りの人形は自分が独自に工夫したものだ」とはけっして言わなかったそうです。お人柄がよく出ているなあと思うのですが、そういうことに全くこだわらない人だった。そんな技術は誰でも到達する工夫なんだよ、ということだったのでしょうね。立派です。
■朝倉 普通ならばそういう誤解は正したいところですよ。
■壱岐 そう。その持永さんの謙虚さも誤解を定着させた一因になったのかもしれません。
 川本先生も晩年になって事実に気づかれたようですが、日本アニメーション史を修正するだけの時間がもう残されていませんでした。持永先生を深く敬愛しておられた高畑勲さんも、この誤解のことを知ったら、持永先生に対してさらに深い感銘を受けたことだろうと思うんです。
 繰り返しますが、このような誤解による通説が広まったのは誰の悪意でもありませんでした。でも、事実が分かったからには、きちんと発表し修正しておかないと、どちらの先生にとりましても良くないことです。そう思って私は2019年の9月16日に、両先生の業績をより広く知っていただくために、持永先生が数々の人形アニメーション映画を製作した豊島区において、先ほどご紹介した「雑司が谷が発祥地! 中国と日本の人形アニメーション創始者・持永只仁と、川本喜八郎」というシンポジウムと映画上映会を企画し、東京都豊島区の「NPO法人としまNPO推進協議会」さん(柳田好史代表理事)が、資金を出して主催し、川本プロダクションの福迫福義社長の協力と豊島区と区内外の皆さんからのご支援もいただいて開催してくださったのです。柳田好史さんには本当に感謝しています。
 シンポジウムには持永先生のご長女の伯子さん、アニメーション作家で東京造形大学教授の和田敏克さん、人形アニメーション作家で東京工芸大学助教授の細川晋さんの三人にお越しいただき、大変貴重なお話を伺うことができました。和田さんは持永先生に実際にお会いしたこともある方で、持永先生の実務面にも大変詳しい専門家です。また、細川さんは川本先生から将来を嘱望されて『死者の書』にアニメーターとして参加した方です。そのほか、川本・持永両先生の数多くの関係者、旧スタッフ、研究者の皆さんがお越しくださいました。そのほかアニメーション界のパイオニアであのトキワ荘のメンバーでもあった鈴木伸一先生、遠くは持永先生の故郷の佐賀市から佐賀大学教授で持永只仁研究者、2016年に持永研究の大イベントを開催された角和博先生もはるばる駆けつけてくださって、感激しました。
■朝倉 それは実に貴重なイベントになりましたね。

●初期の人形アニメーション史

■朝倉 ちなみに、持永さんが一番最初に中国で人形アニメーションの依頼を受けた当時、他の国ではすでにさかんに作られていたんですか?
■壱岐 人形アニメーション、といいますか、立体アニメーションの技術ということであれば、今から110年以上も前の1911年に旧帝政ロシアの地で発表された“昆虫もの”の作品がありました。ただ、人間ドラマを描いたものではなく、またその技術は秘密にされていたこともあって、一般的に広く親しまれるものではなかったようです。私はこれを海外のTVドキュメンタリー番組で、その一部だけですが観たことがあります。昆虫を用いて人間を揶揄したようなその映像は、昆虫好きである私としてはとても面白かったのですが、一般的にはグロテスクなものとして受け止められたと思いますね……。もちろん、日本や中国で普通に観られるものではありませんでした。
 その後、第二次世界大戦前のアメリカで製作された実写映画『キング・コング』において、コングの動きが人形アニメーションを用いて演出されました。
 そして戦後の1945年、ナチス=ドイツの支配から脱した直後のチェコスロバキアで、女性監督のヘルミーナ・ティールロヴァーがカレル・ゼマン監督との共作によって、『クリスマスの夢』という、実写映画に人形アニメーションを組み込んだ作品を作りました。さらに翌46年に、やはり実写映画の中に人形アニメーションを重ねた『おもちゃの反抗』という作品が発表されています。ストーリーはナチス=ドイツの秘密警察を、おもちゃ達が人形工房から追い出す、というものでした。
 このように、人形アニメーションは実験的技術として存在していて、可能性が注目されていたようです。
 そんなチェコスロバキアから登場したのがイジィ・トルンカ監督でした。彼はすでに人形作家、絵本作家、人形劇団主宰者、セル画アニメ映画監督の第一人者としてマルチな領域で尊敬を集めていたのですが、さらなる挑戦として乗り出したのが人形アニメーションの世界でした。
 トルンカ監督が登場する以前の人形アニメーションは、今ご紹介したような子ども向け映画の中でのトリック撮影、という段階に留まっていて、人間のドラマを描く今日のような独立した映画ジャンルとして認知されるまでには至っていなかったようです。しかしトルンカ監督が個性的な人形――独特の顔をして、人間と同じような手・足・首・胴などの関節を有したもの――を作って、人形でなければ表現できない、人間の悲喜こもごもの物語を映像化することに成功したんです。これは、人形劇団を主宰し、人形を製作するキャリアを持っていたトルンカ先生だからできたことだと思います。心の陰影まで表現したその作品群は、私自身が観た印象では、映像による詩、あるいは叙事詩、という世界まで行っているように感じます。群衆や戦闘シーンまで見事に映像化していて、その素晴らしさには本当にビックリします。トルンカ以前と以後の違いは、実際にDVDやYouTubeなどで観ていただくとかわかりますよ。
 トルンカ監督の人形アニメーションへの初期の挑戦を時系列でお話しすると、1946年にとても苦心して挑戦していますが、トルンカ・スタジオの当時のスタッフが語っている本(出典:「チェコ・アニメーションの世界」人文書院・刊)によれば、この頃の人形は通常のワイヤー入りのものだったこともあって、映画としてうまく行かなかった。
 ついで1947年に今度は、手と胴体はワイヤーだけれども足にはじめて関節を入れた人形を使った『チェコの四季』という作品を作って、詩的な世界を人形アニメーションで描いています。ここで、ギクシャクとした人形の動きを少し解消することができて、その後の作品づくりに可能性を見出せたようです。
 この1947年は、先ほど述べたように中国において持永先生が、初の長編人形アニメーション映画『皇帝の夢』を発表した同じ年です。この時点で持永先生は、すでに全身関節入りの人形を用いて長編の人形アニメーション『皇帝の夢』を発表した。トルンカ監督が全身関節入りの人形を作って『皇帝の鶯』を発表したのは翌48年だった。……専門的過ぎて、ややこしいですよね(笑)。「そんなことはどうでもいいではないか」と思われるかもしれませんが、持永先生の人形アニメ技術が独自であったことと、くどいようで恐縮ですが、少なくとも、これまでの日本国内における通説、「トルンカ監督の『皇帝の鶯』で使われた全身関節入り人形が中国にもたらされて、持永先生がそれを真似て人形アニメの技術を学んだ」という説は、時系列で考えただけでも間違いであったことがおわかりいただけるのではないでしょうか。
■朝倉 たしかによくわかりました。
■壱岐 『皇帝の鶯』が人形アニメ史上でも屈指の名作と言われている理由は、全身関節入り人形を用いたことに加えて、人形が元来持っている神秘性を十分に引き出すような人形の顔と造形であったことと、照明などによる様々な演出を工夫したことによって、人形アニメでも、登場人物の喜怒哀楽といった心、悲喜劇、叙事詩といったストーリーを描けることを完全に証明したからではないか、と私は思っています。この作品によって、人形アニメは「トリック映画」から「大人の鑑賞に耐えうる芸術映画」へと、たしかに進化したんです。そして川本喜八郎先生は1952年に、飯沢匡先生の導きによってこの作品を税関試写室で観て、「人形で詩が描ける!」と衝撃を受けて、その後の人生の方向を定められた……というわけです。
 川本先生はその後、持永先生に学んで人形アニメの製作方法を会得されますが、「人形の本質、その心は何であるのか」、という点については模索を続けていました。だから後年、それまで日本で築いてきたキャリアをかなぐり捨ててでもチェコに渡って、トルンカ先生の指導を仰ぎたい、と決心されたんですよ。人形芸術の真髄を学ぼう、本格的な長編アニメを作るための技術をトルンカ・スタジオで学ぼうと思って、1963年にチェコに行かれたのですが、しかし人形製作と撮影技術に関しては、学ぶべきことは多くはなかったようです。
■朝倉 すでに川本さんが高い技術力を持っておられたから、ということですか?
■壱岐 そうなんですが、このことも、先の通説が定着してしまったもうひとつの原因となっているんじゃないかと思うんです。
■朝倉 と、言いますと?
■壱岐 学ぶべきことがないということはつまり、トルンカ・スタジオの技術はすでに持永先生からすべて伝えられていたからだ、と思い込んでしまった可能性もあるのではないか。そう思い込んでも不思議はないと思います。当時の日本では関係者の誰もがそのように誤解していたわけですから。
■朝倉 川本さんは、「自分が持永さんの下で習ったそのルーツは全部、トルンカさんにある」と誤解してしまった。本当は持永さんがご自身で発見した技術だったのに、偶然の一致がそう思わせた……。となると、これはある意味で悲劇的ですよ。
■壱岐 当時の日本国内の誤解状況からすると、そうであった可能性が高いと思うんです。でも言い換えれば、つまり持永先生はそれくらいに高度な、チェコに匹敵するオリジナルの技術を持っていたということと、川本先生ご自身が膨大なテレビCMづくりを通じて磨いた技術がすでに最高レベルに達していた、ということも言えると思うんです。
 そんなわけで、川本先生にとってのトルンカ・スタジオは、技術的な面ではたしかに学ぶことが少なかったかもしれません。でも、映画スタジオの組織的な運用ということについては、多くを学ばれたようです。そしてこれは最も重要なことなのですが、川本先生はようやく面会できたトルンカ先生から「人形の心とは何か、人形の本質とは何か」ということを教わって、人形芸術の本質に開眼された。このことが、川本喜八郎という芸術家の生涯を貫き、支え続けたことは間違いありません。
 帰国されてからの川本先生は、渡航前とは全く別次元の、前人未到の人形アニメーションの作風を確立していきました。技術を持永先生から学ばれたうえで、人形の本質をトルンカ先生に学んだ……。その「人形の本質」の表現を探求して、日本の伝統的な能や文楽などの「様式」を活かした人形を作りアニメーション化し続けたのが川本喜八郎作品群です。だから川本先生は、やはり「トルンカ先生の弟子」なんですよ。
■朝倉 なるほど……。もはや、技術を誰から学んだか、というレベルの話ではないですね。
 「人形とは何でしょうか」という川本さんからの問いに対するトルンカさんの答えと助言について先ほど壱岐さんからお伺いして感銘を受けましたが、トルンカさんの言葉で参考になるその他の言葉などありますか?
■壱岐 川本先生がいろいろな場面で語ったり書いたりされた資料と、出版されているトルンカ監督へのインタビュー本から私が書き抜いたメモからご紹介しましょうか……。
・「人形は生まれながらに、そのものの本質に迫る神秘性を持っている」
・「人形は動画では表現できない<詩>を表現できる」
・「人形は、静止した状態のドラマの最高の場面が可能だ」
・「人形は動かない。しかしライトが人形に表情と生命を与える」
・「はじめから人形があまりひとに似すぎないように、人間のたんなる代用品にならないように」
・「人形芸術というものは、人々を、肌の色や、宗教や、人種といった問題を超えて結びつけるものだ」
……そんな言葉もトルンカ先生語っておられたようです。
 トルンカ先生の教えを僭越ながら私なりにまとめますと、「人形は人間の代用品やミニチュアではなく、人形でなければ表現できない本質的な神秘的な力を持っているのだから、人間のモノマネをするような無駄な動きを人形に強いてはならず、様式的な動きをさせる方が良い。人形アニメーション作家は、人形ならではの力が発揮させられる題材を選ぶべきであり、それぞれの民族性に根ざした作品を作る方が良い」ということだったのではないでしょうか。
■朝倉 深い言葉ですね。
■壱岐 トルンカ先生からそのような助言を受けた川本先生は、東京オリンピックが開かれる1964年にチェコから帰国します。39歳になっていました。
 その3年後の1967年に、京都の壬生狂言を題材とした初自主制作作品『花折り』を発表して、トルンカ先生にも観ていただけたそうで、良かったです。この作品は翌68年のルーマニア・ママイヤ国際アニメーションフェスティバルで銀賞を受賞するのですが、その年、トルンカ先生の祖国チェコスロバキアでは大変な国際事件が起きました。旧ソ連が戦車の大群でチェコスロバキアに侵攻して支配下に置いたのです。「チェコ事件」です。
■朝倉 チェコ事件のきっかけとなったのは、社会主義体制下にあったチェコで起こった変革運動「プラハの春」で、この動きに危機感を抱いたソ連とワルシャワ条約機構が軍事介入した……。なんだか、今の世界情勢とよく似ています。
■壱岐 トルンカ先生はその3年前の1964年に、チェコ事件を予見するかのような作品『手』を発表していまして。その後は作品を発表することなく、結局、これが遺作となってしまいました。事件の翌年69年に57歳で亡くなってしまったんです。
 トルンカ先生は、祖国が軍事侵攻された状況下でも国外に避難することなく、留まる決意をし、意志を表明なされたそうです。川本先生の原稿(「師匠のこと」)によれば、トルンカ先生はラジオで「私は先祖も家族もずっとチェコで生まれチェコと結びついている。私がチェコ以外で創作をすることは考えられない」、と語ったそうです。川本先生は、チェコ事件発生時のチェコを知る数少ない日本人として、いろいろな新聞や雑誌へチェコスロバキアを応援する記事を投稿して掲載されたり、トルンカ先生へ直接お手紙を送り、日本からの応援の心を伝えたり、と、涙ぐましい支援をしました。一方でトルンカ先生も、旧ソ連支配下にあるチェコスロバキアの新聞に「日本の友人の青年からこんな力強い声援が送られてきました」と、わが身の危険を顧みずに川本先生からの手紙全文を掲載して、国民を勇気づけたのです。私はそれら一連のおふたりの行動を、川本先生が遺された新聞資料を通じて知って、本当に目頭が熱くなりました。日本とチェコとの友情の証として、今のチェコ大使館の方にお教えしたいエピソードです。
■朝倉 まさに秘話ですね……。
■壱岐 トルンカ先生の語録をご紹介しましたので、川本喜八郎先生の語録も、長いですがアトリエ調査時の私の書き抜きノートからご紹介します。

◎「丁度、東京オリンピックの前の年です。私はシバ・プロダクションをやめ、念願のトルンカ先生の待っているチェコスロバキアのプラハへ発ちました。その時、私はすでに、人形アニメーションの技術は身につけていました。ですから、私の学びたかったのは、トルンカ先生の持っている、人形に対する認識、人形に対する哲学でした。……(中略)……トルンカ先生は云います。人形は人間のイミテーションではない。人形は、人間の典型を表すことが出来る。この二つの言葉だけで、私にとっては千金よりも重い価値があります」

◎「日本人が持っていた人形に対する認識は、一口で申し上げるならば、人形は、生命が宿るもの(物質)である、ということです。トルンカ先生の云われた、人形は人間の典型を表す、という意味も、日本人の祖先が、人形は生命の宿るもの(物質)である、という認識を鍵にして、解くことが出来るのではないでしょうか」

◎「トルンカ先生の全ての作品に、一貫して流れているもの。それは、この民族や、肌の違いを超えた、人間への限りない信頼。これこそが先生の思想なのだった」

◎「人形の(顔の)イメージは、頭の中にすでに浮かんでいるのである。作業は、それを実際の人形として具体化していく、といったものなのだが、一遍でできるものもあれば、何度作り直しても、そのイメージと違う、ということもある。そういう時には、その人物が向こうの方から近づいてくるのを待つような気持ちで作ることにしている」

◎「人形が一途(いちず)な行為に出る時、人形は一番美しく見える」

◎「人形は、その役のためだけに生まれてきて、演じているとき、その生命は花ひらき、終わると、微(かす)かな生命に戻るひたむきな存在」……

■朝倉 川本さんの、トルンカさんに対する尊敬心と、人形の本質論が痛いほど伝わってきます。

●『不射之射』を地で行く緊張感

■壱岐 話が多岐にわたってすみません、持永先生の話題に戻しましょう。
 持永先生が発明されたものはたくさんありますが、「技術はみんなのものだ」という思想の人で、作り方や使い方を聞かれたら惜しまずに教える。その御人格には感動します。
■朝倉 壱岐さんは先ほど(※第1回の中で)、川本さんの「隠さずに教える」という姿勢を紹介されましたが、それは、持永さんから引き継がれている精神でもあったんですね。
 私は持永さんが製作された作品の『こぶとり』(1958年、演出・持永只仁、田中善次)を観て、見事さに唸りました。これには川本さんも人形製作で参加されていますね。
■壱岐 あの作品は、音楽と人形の動きがピッタリと合っているんですよ。二人のおじいさんの、一人は鬼も喝采するような拍子に合った上手な踊りを、もう一人は下手くそな踊りを踊る。そんな微妙な違いをコマ撮りで演出するなんて、天才の技だとしか言いようがありません。
 持永先生のそういう技術は、川本先生にとっては、ある意味でなかなか越えられない壁だったかもしれません。でも、人形の動きを人間に近づけるだけであったらキリがない、ということに気づかれたのかもしれない。行きつくころはライブアクションを参考に作るようになってしまいますよね。川本先生はそんなジレンマの中で、先ほどご紹介したようなトルンカ先生からのアドバイスいただき、日本人作家である自分が参考にするべきものは、日本の歌舞伎や文楽や能・狂言などの、様式的で抑制された動きと型であることに気づいたんです。川本先生はそこから、持永先生とはまた異なる表現の世界を築いていかれたわけです。
■朝倉 先ほどのお話に出た、「人形をむやみに動かすのではなく、光と影で心を表現する」方法に徹した、ということですね。
■壱岐 そういうこともあって、川本先生は、「自分の師匠をどう超えるか」ということに挑戦し続けたと思います。「師匠」といえども、「作家」としてはライバルなんですから。
■朝倉 これってまるで、川本さんが中島敦の小説『名人伝』を原作として作られた『不射之射』(1988年)みたいですよねえ……。
■壱岐 そう、まさにそうなんです。
 『不射之射』が日本国内で公開される以前に、先生がアトリエでビデオで見せてくだったのですが、私は川本先生に、「(主人公の)紀昌が、月に向かって見えない矢を放って、幻影の師匠を射ましたが、あれは川本先生にとってどの先生のことですか?」と、不躾ながら質問したことがありました。
■朝倉 おおっ! まさに的を射た質問!
■壱岐 「トルンカ先生ですか?」って聞きましたら「違います」と即答されて。 「では、飯沢匡先生ですか?」と訊ねたら、先生は微笑んで「違います……」と言われた。
 私はその時はまだ、持永只仁という人の存在を知らなかったので第三の質問は発せなかったのですが、後年になって、あれは持永先生のことではなかったかと邪推してしまったこともありました。
■朝倉 私も今、そう思ってしまいました。
■壱岐 でも、原作の『名人伝』を確認したらこのくだりも原作のとおりであって、変な推量を差しはさむべきものではありませんでした。
 ただ、こういうことはあったんです。川本先生が『不射之射』を作ったのは、上海の映画スタジオ(上海美術映画製作所)なのですが、そのスタジオ設立に関わったのは持永先生です。そして作品に参加した中国人スタッフの上層部は持永先生の指導を受けた方々でした。後から思えば川本先生はそこに単身乗り込んでいって、映画を製作したことになる……。
■朝倉 弟子たちとは同門の出、でありながらも、心境としては他流試合に臨む心構えだったかもしれませんねえ。
■壱岐 運命的で、すごく感慨深いことでしょう? そしてその時に改めて、持永先生が中国に遺された足跡の大きさを感じられたことと思います。
■朝倉 まさに、『不射之射』を地で行ってますよ。作品そのもののテーマを、作りながらそのままなぞった。
■壱岐 結果として……。もちろん、川本先生は最初からそのことを意識した上で中国へ渡られたのではなくて、ただ純粋に、「中国の題材を中国の人々と創りたい」と願って、この作品を製作されたんです。そのことは、先生と上海美術映画製作所とのお手紙のやりとりでも明らかです。でも結果として『不射之射』は、原作の『名人伝』を地でいった、師匠を乗り越えるものすごい挑戦をなされたことになるのかもしれません。
 製作当時の川本先生の日記に、上海のスタジオに持永先生が訪ねて来られたことは書かれているのですが、川本先生がその時に何を思われたのか、など、詳しいご心情はわかりません。
 でも、川本先生は、上海美術映画製作所に行って早々に、「人形の本質」についての緻密なレクチャーを行い、スタッフに人形製作の心と技術を伝授しています。ていねいに、繰り返し、辛抱強く。完成した作品『不射之射』を観れば、その教えが中国のスタッフの皆さんにも浸透したことがよくわかります。持永先生の映画製作技術に加えて、川本先生は「人形芸術の本質」というプラスαを中国の皆さんへ伝えた、ということになるでしょうね。
■朝倉 川本さんは、「持永先生を超えた」という意識は持てたでしょうか。
■壱岐 あくまでも私の感想ですが、「人形の本質」を知った川本先生は、持永先生とはまた別のテーマと手法で進まれたので、その意識はあっておかしくないと思います。師匠を乗り越えて行くことが弟子の義務だと思いますし……。と同時に、持永先生への感謝の念を常に抱いておられました。一方、持永先生も、川本先生と岡本忠成さんなどが、それぞれ独自の手法を開発しながら活躍されていることを、とても喜んでおられたそうです。持永先生のご長女・伯子さんからもそのように伺いました。素晴らしい師弟関係です。
■朝倉 なるほど。
■壱岐 この『不射之射』は、すばらしくドラマチックな映画ですので、機会があれば皆さんにもぜひ観ていただきたいです。
■朝倉 私も大好きですよ。紀昌と、師・飛衛の、大風が吹き荒れる荒野での対決などものすごく迫力があります。
■壱岐 私が「黒澤明監督の『姿三四郎』のような、すごい決闘シーンですね!」と感嘆の声をあげますと、先生が「人形アニメーションで”クロサワ”をやったのは私が最初ですね」と、イタズラっぽく微笑まれたのが懐かしいです。
■朝倉 たしかに黒澤映画っぽいですよねえ!
■壱岐 私は後年その決闘シーンのクライマックス映像をひとコマずつ分解して観てみたら、短いシーンの中にすごい映画テクニックが詰まっていることがわかってとても勉強になりました。あれは人間の実写映画ではできません。川本喜八郎による人形アニメーションでなければできない素晴らしい映像です。
■朝倉 とても興味深いですね。私もあらためて観てみます。
■壱岐 ちなみに川本先生は、もう一人の重要な師匠である飯沢匡先生に対しても忠実でしてね。飯沢先生が描いていた夢をすべて実現してようと挑戦し続け、乗り越えようとされた人生であったと言えるかもしれない。様々な資料を確認してそう実感しています。
 飯沢先生は、戦後の著名なジャーナリストであり、テレビ放送草創期の名劇作家だった方で、徹底して庶民派でした。だから能よりも狂言を評価し、江戸末期から続く庶民の気概を示した刺青文化を探求したり、『三国志演義』や『水滸伝』などの中国歴史ものも題材として積極的に描いた浮世絵師の歌川國芳を評価し、「人形映画も作りたい」と本に書く先生でした(●写真1)。
 そんな飯沢先生の夢に向き合った川本先生は、人形絵本から人形アニメーションづくりへと挑戦し、その自主製作作品の第一号で壬生狂言を題材とし、やがて能の世界へも踏み込み、刺青の世界をも体現してみせた……。そして、操演人形劇の現代の最高峰ともいえる『三国志』と『平家物語』の人形美術を手掛け、実現はできなかったけれどもさらに『項羽と劉邦』や『水滸伝』まで作ろうとされました。それほど、師匠への向き合い方が真摯だったように思います。ものすごいご努力で、私が尊敬し、敬愛する所以です。

(写真1)飯沢匡の著作群

●豊島区に人形アニメーションの聖地があった

■朝倉 壱岐さんは今、「としま未来文化財団」で働かれていますが、そのきっかけとなったのが持永さんなのだそうですね。
■壱岐 そうです。話が長くなりますが――。
 持永さんは1952年まで中国で働いて、翌年に帰国します。そしてその2年後の1955(昭和30)年に、人形映画製作所という映画スタジオを豊島区雑司が谷、今の南池袋に作った。一番多い時で120人くらいのスタッフいたそうです。残念なことに1960(昭和35)年に火事に遭ってしまうのですが、雑司が谷に、7年間にわたって人形アニメーションの聖地が存在して、しかも世界の賞を受賞していた。豊島区に、こんな輝かしい歴史があるのに、区史としてなぜか完全に埋もれていた。ですから私は、「どうか皆さん、このことを忘れないでください」という思いから、2019年に、先ほどご紹介したシンポジウム「持永只仁と川本喜八郎」と、人形展「川本喜八郎人形展 ふたつの三国志~項羽と劉邦~」を、皆さんのお力添えを得て、開催したんです。
 人形展では川本先生の人物の造形、掘り下げ方の凄さを、より具体的に、多くの人に見てもらおうと思ったんです。これらのイベントもひとつの縁となって同年10月から本財団で働くようになったんです。豊島区の皆さんへの恩返し、といったような……。
■朝倉 ステキなご縁です。
■壱岐 その二つの企画は、「東アジア文化都市2019豊島」というビッグイベントイヤーの中で行ったわけですけど、豊島区がこれをやることができたのは、実はすごいことなんです。
 この「東アジア文化都市」という取り組みは文化庁が2014年から始めたもので、最初は横浜市、次が新潟、奈良、京都、金沢の各市で行われ、次が豊島区だった。過去の錚々たる開催都市の中に豊島区が名を連ねているんですよ。これは、豊島区にトキワ荘があった、ということもあって、漫画、アニメのイベントができたわけなんです。その下地があったうえで、「かつて雑司ケ谷にあった人形映画製作所のことをご存じですか?」ということでやった。私としては「豊島区は本当に、漫画とアニメの聖地なんですよ」ということを知ってほしかったんです。なお、川本喜八郎人形展を企画したのも、「東アジア文化都市2019」がちょうど、中国の西安、韓国の仁川、日本の豊島区、これら三都市が選定され、実施されたものだったからです。中国の西安は「項羽と劉邦」たちが活躍した場所ですから。
■朝倉 豊島区は「トキワ荘=漫画の聖地」であっただけではない、「人形アニメの聖地」でもあったことを知ってもらいたかった、と。
■壱岐 そう。人形映画製作所があった時代はちょうど、トキワ荘の全盛時でもあったんです。ほぼ同じ時代に、池袋駅の東と西に、アニメと漫画の聖地があった。
 トキワ荘にいた漫画家の中で私が特に尊敬している寺田ヒロオさんは――持永さんもそうであったように――「子供のために良い漫画を描くんだ」という人でした。ちなみに、持永さんが帰国された1953(昭和28)年は、トキワ荘に寺田ヒロオさんと手塚治虫さんが入居した年であり、日本でテレビ放送が始まった年でもあった、という重要な年なんです。
■朝倉 寺田ヒロオさんは、漫画の風潮がしだいに派手なものや、当時の言葉で言うとエロ・グロ・ナンセンスなものになっていくなかにあっても、ほのぼのとした、牧歌的な雰囲気のある漫画の執筆にこだわろうとしていましたね。
■壱岐 寺田ヒロオさんは、私が子ども時代から特に大切に思っていた、尊敬する漫画家さんでした。『背番号ゼロ』と『スポーツマン金太郎』の二つは、小学館版の時代だったのですが、兄が購読した『小学5年生』と「小学6年生』で、リアルタイムで何度も何度も読んだ作品で、出版された単行本は今も大切に持っています(●写真2)。

(写真2) 寺田ヒロオの漫画

■壱岐 2020年に豊島区のトキワ荘マンガミュージアムで寺田ヒロオさんの企画展を開催しましてね。私もその展示ではじめて知ったのですが、寺田さんは漫画連載をやめた後も作品づくりをあきらめた訳ではなかったんです。
■朝倉 失意のうちに漫画の世界と別れた……と思ってましたが、違うんですか。
■壱岐 かつての鈴木三重吉の「赤い鳥」のように子供たちのための良質な漫画雑誌を創刊したいと夢見ておられたようなんです。
 時代に抗して自らペンを折ったように評されて、寺田ヒロオさんが時代に遅れたかのような印象を持つ人もおられるかもしれませんが、私は別の見方をしています。
 出版されたものだけでなく電子版も含め、すべての寺田作品を読み直してみて、「むしろ、時代を先取りし、早すぎた先生であったのではないか」という印象を持つに至ったんですよ。
 と言いますのは、昭和40年代になって寺田さんの後進の世代の漫画家さんたちによって描かれて大ブームになった学園もの、たとえば、ちばてつやさんの『ハリスの旋風』や関谷ひさしさんの『ストップにいちゃん』などは、「元気の有り余った中学生が野球部や柔道部などあらゆるスポーツ部で大活躍するお話」で、このパターンは寺田さんがすでに作品にしていたんだ、と思うからですよ。
■朝倉 壱岐さんの説では、寺田さんの『五九郎さん』(1958年)が、学園ものの最初の作品なのではないか、とのことですね。
■壱岐 はい。
 もう一つ、藤子不二雄先生による、大ヒット漫画『オバケのQ太郎』的なキャラクターが登場する作品も、すでに発表しておられるんです。
■朝倉 それが『白黒物語』(1955年)という作品である、と。
■壱岐 ええ。ただし、オバQのようにユーモアとギャグで風刺をするのではなくて、すべての作品がそうですが、「正しく生きよう」という正義感が前面に出ている。それが寺田作品の特徴だと思います。そんな寺田ヒロオさんからの良質なメッセージは、当時の子どもたちへしっかり届いたはずです。私はその受け手の一人であり、証人でもありますから。
■朝倉 それはものすごく貴重なご指摘ですよ。私は『スポーツマン金太郎』や『背番号ゼロ』は読んでましたが、他にもそんな作品があったんですねえ。寺田さんについても、まだまだ研究が必要ですね。
 豊島区にはさらに、版画・切り絵作家の滝平二郎さんもお住まいだったそうですが。
■壱岐 そうなんですよ!
 滝平さんはよく、人形映画製作所に持永先生を訪ねてきて、写真の撮影技術を教わったりしておられたそうです。持永伯子さんによれば、家族のお付き合いもあったみたいで。
 切り絵の創始者である滝平さんが豊島区の雑司ヶ谷に住んでおられた、ということは素晴らしいことで、このこともぜひ、地元の皆さんには知っておいていただきたいと思います。
■朝倉 私も、滝平さんの絵は特に絵本でなじみがありますよ。児童文学作家・斎藤隆介との『モチモチの木』(斉藤隆介・作、滝平二郎・絵、岩崎書店・刊。●写真3)、『ベロ出しチョンマ』(斉藤隆介・作、滝平二郎・絵、理論社・刊)などの印象は強烈でしたからね。しかも、今もしっかり読み継がれています。
■壱岐 ちなみに、滝平さんのお住まいは、今は取り壊されて跡地が南池袋第二公園になっている所で、その建物は、地元の人が「異人館」と称した貸家だったそうです。ここにアーティストが四家族くらい住んで、アトリエとしていた。そのうちの一家族が、当時版画家と挿絵画家として活躍されていた滝平二郎さんだったんですよ。
■朝倉 『モチモチの木』は、岡本忠成さんも、滝平さんの表現とはまた違った表現で、切り絵アニメーション化しておられますよね。このあたりのことも絡めた、漫画、人形アニメ、版画・切り絵を連動させたイベントの開催を豊島区にはぜひお願いしたいです。

(写真3)絵本『モチモチの木』

■壱岐 そんなイベントがいつかできたらいいですねえ。私が現職を退職してフリーに復帰したら、もっと研究したいです。
 東京都豊島区には、「子どもたちのために」、という情操教育に力をつくした人が多くおられたんですよ。時代をさかのぼれば、鈴木三重吉さんの文芸雑誌「赤い鳥」は目白(旧宅と赤い鳥社)。羽仁もと子さんの自由学園もそうですからね。
■朝倉 小川未明も、たしか雑司ヶ谷に住んでいたんですよ。
■壱岐 それらは広い意味で旧・雑司ヶ谷エリア、その地続きエリアなんです。その関連をたどっていくと、とても面白いです。雑司ヶ谷だけでもそんな文化の遺伝子が豊島区にはグッと詰まっています。
 前述のように、持永先生は1953年に中国から帰国されました。そして持永先生は帰国早々、川本先生が飯沢先生たちと作られた「人形芸術プロダクション」(1951年創業)から招かれます。これは人形アニメーション技術を学ぶためでした。そして川本先生は、日本で最初の本格的な人形アニメーションとなった『ほろにが君の魔術師』(1953年)、そして『ビールむかしむかし』(1956年)といったアサヒビール宣伝用の短編映画において、人形操作(アニメーター)を担当された持永先生の下に演出助手として付いて、実地指導を受けて技術の基礎を学ばれたのです。川本先生は、持永先生から技術の基本を教わった第一号でした。……これは余談ですが、アサヒビールさんは日本の人形アニメーションの育ての親と言えます。大恩人です。
 そして持永先生も、1955年に、電通映画社と教育映画配給社からの出資を仰いで「人形映画製作所」を設立され、川本先生は、人形製作として計5本の作品に参加して、演出助手的に関わりながら人形アニメーションをさらに習得されました。
 ちなみにこの時期には学習研究社さんも人形アニメーション事業へ乗り出そうとしておられて、人形映画製作所に来て人形の関節構造を含めて技術を学ばれたようですね。本書には、そのあたりのことについての持永先生のお話と、学研の神保まつえさんのお話も集録されていて、私が知り得なかったことで実に貴重な記録になっています。これを読んで、持永先生が技術のすべてを無償で開示しておられたこと、そして、そこから多くのアニメーターが育ち制作会社が次々に興っていったことがよくわかりました。学研さんもその後多くの作品を作って学校教育に貢献されたことは皆さんご存じのとおりです。
 また話がそれてしまいましたが……、持永先生がその人形映画製作所で、1959年までの5年間に計9作品を製作して、1958年のカナダ・バンクーバー国際映画祭児童映画部門では最優秀賞を受賞するなど、国際的に高い評価を得ました。公開順でいうと、『瓜子姫とあまのじゃく』、『五匹の子猿たち』、『ちびくろ・さんぼのとらたいじ』(以上、1956年)、『ちびくろ・さんぼのふたごのおとうと』、『ふしぎな太鼓』(以上、1957年)、『こぶとり』、『ぶんぶくちゃがま』、『ペンギンぼうやルルとキキ』(以上、1958年)、『王様になった狐』(1959年)、です。『瓜子姫とあまのじゃく』(1955年)は、宣伝目的以外の作品としては日本初の長編人形アニメーション映画でした。これが雑司ヶ谷で製作されたんです。ちなみに、『王様になった狐』では林光さんの音楽も実に素晴らしいです……。
 そして、いよいよ川本先生は1958年、飯沢匡先生たちと人形アニメーションによるCM制作会社の「シバ・プロダクション」を設立して、以後、約4年間にわたって、独自に、驚異的な本数と高いレベルのテレビCM作りに邁進されたのです。「ミツワ石鹸」などの名作が作られたのはこの頃です。私が確認できた存在するCM絵コンテを調べた限りでも、少なくとも年間50本以上にのぼりますし、先生ご自身は「月に10本くらい作っていた」とお話ししておられたようなので、多い年は年間100本近く作っておられたかもしれません。
 当時、「撮影スタジオに住み込んでいるのではないか……」とさえ言われていたと、他の人から聞いたことがあります。
 なお、くり返しになりますが、このへんの経緯については、アニメーションの専門家でも、まだまだ誤解されているかたがおられるみたいなので、念のため正しておきたいのですが……。
 持永先生の技術は「チェコから中国を経由」したものではなく、あくまでも持永先生が独自に考えられたもので、本格的に全身に関節を入れた人形を用いた、という点ではむしろチェコよりも1年早かった。
 また、「川本喜八郎は持永只仁が作った『人形映画製作所』で人形アニメーション技術を学んだ」と言ってしまうのは正確な表現であると言えません。川本先生が学ばれた時期は持永先生が人形映画製作所を作られた頃よりも前のことでしたから……。
 私が研究するうえで常に留意しているのは、「一方を極端に持ち上げ過ぎず、事実を正確に語らなければいけない」、ということです。そうしなければ、後世の人に誤ったことを伝えかねません。この事実関係も、私がやってみたようにきちんと年表を作って整理してみるとわかるはずなんですよ。
 もちろん、トルンカ先生がアンデルセン童話を映像詩ともいえる芸術作品に仕上げた『皇帝の鶯』と、持永先生が中国で製作した一種のプロパガンダ映画『皇帝の夢』は、同じ本格的人形アニメーションといってもジャンルが異なるので同じ土俵では語れない、という考え方はあるかもしれません。ですが、事実は事実として、誤解を正しておかねばいけないと私は思うんです。
 私は他にもまだやりたいことがありましてね、そのひとつが、持永先生のお弟子さんと師匠の系譜について調べることです。お弟子さんには、岡本忠成さんや、今も現役でご活躍の眞賀里文子さんなどがいらっしゃる。日本の人形アニメーションに携わっているかたがたは直接的であれ、間接的であれ、持永さんにつながっているんです。
■朝倉 眞賀里文子さんは、風邪薬「コンタック」の、カプセルのキャラクターを使ったCMや、『ウルトラQ』の「マンモスフラワー」、映画『帝都物語』にも参加しておられますね。
■壱岐 眞賀里さんは現在も活躍しておられるレジェンドです。持永先生の薫陶を受けた方の中で、今の現役でお仕事しておられるのは眞賀里さんだけではないでしょうか。
 持永先生が、人形映画製作所が火事で移転してから設立されたMOMプロダクションにおいて『アンデルセン物語』(1966年)や『怪物の狂宴』(1967年)など数多くの持永作品にアニメーターとして携わった、まさに愛弟子でいらっしゃる。その後も長編の『くるみ割り人形』(1979年。●写真4)も作り、今も作品を作り続けながら、「アートアニメーションのちいさな学校」で後進の育成もしておられます。人形アニメーションひとすじの大先輩。
 私は持永先生にお会いしたことがないので、調査・研究で立証するしかありませんでしたが、眞賀里さんは持永先生の技術がチェコ由来でないことを弟子として一番よくご存じの大切な証人なんですよ。
■朝倉 『ウルトラQ』=円谷作品、ということで思い出しましたが、人的な交流の系譜、ということで言いますと、『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』などの円谷プロ作品や、『宇宙怪人ゴリ』などのピープロ作品における怪獣造形の業績でも知られる画家の高山良策さんは、飯沢匡さんや川本さんに連なる人ですよね……。しかも池袋モンパルナスに関係されていますから、豊島区としてもぜひ、力を入れて紹介してほしいです。
■壱岐 高山良策さん、戦後の池袋モンパルナスのアトリエでも活動された方ですね。私にとって新しいテーマ、ありがとうございます!
 ちなみに、テレビ番組『ウルトラQ』の登場は私にはとても衝撃的でした。怖くて哀しいSF童話ともいえる、社会風刺も入った名作で、テレビが、それまで『隠密剣士』などによって醸成されていた忍者ブームから一挙に怪獣ものへ向かうきっかけになったものです。

(写真4)『くるみ割り人形』のDVD

●たむらまさき(田村正毅)と人形映画製作所

■朝倉 あと、これも知ったときは飛び上がるぐらいに驚いたんですが……。
 たむらまさき(田村正毅)という映画キャメラマンがいましてね。小川紳介監督の作品(『三里塚』シリーズ、『ニッポン国 古屋敷村』ほか)や、つい先ごろ亡くなられた青山真治監督の作品(『Helpless』『EUREKA』ほか)などを手掛けられた名キャメラマンで、私は、「たむらさんが撮影している映画だから観よう」と思うくらいに大好きだったんです。
 そんなたむらさんと青山監督の共著に、『酔眼のまち――ゴールデン街 1968~98年』(朝日新書)という1冊がありまして(●写真5)、ここで、たむらさんが語っておられるんですが、たむらさんは一時期、人形映画製作所で働いていた、と。

(写真5)『酔眼のまち――ゴールデン街 1968~98年』

■壱岐 それはすごい。新たな証言の発見ですね。私もそれ読みたいです。
■朝倉 映画界では広く知られたことだったのでしょうが、私は、当時について詳しく語られているくだりを電車で読んで、「えっ!」、と、思わず大きな声を出してしまいました(笑)。
 「会社は、雑司が谷の墓地のすぐ裏側、日ノ出町という停留所があって都電が走っていたそのあたりで」、「そこはもともと、小西六だったか何か写真関係の現像所だったんです」と言っておられます。
■壱岐 あっ、それは小西六さんではなく、「富士写真フイルム」さんですね。
■朝倉 おお、そうですか!
■壱岐 豊島区国際アート・カルチャー特命大使にもなってくださっている、NPO法人「としまの記憶」をつなぐ会の吉田いち子さんの調べによると、当時の雑司が谷、現在の豊島区南池袋2丁目40番地が富士写真フイルムさんの創業の地なのだそうです。
 その歴史をたどっておきますとね……まず1919年に東洋乾板(株)という写真産業が創業されたんです。そしてその後、大日本セルロイド(株)との提携を経て、1934年に大日本セルロイドの出資で設立された富士写真フイルム(株)に東洋乾板(株)は合併統合された。これが現在の富士フイルムの礎となりました。
 それで、ここからは私の調べですが、戦後になって電通映画社が、富士写真フイルム(株)の土地を借りて、現像所を作った。その後、電通映画社は、教育映画配給社と共同で、持永只仁先生たちの人形映画製作所に出資をし、さらに社屋を映画スタジオとして貸した……という経緯なんです。
 人形映画製作所の設立までの経緯と所在地については、吉田さんによる調べと私の調査結果がぴったりと合致して、解明することができました。先のシンポジウムに、かつての電通映画社である電通テック――今の電通プロモーションプラスにおられた和田敏克さんという方にご登壇いただきましてね。そのスタジオの位置を憶えておられて、そのご記憶も、調べた結果と一致しました。
■朝倉 そうでしたか! たしかに、たむらさんも、そのスタジオは電通だったからコマーシャルを撮っていた……と語っておられます。そして「コマーシャルをフィルムで撮る。その現像所ではそのフィルムも現像していた」そうです。
■壱岐 ウイスキーのニッカさんのクマをキャラクターにしたCMも作っています。
 ちなみに、その地でなぜ写真や映画産業が創業されたかというと、山手線内で一番大量で良質な地下水が湧くのが雑司が谷のその場所、先ほども言いました豊島区南池袋2丁目40番地だったからだそうです。ですから、「土地の力が映画産業を呼び込んだ」、といえるでしょうね。
■朝倉 調布が映画の都として栄えたのも、水が豊富だったからだと聞いたことがありますが……。やはり豊島区の西巣鴨にかつてあった映画会社・大都映画も、地下水が呼び寄せたのでしょうか。
■壱岐 映画フィルムの現像には、大量な、良質の水が必要ですからね。ちなみに、「人形映画製作所」の所在地は、都電の、今の停留所名でいうと、一番近いのが「都電雑司ヶ谷」です。
■朝倉 当時の都電関係の資料を見ますと「日ノ出町二丁目」という停留所があったようですね。
 それで、たむらさんは人形映画製作所時代に、キャメラマンの助手の、さらに助手をしながら、現像を学んだり、時には人形製作を手伝ったり、照明の配線を敷く準備をするなど「裏方」をしていたのだそうです。「会社のなかに小さいけどちゃんとした町工場みたいなのがあって」とも言っておられる。ご自身も器用だった、持永さんらしい設備だったのでしょうね……。本文からちょっと引用しますと、「時間だけはあったから、(※朝倉註:作品を)一本つくるのに二、三カ月はかけていた。それで完成尺は二十何分とかそのぐらいの作品。最初にやったのは、何かペンギンが主人公の話だったな。だからジオラマはほとんど氷の世界でみんな真っ白(笑)」。
 ペンギンの話というと――。
■壱岐 持永さんが演出をされた『ペンギンぼうやルルとキキ』のことでしょう。個人的なことですが、私が生まれた年です。
 ちなみに、この作品で人形を製作されたのは熊谷達子みちこさんです。画家の谷内六郎夫人でもある人形作家でして、川本先生と同様に、トッパンの人形絵本でも人形製作をして活躍されました。
 ……しかし、旧・雑司ヶ谷にあった人形映画製作所をめぐる人物模様が一人ひとりわかって、つながっていくと、なんだかドラマを観るような感じがしますねえ……。
■朝倉 本当にそうですね。人形製作・熊谷達子さんというかたを存じ上げませんでしたが、谷内六郎夫人なのですか……。興味が尽きません(笑)。
 さらに、たむらさんは、「いまでは有名な岡本忠成氏も 助手でいたし、『死者の書』(2006年)の川本喜八郎さんも キャラクターデザインでいらしたりしてましたよ」と証言しておられます。
 ただ、人形映画製作所が立ち行かなくなってしまったことから、たむらさんは岩波映画製作所に行かれて、ここで、後年に映画でご一緒される多くの方々を会うことになるんです。
■壱岐 貴重なお話で嬉しいですね。
 証言、といえば、持永先生の人形映画製作所でアニメーターとして働いておられた方は複数おられるんですが、そのお一人であるそのさとる(旧姓・大田サトル)さんから、いろいろ貴重なお話を伺ったことがあります。日本の女性アニメーター第一号ともいわれる大先輩です。人形映画製作所に女子美大から新卒でご入社されて、持永先生の指導の下で『ちびくろさんぼ』『ふしぎな太鼓』『こぶとり』『ぶんぶくちゃがま』のアニメーターを担当されて、その後は16ミリ映画(株)へ行き、弘法大師伝説を題材とした『赤い井戸』(1960年)などのアニメーターとして活躍された方です。
 ちなみに、研究データによれば、『赤い井戸』で人形製作を担当されたのが、先ほどのお話に出た、高山良策さんなんですよ……。
■朝倉 あまりの情報量の多さに、めまいがしてきました(笑)
■壱岐 園叡さんのことは、朝倉さんにもぜひ取材して欲しいです。
■朝倉 機会があれば、ぜひとも。
 そして、たむらさんは、さらにこうもおっしゃっています。「これはいつ頃になるのか……岩波の契約が終わった後だと思うんだけど、岡本忠成はじめ当時の活躍していたアニメーターたちが……あの制作はどこでやってたのかな、アメリカの人形アニメーションの発注が来て、これはシリーズ物なんですよ」「撮影が二班立って、人形映画製作所とは別のもっと広い場所で」「二年か三年かずうっとやっていた記憶がある。その一班で岡本忠成が演出、僕が撮影を担当して……。アメリカで放映というか上映される作品。だからセリフとか絵コンテも全部英語だった」。
■壱岐 とても貴重な証言に接することができて嬉しいです。
 東京都豊島区雑司が谷、今の南池袋2丁目40番地にあった人形映画製作所が米国で放映するための日米共同製作人形アニメーションTV番組作品『ピノキオの冒険』を製作したのは昭和35(1960)年のことです。
■朝倉 「アメリカの人形アニメーション」は、まさに『ピノキオの冒険』でしょうか。たむらさんが人形映画製作所に入られたのが昭和34(1959)年のことだそうで、それから2年間、通われたそうですから時期は合いますね。
■壱岐 そしてこの『ピノキオの冒険』の製作が終盤を迎えていた時に、人形映画製作所は火事となってしまって、田無市への移転を余儀なくされるんですよ。
■朝倉 なんとも不運な……。火事の後で持永さんは、『桃太郎の海鷲』をプロデュースしたことでも知られる映画プロデューサーの大村英之助さんなどと一緒にMOMプロダクションを立ち上げることになるわけですが、この火事を巡っては謎が多いようですね。
■壱岐 そうなんです。
 その火事に絡んだ話ですが、2019年に、私が「人形映画製作所のあった場所を特定しよう」と思って南池袋エリアをヒアリングして歩いた際、老舗蕎麦店の老ご主人から、「あそこに映画会社があって、よく出前をしていた」という証言を得たことがありまして。
■朝倉 おおっ、それは決定的な証言……。
■壱岐 同時に、その息子さんである現在のお店のご主人から、「子どもの頃、あそこの火事跡の土地に入り込んで遊んでいたら、フィルムが散乱していて、太陽に透かして見たことがあります」という、とても生々しい証言も得られたんです。
■朝倉 なんと!
■壱岐 散乱していた映画フィルムはおそらく『ピノキオの冒険』だったはずで、もし残していたらお宝でした。これは5分ものの130本のテレビ番組作品で、それを1年間で製作するのですから、大変なことだったに違いありません。
 人形映画製作所は火事が起こってしまったことで『ピノキオの冒険』の終盤の、残り28本分を撮り直さなくてはならなくなった。
■朝倉 大きな負担だったでしょうね。
■壱岐 このこともあって経営の資金繰りが悪化して、別会社としての再スタートを余儀なくされたようです。米国の下請けはピノキオだけにするつもりだったのが、そうはいかなくなってしまって……そしてその後、持永さんは長い間、自主作品を作れなくなってしまわれたのです。実に気の毒なことでした。
 火事、そしてそれに加えて、その後に製作所の社長が亡くなられてしまったことも影響して、経営は自転車操業的になってしまったようです。そんな中、アメリカからのオーダーで製作した『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』(1964年)という作品が、これは初めは完全に共同製作だったんだけれども、やがて下請けという扱いになってしまったのか、著作権的に不利な状況に置かれることになった……。
 でも、その時期に作った『怪物の饗宴』(1967年)なども、幼かった頃のティム・バートン監督に影響を与え、やがて彼が人形アニメーション映画『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993年)を作るきっかけになったんです。このことについてはティム・バートンが、自身の著作(『映画作家が自身を語る ティム・バートン』マーク・ソールズベリー編 フィルムアート社)でも触れています。
 そのように、後世の人々から尊敬される作品群は、日本国内ではテレビで放映したことはあるけれども、その後放送されなかったし、そもそも日本で製作されていたことを多くの人は知らないんです。
 なお、『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』はDVDで観ることができますが(●写真6)、演出の上手さに驚嘆します。持永先生の技術と演出の凄さがよくわかります。
■朝倉 私も『ルドルフ』のDVDを持っていますが、何回観ても飽きない名作です。
■壱岐 映画のエンディング部分には、
 「ANIMATION SUPERVISOR TAD MOCHINAGA」とクレジットされていますね。

(写真6)『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』のDVDの他、持永只仁関連資料

●MOMプロダクション後の持永只仁

■朝倉 持永さんについては、秋山邦晴さんが、今回の本のもととなった連載のために取材されていまして。私は先ほど、「持永さんの取材テープを聞いた」と言いましたが、それは高橋アキさんからお借りしたものでして、テープのラベルにきちんと「1971年12月7日 三笠會舘 PM6:30~」と書かれている。秋山さんの几帳面さが伺えます。
 本書での持永さんのお話は、誌面の関係もあってMOMプロダクションを辞められたところまで、となっているのですが、その後、持永さんは何をしておられたのでしょうか。人形映画づくり自体もやめてしまわれたのですか?
■壱岐 ご本人としては人形映画をやめたつもりではなかったんですが……これには、中国で1966年から始まった、毛沢東による「文化大革命」(文革)が大きく影響しているんです。
 持永先生は1967年に、中国の国営通信社である新華社通信系列の中国通信社から、日本向けに中国の一般の人々の様子を紹介するニュース映像を送って、中国に日本のニュースフィルムを送る、という仕事の依頼を受けます。文革当時の中国で、一般の人々に何が起きているのか……という情報は、日本には全く来なかったんです。そこで持永先生は、「そのような仕事は日中友好のためには必要なことだ」と考えまして、「2年くらいならば」ということでスタジオを一度閉鎖しました。そして、中国と日本を行き来して中国の映像ニュースや自分で取材・撮影した映像を日本の各テレビ局へ配信したり、ご自分で制作した3作の記録映画を日本で上映したり、という活動をされました。この時に持永先生が中国で撮り溜めた映像素材は、実は長きにわたって様々なテレビ番組などで使われたんですよ。まさに、日中の架け橋役を果たされたわけです。
■朝倉 壱岐さんの推測によると、『人形劇 三国志』のエンディング、細野晴臣さんが作詞・作曲を手掛けて小池玉緒さんが歌った、あの「三国志 ラヴ・テーマ」がかかる時に映るモンゴルの遊牧民と思われる騎馬隊の映像は持永さんの撮影によるものではないか、とのことですね。
■壱岐 本当にそうであるかはNHKに確認してみないと断定はまだできませんが、私はほぼ間違いなくそうであろう、と確信しています。といいますのも、根拠があるんですよ。
 「シルクロード」の映像といえば、1980(昭和55年)年4月から一年間放送した『NHK特集 シルクロード』が有名ですよね。書物の中でしか想像することができなかったシルクロードの映像をカラーで鮮やかに観ることができ、シルクロードブームが起きたことを私は記憶しています。
■朝倉 喜多郎さんの、シンセサイザーによるテーマ曲も話題になりましたね。
■壱岐 そうです、そうです。喜多郎さんのシルクロードは川本喜八郎先生が大好きな曲で、ひょっとしたら一番お好きな音楽だったかもしれません。
 川本先生は『シルクロード』という長編人形アニメーション作品を創りたいと、シナリオまで完成させておられたくらいシルクロードがお好きだったんですよ……この話題に転じてしまうと、それだけで30分は語らねばならなくなるので、話を戻しますが(笑)、多くの皆さんは、『人形劇 三国志』のエンディングで使われた映像はこの『NHK特集 シルクロード』のためにNHKが撮影した遊牧民の騎馬集団の映像だったのではないか、と思われているのではないでしょうか。
■朝倉 あっ、言われてみると……。そう思う方もおられるでしょうね。
■壱岐 でも実は、その前年の1979年(昭和54年)4月から一年間、同じNHKが放送した『アニメーション紀行マルコ・ポーロの冒険』という番組がありましてね(●写真7)。その番組は、アニメーションと実写ドキュメンタリー映像を織り交ぜた実験的で意欲的な番組で、音楽は小椋佳さんが担当されて、各場面にふさわしい素晴らしい歌を提供しておられて、その点でも特筆すべき番組でしたが、さらに忘れられないのが、初めて中国大陸各地の最新の映像をカラーで見ることができた、ということだったんです。

(写真7)『アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険』の資料

私はリアルタイムでその番組を、驚きをもって観ていました。『NHK特集 シルクロード』が放送される前年のことです。そのときに見た、遊牧民の騎馬集団が草原を駆け抜ける場面が――私の記憶に間違いがなければですが――真っ赤に映像加工処理されていましたが人形劇『三国志』のエンディング映像と同じなのでした。
 そしてここからがさらに重要なのですが、驚くべきことに、『マルコ・ポーロの冒険』にシルクロードのすべての映像を提供――中国通信社から販売――したのは、持永先生でした。持永先生はシルクロードの映像作品を企画し、取材し、撮影していたのでした。それは番組放送前年の1978年のことです。
 ちなみに、『NHK特集 シルクロード』による中国取材は日中平和友好条約が締結された1978年の翌年、番組放送前年にあたる1979年にスタートして1980年までにかけて行われたのですが、NHKが取材を開始した1979年はすでに、『アニメーション紀行マルコ・ポーロの冒険』が放送されていた。ですからNHKはシルクロードに関する必要な映像をすでに持永先生(当時、中国通信社に勤務)から入手しておられたわけです。
 ウィキペディアには、「1980年4月から放送の『NHK特集 シルクロード』は本作(『アニメーション紀行マルコ・ポーロの冒険』が発端となって企画されたものであり、企画者は本作を監修した鈴木肇ディレクターである)、と書かれています。
 当時の、そのような「シルクロードブーム」や「中国との友好ブーム」を背景にして、NHKは『人形劇 三国志』を企画してくださったのかもしれませんね。番組の冒頭で、風が砂を吹き飛ばすと「三国志」の文字が現れますよね。あれはシルクロードの砂漠から古代の物語がこの世に蘇る、というイメージに基づいたものですし、エンディングも、シルクロードの騎馬民族の末裔ともいえる遊牧民の騎馬集団の映像が使われている。このように前後にわたって「シルクロード」がキーワードになっていますが、そのヒントとなったのが持永先生提供の映像であったとしたら……そんな私の感傷的な妄想、許されるでしょうか? 感傷的過ぎるでしょうか……。
■朝倉 いえ、決してそんなことはありません。「三国志」と「シルクロード」との関係に思い至りませんでした。
■壱岐 持永只仁先生と川本喜八郎先生のお二人、偶然かもしれませんが、シルクロードというキーワードで、なんだか運命的なつながりを持って見えてきますよね。
 『アニメーション紀行マルコ・ポーロの冒険』は、第1回と最終回以外はテープがNHKに残っていなかったため、一般の皆さんへ寄贈の呼掛けをした結果、なんとかデータがそろったようです。しかしDVDが未発売なので、現段階では私の「仮説」を証明することができないのですが、「その可能性は高い」と思うのです。違っていたらご容赦ください。NKHの当時の関係者さんがこの対談を読んで確認してくださればありがたいです。
 とにかく、持永只仁という人物は、日中平和友好条約が締結された1978年においても、日本と中国の重要な草の根的な橋渡し役を果たしておられたということは間違いないのです。とにかく、当時の中国で取材・撮影するという仕事ができた日本人は、それまでのキャリアとお人柄からして持永先生の他にはいなかったんですよ。
■朝倉 いわば“大人(たいじん)”として遇されていたわけですからね。
■壱岐 中国からすると、アニメーション技術に貢献した「大恩師」なんです。ただこの仕事が長期間のものになってしまったことで、持永先生の映画づくりは、当初想定していた2年後に再開することができず、結果として人形映画のキャリアを縮めてしまった……。これは残念なことでした。
 話がまたまた長くなりましたが、そういうように持永先生は中国で撮影や取材活動をされたわけですが、そんな日々のなかで、ある“異変”に気付くんですよ。持永先生がかつて自分の技術を惜しみなく教えた、中国のアニメーション映画界にいる教え子や仲間たちの姿がことごとく表舞台から消えて目立たない処に置かれていたり、姿が見えなくなっている、ということで……。
■朝倉 ……怖いですね。なぜでしょうか?
■壱岐 これは持永先生の自伝を読んだ私の感想、推測ですが……その人たちは、海外情報にも接することができる“知識人”で”技術者”で、指導的な立場の人たちでしたからね。
■朝倉 ああっ、文革の影響だ……。
■壱岐 本来であればベテランとして現場を担っているはずのその人たちが、言動を抑圧され監視下におかれているように見えたようなのです。その後、先生は北京で、様変わりしてしまった当時の中国映画界についても遠慮なく厳しい率直な意見を述べておられます。
■朝倉 知識人階級が迫害・弾圧された影響は大きかったでしょうね。そしてこの文革は結局、毛沢東が亡くなる76年まで続いて、77年に鄧小平が終結宣言を出しました。
■壱岐 文革後になりますと持永先生は、さきほどお話しましたように、1978(昭和53)年に、NHK番組『アニメーション紀行 マルコポーロの冒険』(1979年放送)にシルクロードの記録フィルムを提供されたり、1980(昭和55)年に手塚治虫さんと「鉄腕アトム」を中国に紹介して日中のアニメーション界の橋渡しをされるなどしました。さらに、中国の若い映画人を一から育てるために、1年間、北京電影学院で講師をしたり、1985年(昭和60年)に始まった広島国際アニメーションフェスティバルに中国のアニメーション映画人と作品を紹介し続けた、というように、日中の民間交流、橋渡し役を1999(平成11)年に80歳でお亡くなりになるまで続けられたんです。
■朝倉 持永さんが後半生にそのようなお仕事をしておられたとはまったく知りませんでした。
■壱岐 持永先生が長年にわたって自主作品を作ることができなくなってしまわれたのは気の毒でした。でも晩年の1992(平成4)年になって、1本の自主制作人形アニメーションを発表することができたんです。『少年と子たぬき』という作品で、それが遺作となりました。国家間の差別心のない持永先生の温かい心はこの作品にも表れています。純粋な少年と子タヌキの、心の交流のお話です。
 持永先生には、民族と同様に、動物に対しても差別心がないのです。川本喜八郎先生に人形の心を教えた師のイジィ・トルンカ先生は「民族や、肌の違いを超えた、人間への限りない信頼」というメッセージを、人形に託して送り続けた方ですが、人形アニメーションの技術を川本先生に教えた師の持永只仁先生も、同じ心を持った偉大な先生だったと、私は思います。
■朝倉 持永さん、トルンカさん、ともに偉大な先生だったのですね。そのご業績はもっと多くの人に知って欲しいですね。
■壱岐 なお、岡本忠成さんは、持永先生が作られたMOMプロダクションに1961年に入社されまして、たしか1963年頃までアニメーターとして働いて学んでおられていたはずです。たむらまさきさんのお話は、その頃の貴重な証言にもなっています。
■朝倉 ですから、岡本忠成=人形操作(アニメーター)、たむらまさき=撮影作品を、アメリカの子供たちはしっかりと観ていたんですよねえ……。

【第2回おわり。第3回に続く】

秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜
~マエストロたちはどのように映画の音をつくってきたのか?

秋山邦晴 著 高崎俊夫+朝倉史明 編集
カバーデザイン:西山孝司 本文組版:真田幸治
A5・並製・672ページ 本体5,800円+税
ISBN: 978-4-86647-107-5
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK263

壱岐國芳(いき くによし)
1958年生まれ。川本喜八郎研究家、人形アニメーション史研究家。1980年早稲田大学卒。生命保険会社に入社し不動産・教育・営業管理など経験後、関連の教育会社へ志願出向。文化人100名に人生を訊くラジオ番組『元気e!』を企画推進しメルマガ・出版・教育プログラム開発など手掛けた後、秋田アトリオン音楽ホールの民間指定管理責任者に指名され公共ホールの経営再建も果たす。60歳で本社を定年退職後、川本プロダクションを経て、としま未来文化財団(東京都豊島区)の幹部として招かれ、区民活動を支援し「文化を基軸としたまちづくり」を応援。2023年3月、65歳財団定年を機に、ライフワークの人形美術家/アニメーション作家・川本喜八郎と持永只仁の研究など、著述と創作活動を再開。

朝倉史明(あさくら ふみあき)
1974年、神奈川県生まれ。編集者。大映映画スチール写真集『いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。』(責任編集・監修:小西康陽、DU BOOKS)や、2016年版から毎年発行している『名画座手帳』(企画・監修:のむみち、往来座編集室)、1968年に引退し今も根強い人気を誇る女優・芦川いづみのデビュー65周年記念の単行本『芦川いづみ 愁いを含んで、ほのかに甘く』(高崎俊夫との共編、文藝春秋)などの編集の他、日活映画『事件記者』シリーズのオリジナル・サウンドトラックCD(CINEMA-KAN Label、音楽:三保敬太郎)のプロデュースを手掛ける。

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映画本編集者対談『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』をめぐって~高崎俊夫×朝倉史明「これは秋山邦晴の青春の書だ!」
https://note.com/dubooks/n/n592cee5abb50


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