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『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』をめぐる対談【アニメーション篇 第1回(全3回)】

人形アニメーション秘史

――人形芸術の極限に挑んだ川本喜八郎と、
日中友好に作家人生を捧げた持永只仁を中心に
 
壱岐國芳(川本喜八郎研究家)
聞き手・朝倉史明(編集者)

■第1回 「川本喜八郎 人形美術と人形アニメーションの到達点」

2021年2月に刊行された『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』(以下、本書)は、音楽評論家・秋山邦晴(1929~96年)が1971年から78年にかけて「キネマ旬報」に執筆した、伝説の連載「日本映画音楽史を形作る人々」(全63回)を書籍化したもの、である。
本書の編集を担当した、編集者の朝倉氏による対談の第2弾!

今回は、秋山が連載で4回にわたって取り上げた「人形アニメーション」を中心としたアニメーション全般の魅力について、川本喜八郎研究家の壱岐國芳氏に語っていただいた(全3回。聞き手は朝倉氏。インタビューは2022年4月から11月までの7ヶ月間にわたり複数回おこなわれた)。

●世界中に広がって欲しい、発見・評価の動き

■朝倉 本書の編集にあたって、壱岐さん、そして、本書にも登場する人形アニメーション作家の持永只仁さんのご息女である伯子さんには特に人形アニメの回(第52~55回)を中心にいろいろとご協力いただきました。改めて感謝申し上げます。
 なかでも壱岐さんには、これまで調査、研究されたことで判明した事実を脚注部分に入れていただいて。
■壱岐 歴史的にも貴重な秋山邦晴さんのご著書に私の研究の成果を加えさせていただいたのは本当に光栄なことです。尊敬する川本先生と持永先生の業績を後世に正確に伝えたい、と思って研究を続けているので大変ありがたい機会になりました。
■朝倉 連載当時は資料の限界などから不明であったことが、壱岐さんなどの研究家のご努力によっていろいろと明らかになってきています。秋山さんがもしもご存命で、ご自身の手で単行本化されていたならば、必ず新事実を反映されるだろう……と思ったものですから、気が付いた範囲で、ではありますが、秋山さんの奥様・高橋アキさんのご承諾をいただいた上で、編者の責任のもと、反映・補足いたしました。
 そして今日は、川本さん、そしてやはりアニメーション作家で川本さんの盟友でもあった岡本忠成さんの再評価が最近著しく進んでいることもあり、ぜひ壱岐さんにお話を伺いたいと思って、お時間をいただきました。
 壱岐さんは「川本喜八郎研究家」として、アニメーション作家で人形美術家の川本さんの応援と研究をしながら、現在、公益財団法人としま未来文化財団で「豊島区国際アート・カルチャー特命大使/SDGs特命大使」の事務局業務を中心とした「区民活動支援課長」をしておられるんですね。
■壱岐 全国でも珍しい取り組みだと思うのですが、東京都豊島区は行政と町の人たちと企業・団体さんたちとの連携と協働による文化を基軸とした町づくりを展開しています。「公民連携、民民連携での持続可能な住み続けたい町づくり」、というわけです。その活動の中核を担っているのが、「特命大使」となってくださっている一般の方々や、企業・団体さんで、私が勤務している「としま未来文化財団」がその事務局となっているんです。
■朝倉 これは豊島区を、「誰もが主役となれる劇場都市、SDGs未来都市にしよう」とする取り組みだと伺っていますが、本当に素晴らしいことだと思います。
 そして壱岐さんは、以前は保険会社に勤められていて、定年退職後の2019年、それまでのご研究の成果を活かした2つのイベントを企画・開催されたそうですね。
■壱岐 「川本喜八郎人形展『ふたつの三国志~項羽と劉邦~』」(2019年8月1日~7日)(※●写真1、●写真2)と、「シンポジウム『雑司ヶ谷が発祥地! 日本と中国の人形アニメーション創始者・持永只仁と川本喜八郎』」(2019年9月16日)(※●写真3、●写真4)です。

(写真1) 川本喜八郎人形展『ふたつの三国志~項羽と劉邦~』チラシ(※会期は終了しています)
(写真2)同 公式ガイドブック
(写真3)映画上映会&シンポジウム『雑司ヶ谷が発祥地! 日本と中国の人形アニメーション創始者・持永只仁と川本喜八郎』チラシ(※会期は終了しています)
(写真4)同 パンフレット(※会期は終了しています)

■朝倉 このイベントの開催もご縁になって、財団からお誘いがあったそうで、今はそちらがご多忙で研究のほうになかなか手が回らない、とのことですが、近年の川本さん、岡本さんの再評価・再発見の動きは嬉しいことでしょうね。
■壱岐 もちろんですよ。
■朝倉 具体的に挙げますと、2020年の12月から21年3月まで国立映画アーカイブで「川本喜八郎+岡本忠成パペットアニメーショウ2020」が開催され、すぐ後の5月から今年の1月にかけて「アニメーションの神様、その美しき世界 Vol.2&3 川本喜八郎、岡本忠成監督特集上映(4K修復版)」が全国で順次されて、さらに今年の3月には、TCエンタテインメントから川本さんと岡本さんの4K修復版のBlu-ray、ならびに、UHD+Blu-ray作品集(※●写真5、●写真6)も発売されました。

(写真5)川本喜八郎 作品集 4K修復版 Blu-ray
(写真6)岡本忠成 作品集 4K修復版 Blu-ray

■朝倉 お二人の作品については本書の中でも秋山さんが詳しく言及しておられて、第55回「アニメーション映画の系譜16 人形アニメの創造と展開その4」(※初出は「キネマ旬報」1977年7月下旬正月特別号)では川本さんがインタビューに応じておられます。私も本書の編集中に川本さんと岡本さんの作品を、再見を含め鑑賞して、作品群のクオリティに驚嘆しました。
■壱岐 私としては、川本先生と岡本さんへの評価の動きは、国内だけでなく、海外にも広がってほしいと思っています。
 川本先生は世界中で数々の映画祭で受賞されていて、その作品がすでに広く知られていましたが、岡本さんの作品は海外で紹介される機会が少なかったんですよ……。もしかするとそれは、学校向けに作られた作品が多いことや、作品ごとに人形の材質や作風を変えるという挑戦をし続けた作家であったからなのかな、と推測しているのですが、とにかくつねづね残念に感じていました。だからこれを機に世界中で紹介されることになるのではないかと期待しています。『おこんじょうるり』(1982年)などはぜひ世界の人々に観ていただきたい名作です。
■朝倉 『おこんじょうるり』については発表された当時、映画評論家の佐藤忠男さんが以下のように書かれています。
 「単純だが、とてもいい話である。それが、絵としての美しさ、動きの面白さ、ナレーションの味わい、そして演出の軽妙でほのぼのとした語り口の円熟味などが混然一体となって、愉しく、そして感動的な作品に昇華している」(「シナリオ」1983年2月号、日本シナリオ作家協会)。
 まさにその通りで、私も大好きな作品です。

●川本喜八郎作品との出会い

■朝倉 では、まずは壱岐さんが川本喜八郎研究家となられた経緯から伺いたいのですが、川本作品との出会いはどういった形だったのですか?
■壱岐 高校生の頃に、テレビで文楽を観ましてね。文楽人形の造形、人形遣いの技、そして筋立てに非常に感動したんです。それで、大学に入ってからも国立劇場での公演を何度か観に行っていたんですが、就職して数年経った頃にNHKで『人形劇 三国志』(1982~84年)の放送が始まりまして。その人形をひと目見て、なぜ、こんなに的確に人物の性格を表す顔を作れるんだろう? 文楽人形との関係はどうなんだろうか?……って、衝撃を受けたんですよ。
■朝倉 『人形劇 三国志』で川本さんは「人形美術」を担当されたんですね。私も再放送で観ましたが、たしかに、それぞれの人形の顔が人物の性格を見事に表わしていました。そして造形も文楽人形を連想させます。
■壱岐 あのような人形を作るためには、鋭い人間洞察と様々な人生経験が必要なはずですし、そして同時に、歴史に対して深く思いを馳せなければ表現できないだろう、と思ったんです。それで、「この人形を創った川本喜八郎とはどんな人なのか」と、強く魅かれていきました。
■朝倉 少し先走った質問になりますが、『人形劇 三国志』が始まる前の川本さんに対する世間的な評価はどのようなものだったのですか?
■壱岐 そのころはもうすでに世界の映画祭での受賞歴がありましたので、世界の人形アニメーション界からは「頂点を極めたマエストロ」として尊敬を集めていました。
 日本でも、たとえばNHKの子ども番組『おかあさんといっしょ』(1959年~)で人形製作やオープニングシーンを手掛けられたり、テレビCMの人形アニメーションなどで以前から活躍しておられたりはしてはいたんですよ。でもまだテレビや映画の業界の人にしかそのお名前は知られていなかったようです。
 日本には、人形アニメーションが観られる環境はありませんでしたし、商業ベースにもなかなか乗りにくい、ということで、作品は各作家による自主製作……という形を取らざるを得なかったんです。川本先生が新作を発表される機会も、岡本さんと一緒にやっておられた「アニメーショウ」と、あとは海外の映画祭などへの出品が主だったと思います。
■朝倉 秋山さんも連載時に、「アニメーション作品はなかなか観る機会がない」と嘆いておられます。そのころは、今のようにソフトやハードが普及していたわけではなく、作品を観たいと思っても、鑑賞するには特集上映の開催などを待つしかなかった……。だから当時の日本ではまだ、川本さんの名前は知る人ぞ知る、というものだった、と。
■壱岐 ええ。またそのような状況に加えて、すでにNHKでは川本先生よりも若い人形作家の辻村ジュサブロー(辻村寿三郎)さんが、『新八犬伝』(1973~75年)と『真田十勇士』(1975~77年)という2本の人形劇で人形美術を手掛けていましてね。
■朝倉 この作品は今でも語り草になるくらい大変に人気があったと聞きますが、川本さんとしては悔しかったのではないでしょうか。
■壱岐 川本先生にとって当時は雌伏の時期だったと思うんですよ……。
 そういう状況のなかで、「いつかテレビ人形劇で『三国志』をやりたい」という思いを秘めながら、コツコツと人形を作っておられたのだろう、と推測しています。「三国志」、そして後年に手掛けられた「平家物語」も、実現するずっと以前から構想しておられ、人形のデザインをスケッチブックに描いておられましたので。
■朝倉 壱岐さんはNHKの『人形劇 三国志』で川本さんに興味を持たれた、ということですが、当時は川本さんのことを知るための資料も少なかったのでしょうね。だから秋山さんによる川本さんへのインタビューは貴重なものだったのではないか、と思います。後年は川本さん関連の本もたくさん出版されるようになりましたが(●写真7)。

(写真7)川本喜八郎関連書籍

■壱岐 そうなんですよ。
 私が一番最初に買った本は、『三国志百態』(川本喜八郎・著、ぱるぷ)という、箱入りの豪華な人形の写真集でした。『人形劇 三国志』の放送が終わる数か月前、新聞に発売告知が出ていたのですぐに予約して買いました。すると、本の中に、川本先生とNHKの番組制作者が登壇される日仏会館でのシンポジウムの開催告知チラシと、参加応募券が挟まっていましてね。読んで驚いたのですが、なんと「当日、会場で諸葛亮孔明の人形1体を抽選でプレゼントします」と書いてあって。
■朝倉 おおっ! それはすごい。
■壱岐 さっそく申し込んでシンポジウムに行きました。でも、孔明の抽選に外れてしまった……。
■朝倉 ああ……。
■壱岐 すると川本先生が、「こちらのレプリカは有料になるけれども、関羽、張飛、劉備、曹操の人形を希望者に販売しますよ」と会場で発表されたんです。
■朝倉 !!
■壱岐 もちろん、それぞれに1体ずつしかありません。展示用のレプリカといっても、人形というものは一つとして同じものは作れませんので、一体一体が本物で、関羽であり張飛なんです。私は関羽の購入希望者として手を挙げました。
 それで、5~6回だったかなあ……じゃんけんで勝ち抜きまして。
■朝倉 !!!
■壱岐 でも、勝ったからすぐ買える、ということではなく、購入するためには川本先生との面接が必要だったんです。
■朝倉 それは、「この人に自分の人形を託せるか」を見極めるためだったのでしょうね。
■壱岐 そのうえで、関羽の人形を買わせていただきました。それから川本先生との、直接的なご縁が始まることになったんです。
■朝倉 それは素敵な形でのご縁のスタートとなりましたね。
 しかしあの関羽が壱岐さんのお手元にあるとはすごいですよ……。写真を撮ってくださいましたが、しっかりと作りこまれていることがよくわかります(●写真8)。
 関羽は、石橋蓮司さんが声優を担当していました。最期のシーンなどはとても印象に残ってます。

(写真8)関羽の人形を手にする壱岐氏

■壱岐 あの悲劇的な最期のシーンでは別途、カシラを用意されたそうです。カァッ、と眉を上げて、目を見開き、相手を睨みつけるクローズアップ――それもほんの数秒間だけなのですが――のために、川本先生は特別な首を創られたんです。あのシーンは何度見ても泣けます……。テレビ人形劇史における屈指の名場面だと思います。
 ちなみに先生は、「同じ顔は二度と作れない」とおっしゃっていました。同じものを作ろうとしても微妙に違ったものになるんだそうです。つまり、人形は作るものではなく、生まれてくるものだ、ということなんですよ。

●作りたい作品を、心おきなく作ってもらうために

■壱岐 日仏会館での『三国志』のシンポジウムからしばらくして、千駄ヶ谷にあった先生のアトリエを訪れましたら、先生がそれまでに創られた人形アニメーション映画作品群を、先生自らがビデオデッキを操作して、長時間にわたってまとめて全部、観せてくださったんです。
■朝倉 それもまた貴重な体験ですねえ……。
■壱岐 先生は私に作品を観せながら、そのリアクションを楽しんでおられるようでしたが、いやあ……観て、本当にびっくりしましたよ。
 最初に観たのは『道成寺』(1976年)だったんですが、人形をどうやって動かしているのかわからないんです。驚嘆して、「先生、これはどうやって撮影されたんですか!?」って、思わず訊きました。
■朝倉 『道成寺』の人形は『人形劇 三国志』のように、棒などを遣った操演で動かしているのはでないですものね……。
■壱岐 伺ってみると、人形を少しずつ動かしてコマ撮りしているんだ、と。
 聞けば、川本先生はこれまでに、先ほども述べました『おかあさんといっしょ』のオープニングタイトル、それに同じNHKの『魔法のじゅうたん』(1961~1963年)や、「ミツワ石鹸」のCMなどでも人形アニメを手掛けていたり、人気幼児番組『ブーフーウー』(1960~1967年)の人形製作もしておられた……とのことで、まさにそれらを観ながら育ってきましたから、さらに感激したんです。
 私の年代(=1958(昭和33)年生まれ)は、川本先生が子どもたちのために真剣に製作した人形やアニメーションを観て育ったんですよ。そのことに気が付いて、先生への尊敬と感謝の気持ちがムクムクと湧きあがってきました。それでぜひ、先生のお手伝いがしたい、と思ったんです。
■朝倉 幼い頃から知らず知らずのうちに、その作品に触れていたんですね。
■壱岐 川本先生は、ご家庭を持たず、すべての時間と金と情熱を人形に注ぎ込んでおられました。ただ、人形のことに注力されている反面、お金のことについては、どうも人を信用しすぎてしまうところがあるように感じまして。出演料やイベントの売上金から支払われるべき部分が支払われないままになっていたり……。著作権料の設定とその請求についても、先生は相手の方に少し配慮しすぎておられるのではないかな、という印象を持ちました。
 そういうことから、「先生に次の作品を創り続けていただくためにも、私が守って差し上げなければ」と思ったんです。これはべつに頼まれて、ではなく私が勝手に――当時はまだ20代の若造でしたが――そう決意しましてね。もちろん、ボランティアで、です。……変な人間でしょう?
■朝倉 いえいえ、そんな! 壱岐さんの存在は心強かっただろうと思いますよ。
■壱岐 先生に初めてお会いしたのは1984年だから私はその時26歳、サラリーマン4年目でしたが、とにかく、先生には心置きなく、創りたい作品を創ってもらいたかった。これはファンとしては当然の思いですよね。
 そこで、先生がやりたいと思っている企画の話を私が様々な機会を通じてお会いした方々にお話ししたりもしまして。それで実際に動き出した話もあるんです。
 そのひとつが、吉川英治の『新平家物語』を原作にしたテレビ人形劇です。後にNHKで『人形歴史スペクタクル 平家物語』として製作されることになりますが(1993~1995年)、もともとは、当時の日本マーケティング協会の会長で、(株)リサーチ・アンド・ディベロプメントの社長でいらっしゃった故・牛窪一省先生にご相談したところ、のちにWOWOW、日本衛星放送(株)となる設立準備室にいらした役員の故・桑田瑞松さんをご紹介してくださった、というところから始まりました。
 ちなみに牛窪先生は私にとってマーケティング戦略教育の師でした。今でも人生の心の師です(●写真9)。

(●写真9)牛窪一省氏の著作群

■壱岐 当時はまだ、放送のための衛星の打ち上げが成功していない時期でしてね。しかもその頃は打ち上げの成功率も今ほど高くなくて、「衛星打ち上げに失敗したらこの話は無かったことに」というお約束でした。作品の音楽を担当してくださる作曲家の先生も、私の推薦と仲立ちで決まりまして、その準備が進行する中で先生は人形製作を進められていたんです。
 そして打ち上げ時には、すでに主だった五十体近くの人形を完成させていたのですが、しかし結局打ち上げは失敗してしまいました……。
■朝倉 それはショックだったでしょうね。
■壱岐 ええ。でも、製作された人形の実費はちゃんと支払ってくださって。おかげさまで『平家物語』の主要な人形たちは、すぐにも出演できる姿で、いつか出番となる日が来ることを待つことになりました。
 そして、この時に頓挫した企画をNHKさんが後年、実現してくださったわけですが、そもそもこの企画を立ち上げることができたのはやはり牛窪先生と桑田さんのお力添えによって最初期にWOWOWさんが応援してくださったおかげなんです。このことは、私と川本先生と当時の関係者しか知らない事実です。NHKさんと、そのお二人への感謝を私は忘れません。
■朝倉 『人形歴史スペクタクル 平家物語』も『人形劇 三国志』と同様に人気のある作品で、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』との連動で再放送されて、新たな川本喜八郎ファンを生み出しましたが、この作品にそんな裏話があったとは知りませんでした。

●悲願の企画、『平家物語』と『項羽と劉邦』

■壱岐 『人形劇 三国志』が終了してから『人形歴史スペクタクル 平家物語』の放送が始まるまで、ほぼ10年かかりました。
 NHK版で音楽を担当されたのは『三国志』も担当された桑原研郎さんでしたけれども、WOWOW版の企画段階では三木稔さんを想定していたんですよ。
■朝倉 おお! 三木さんというと大島渚監督の映画『愛のコリーダ』(1976年)の音楽の素晴らしさが忘れられません。
■壱岐 「『平家物語』の音楽を三木稔さんにやっていただいたらどうですか?」と川本先生に提案したのは私なんです。音楽をどなたに依頼するか検討している時期にたまたま、牛窪先生から、サントリーホールでの三木さんの日本の伝統楽器によるコンサートに誘われまして。一聴してものすごく感激して、「『平家物語』の音楽にピッタリだ!」と思いました。
 そこで、コンサート後に開かれた三木さんを囲む後援会パーティーで私が、「川本喜八郎先生の『平家物語』の音楽をやっていただけませんか?」と直接お話ししたんです。
■朝倉 すごい行動力ですねえ。
■壱岐 私は当時はまだ30歳くらいでしたが、「良い作品にしたい!」と、とにかく必死だったんですよ……。
 そしてコンサートの翌日、川本先生にお電話をお話しして、「この曲はどうですか? これもどうですか?」と、受話器越しに、三木さんのCDアルバム(『コンチェルト・レクイエム/三木稔選集Ⅱ』(カメラータ・トウキョウ)から「華やぎ」と「秋の曲」)をラジカセでお聴かせしたら、ものすごく気に入ってくださいました。そして先生のご承諾を得た上で改めて、三木さんへお電話を差し上げてご内諾をいただいたんです。
■朝倉 三木稔の音楽世界を背景に展開する『平家物語』も観てみたかったですよ。
■壱岐 そして実は、『平家物語』の他にもう一つ、川本先生が企画しておられたテレビ人形劇の企画がありまして。私はサポーターとしてその営業をしていたんです。
 それが『項羽と劉邦』でした。
■朝倉 ああ、なるほど! 壱岐さんが催されたイベントは『項羽と劉邦』というタイトルでしたが、これは川本さんの悲願だった人形劇のタイトルだったんですね。
■壱岐 そうなんです。
 川本先生は、日本の典型が描かれているのが『平家物語』であり、中国の典型がちりばめられているのが「項羽と劉邦」のエピソードなのです、とおっしゃいました。
 先生はもちろん両作品ともやりたいと思っておられたのですが、紆余曲折があって『平家物語』の企画が先に進んだんです。と言いますのも、この時、番組を成立させる条件としては「日本のハイビジョン技術を世界に示す」という目的も担っていたんですよ。それならば、まずは日本の物語を、しかもハイビジョンの技術が際立つ、最も色彩豊かな時代のものがいいだろう、ということで、『平家物語』の企画が先に選ばれたというわけです。それはよかったのですが、『項羽と劉邦』はついに実現することができなかった。なんとも残念なことでした……。
■朝倉 『史記』に記述されている項羽と劉邦の争いも「三国志」と同様に、日本でもなじみ深いものですね。川本さんはその世界をどう描こうとしたのか。
■壱岐 この企画にかける先生の熱意の強さがどれほどのものだったかを示すエピソードをご紹介しますとね……。
 項羽、劉邦を含めた主要登場人物7体の人形を先生がすでに作り上げていた、ということは、人形展で何体か発表しておられたこともあって、知られていたんです。そして、先生が亡くなられてから、私が、川本プロダクションの福迫福義社長と一緒にアトリエ倉庫を確認したところ、それらの7体以外にも、物語上に必要な他の17のカシラを作られていたこと、さらに、18の首が製作途中であることがわかりました。
 つまり、先生はその後もずっと諦めてはおられなかったんですよ。
■朝倉 ああ……。
■壱岐 これを見て、私は胸にこみ上げるものがありました。
 私が、豊島区での川本喜八郎人形展『ふたつの三国志~項羽と劉邦~』を企画したのは、川本先生の手によって、この世に生み出されてはいたけれどもスポットライトを浴びることがなかったそれらの首も含めて、先生が作られた人形、そして川本先生の存在を皆様に知っていただきたかったから、でした。これはテレビ人形劇を実現してあげられなかった私の、人形たちへの罪滅ぼしでもあったんです。だから首の一体一体についても、執筆した公式ガイドブックでしっかりと人物紹介を書かせていただきました、この世への出生届のように……。
 今後、あの素晴らしいキャラクターたちを活かして映像にしてくださるクリエイターが生まれるといいのですけどね。
■朝倉 それは期待したいですね……。
 壱岐さんはその『項羽と劉邦』の人形展のタイトルに「ふたつの三国志」と冠されましたが、それはなぜですか? 項羽と劉邦による楚漢戦争があったのは紀元前200年頃のこと、そして「三国志」は西暦180年ごろから始まるもので、これらは時代的に約400年の大きな隔たりがありますが……。
■壱岐 すでにお気づきかもしれませんが、私は大の「三国志」ファンでして。関羽だけでなく、物語の主人公ともいえる諸葛亮孔明も好きなんですが、長らく不思議を感じていたことがあったんです。それは、「神のように賢いはずの孔明がなぜ、国力が数倍もある魏の国を合計5回も討伐(北伐)しようとしたのだろう?」という疑問でした。朝倉さんもその点を不思議に感じませんか?
■朝倉 たしかに、冷静沈着な天才軍師である諸葛亮孔明がなぜあのような無謀なことを、と思います……。北伐があったことで、孔明のイメージが、自分の中で少し歪んでしまうんですよ。
■壱岐 私は、川本先生の、『項羽と劉邦』の未完成の人形たちの人物特定をするために改めて『漢書』や司馬遷の『史記』などをじっくりと読み直してみたのですが、その過程で、孔明の北伐について「なるほど!」と気が付いたんです。
 「三国志」で名高い、孔明の戦略「天下三分の計」と、曹操の大国・魏への計5回の「北伐」のヒントとなったのは、400年昔の「項羽と劉邦」の時代における、“天才的大将軍・韓信の成功と失敗”の教訓だったのではないか……。
■朝倉 !!
■壱岐 とすると、孔明の挑戦は決して無謀なものではなかったんですよ。
 その昔、漢の大将軍に任じられた韓信は、天下無敵の覇王・項羽軍の意表を衝き、大軍を率いて山奥の「漢中盆地」から抜け出て中国統治の中心であった「関中平野」へ攻め降り、常勝の覇王・項羽を追討する、いわゆる「楚漢戦争」の初戦を勝利で飾りました。
 そのように韓信が項羽を破って劉邦の漢王朝を興す手助けをしたように、孔明も、魏に攻め込んで漢王朝を再興できる可能性に賭けていたのであろう。そのように私は感じたのです。ちなみに、孔明が仕えたのは、漢王朝の祖・劉邦の末裔を称した劉備玄徳です。ですから、その祖先と家臣の成功と失敗を研究して漢を再興しようとするその行動は、ごく自然なことだったと思います。
 これは私個人の想像ですが、劉備玄徳は、祖先とされる劉邦の悪いところ・欠点を、学問と自制心で意識的に自ら取り除いたのではないか、と感じています。劉備は劉邦の子孫であるだけに、大陸風の徳が備わっていた。この点は似ています。しかし、強い猜疑心で有能な部下を危険視し、次々に粛清してしまった劉邦に対して、その子孫を称する劉備玄徳は、劉邦の後半生を反面教師として、部下を信じる善人の振る舞いを自然体で自己演出できるように努力したのかもしれない……。このように妄想してみるのも楽しいものですよ。実際に、あの孔明が生涯をかけて主君の夢を実現してあげようと頑張ったのですから、本当に劉備玄徳は名君になったのだ、と私は思うのです。
■朝倉 ……いやあ、ものすごく腑に落ちました。ちょっと泣いてしまいそうですよ(笑)。
■壱岐 その仮説のもとにあらためて『正史 三国志』を読み直してみたら、孔明の痛々しいほどの苦心がよくわかって、あらためて「三国志」の面白さを感じたんです。
■朝倉 ああ、『正史 三国志』も読まれてますか。私は読みづらくて挫折しましたが、さすがファンですねえ。
■壱岐 『史記』の、韓信のくだりに、家臣から「天下三分の計」で天下を取るべきだ、という進言がなされる場面がありますよね。
■朝倉 ええ。でも韓信はその策を退けてしまって、結局、主君である劉邦の妻・呂后りょこうによって、謀反の罪を着せられて殺されてしまう。
■壱岐 そうです。つまり孔明は、昔、韓信が採らなかった「天下三分の計」を基本戦略として、韓信が成功した「北伐」を試みたのではないか、と私は思ったわけです。
■朝倉 400年後のリベンジ・マッチ。
■壱岐 そのうえで『正史 三国志』と『史記』を併行して読み直してみたら、「あの北伐は決して無謀なものではなかったのだ」と感じました。
 宿敵である魏を討って、漢を再興できる可能性は、かつての韓信の作戦をさらに進化させた「第一回北伐」の時には確かにあって、それは成功しつつありました。最も信頼できる老将軍・趙雲も健在でしたし。しかし、孔明の愛弟子である馬謖が、孔明からの作戦指示に反して水のない山上に布陣したことによって大失敗してしまい、蜀軍は退却を余儀なくされてしまいました。孔明はその後もルートを変えながら北伐を繰り返しましたが、一回目の時のようなチャンスは二度と来なかった……。
 このように考えていくことで、「泣いて馬謖を斬る」のことわざでも有名な、軍律に照らした孔明による厳しい処断も、唯一となったそのチャンスを失ってしまった彼の苦衷を表しているのだ、として私の胸に迫ってくるんですよ。というように、より深く理解することができたんです。
 その仮説のもとに『項羽と劉邦』の人形展を企画したのです。だから、「幻となったもう一つの三国志と比較して諸葛亮孔明を理解してみよう」という意味で、『ふたつの三国志~項羽と劉邦』展とした、というわけです。
■朝倉 ものすごくよくわかりました。感動しました。
■壱岐 あの人形展をやったことで私はますます孔明が好きになりました。劉邦が項羽を滅ぼして打ち立てた「漢」の功労者たち、その四傑は、内政担当の蕭何しょうか、戦略家の張良、軍事の天才・韓信、謀略家の陳平、この4人ですが、400年後の諸葛亮孔明はその4人分を1人でやっていたわけです。かわいそうに、それは過労で死んでしまうはずですよ。
■朝倉 私は孔明をどこか神格化していましたけれども、強烈な人間味を感じ始めています……。
■壱岐 私がこの人形展で皆さんに観てほしかったテーマはもう一つありました。
 それは、川本先生の操演人形劇の人形たちの「顔」を見ていただきたい、ということでした。『人形劇 三国志』、『人形歴史スペクタクル 平家物語』、そして『項羽と劉邦』という製作順に進化している、と私は感じるんです。先生の作品で不動の人気があるのはやはり『三国志』なのですが、『平家物語』では日本人の顔を見事に形にされました。戦闘シーンよりも会話が多いので、口が開く人形を多く作っておられます。そして様々な運命を辿る女性たちのカシラ・顔が実に素晴らしい。あれは大成功です。
 そして『項羽と劉邦』の人形たちは、さらに異次元へ進化しようとしていたように私は感じているのです。川本先生も、また、川本先生の師匠であるチェコの作家イジィ・トルンカ先生も、「人形は人間の典型を表せる」とおっしゃっておられますが、まさにその究極を目指しつつあったのが『項羽と劉邦』だと思います。
 そもそも、題材が、あの司馬遷の『史記』中の白眉ともいえるエピソードの数々ですからね。紀元前の偉大な歴史家・司馬遷と川本喜八郎先生の魂が交流して、歴史の向こうから人物が蘇ってきて、川本先生の手から生まれ出た……。そんな気がします。本当に、そう感じさせるくらいにリアルなんですよ。つまり、人物の性格とその性格が招く運命を予感させるような顔に、また、その人物の一番の見せ場を演じられるように作られていて、まさに人形が生きているんです。
 川本喜八郎先生は、「操演人形劇の人形美術家」と、「コマ撮り撮影による人形アニメーション作家」という、大きく分けて二種類のお仕事をされた方ですが、『項羽と劉邦』の人形たち――張良、韓信、劉邦、呂后、虞美人たち――の顔を見ると、「人物の典型」を表せているという点で、これまでの二種類のお仕事における総合的な到達点に近づいていたんじゃないか、と、私は感じています。

●百年後の人たちにも伝えたい

■壱岐 私は今、豊島区の外郭の財団に奉職中なので一時中断しているのですが、川本先生が遺された厖大な資料をデジタル化・データ化してアーカイブする作業を、川本プロダクションの福迫福義社長のご理解とお力添えをいただいて、これまで数年間にわたり進めてきました。
 資料をデータ化しておくことで、「川本作品の本質は何だったのか」、「先生がどういう勉強をされたか」といったことが後世の研究家にもわかるようにしておきたい。つまり、川本先生が追い求めた人形芸術の遺伝子を後世へ伝えるために、「川本喜八郎がどういう人であったか」ということを百年後の人たちにも伝えたい、と思っているんです。
 そのために、まずはどのようなものがアトリエに遺されたのかを記録し、分類している段階なのですが……。しかしこれが実に膨大でしてね。私の生涯をかけての仕事になるでしょうから、まだまだ時間はかかります。
■朝倉 素晴らしい取り組みです。
■壱岐 私が「後世に伝えたい」と思っているものの中には、たとえばこういうエピソードもあるんですよ。
 さっきお話ししたように、私はアトリエで先生の作品を観せていただきましたが、先生が『道成寺』を私に観せながら、ぽつりと、「これは実写だと思われてしまったんですよ……」と悔しそうにおっしゃったんです。それで外国の映画祭での金賞受賞を逃してしまった、のだと私は理解しました。
 どういうことかと言いますと、作品の中で、若い僧(安珍)を追う清姫が、船頭に向かって、川を渡して欲しいと懇願するシーンがあるんですが、ここでは清姫の長い髪の毛が強風にあおられている。その髪の毛の様子が、あまりにも精緻でリアルすぎて、審査員がコマ撮りだと思ってくれなかったそうなんですよ。「髪に風をあてて、なびかせて撮ったのではないか」。つまり実写である、と、審査委員長が強硬に主張したらしい……。ある一人のそんな誤解からこの作品は、フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭で、前評判の高さから確実視されていた金賞受賞を逃してしまって、結局、エミール・レイノー賞と観客賞を受けるにとどまったんです。
 ここで金賞を逃してしまったことは、川本先生にとって大きな運命の分かれ道だったと思います。私もファンとして今でも悔しいし、世界のアニメーション史における、ある意味での“事件”だと思っています。アニメーションの進展のためにも金賞であるべきでしたよ。だから、「誤解を受けて」ということについても、きちんと伝えなきゃと思っているんです。
■朝倉 本書にも、『道成寺』の賞の話が出てきますね。
 連載当時の日本における認識では、あれだけ素晴らしい作品だったのにも関わらず金賞を獲れなかったのは、人形アニメーションの世界ではすでにイジィ・トルンカがその道を極めていて、彼の存在が大きなものとして立ちはだかっていたからだった……ということになっていたようです。でも本当のところは、審査委員の誤解によって賞を逃していた、と。この点について、註釈で補足していただきました。
■壱岐 「このシーン、どうやって撮ったのですか?」と、私といっしょに先生のアトリエを訪問した友人の高井義行さん(現・(株)グラウコープス代表取締役社長)が川本先生にお聞きしましたら、「人形を横倒しにして、髪の毛を少しずつ変化させてコマ撮りした」、とおっしゃっておられたことを憶えています。
 私はそんなふうに何気なく、先生に撮影方法を質問してしまいましたけれども、考えてみるとそういう技術って、作家としては秘伝とするべきところでしょう? でも、川本先生は技術を隠す人ではないんですよ。これは「後進を育てよう」という教育者の姿勢だったと思います。2005年に製作された、遺作の長編『死者の書』(●写真10)でも、多摩美術大学の学生さんにも参加してもらったりして、実作を教育の場にしておられました。

(写真10)『死者の書』のDVDパッケージ(ジェネオン エンタテインメント)

■朝倉 しっかりと後進のことを考えておられたんですね。
 ちなみに、多摩美術大学といえば秋山さんが教鞭をとっておられた大学でもあります。ここでも今、秋山さんの資料類が「秋山邦晴文庫」として整理されているそうで、その行く末をとても楽しみにしています。

●川本喜八郎と黒澤明

■朝倉 最近知って驚いたんですが、川本さんは、黒澤明監督の多くの映画で美術を担当したことでもよく知られる村木与四郎さんと、旧制・横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)時代に同級生だったんですね。学生時代に二人で奈良を旅行されたりするほど仲が良かったそうで、ステキだなあ、と思いました。
■壱岐 戦争で死ぬかもしれない時代ですからね。おふたりの旅行も、この世に生あるうちに日本の本質を知っておきたい、という思いだったのだろうと思います。
 川本先生と村木さんがご親友であった、ということから、実は私は、「『平家物語』では黒澤明監督に脚本と監督をお願いしてみたらどうでしょう?」と、川本先生へご提案したことがあるんですよ。
■朝倉 ええーーっ!
■壱岐 ウソだと思われるのであまり人に語ったことはないのですが、ホントなんです。
 私は小学6年のときにテレビで映画『七人の侍』(1954年)を観て以来の黒澤明ファンで、全作品の脚本を読んでいたくらいでした。それで、黒澤監督が「『平家物語』を映画にしたい」と語られたことがあるのを知っていて、そのことを先生へお話ししたんです。ダメでもともとの提案として、「黒澤監督による脚本とカメラ構図で『平家物語』をドラマチックに映像化する」、というアイデアを話しましたら、川本先生も一瞬、乗り気になられた。それで「村木さんへ相談してみよう」、とおっしゃった。しかし数日後、結局は断念されました。黒澤監督がイメージされる平清盛、源義経といった人物像や、衣装・甲冑イメージが、川本先生が製作される人形デザインと合致しない可能性もあって断念を……。村木さんへの相談は、なさらなかったかもしれません。
■朝倉 川本さんと黒澤監督、おふたりそれぞれに、しっかりとした作品世界のイメージがおありでしょうから、どこかでぶつかってしまったかもしれませんねえ。
■壱岐 とにかく、世界の黒澤明監督が川本喜八郎製作の人形劇映画を手掛けるという夢は、私の妄想、幻に終わりました。
■朝倉 しかし実現していたら、と考えると鳥肌が立ちますよ……。

●心を表現する、光と影、そして音

■朝倉 村木与四郎さんが川本さんの本のインタビューに応じておられるんですが、この中で、「川本作品はずっと見ている」とおっしゃっていて。「作る人形がだんだんと文楽のものに似てきたけれど、それはチェコに留学に行って日本の良さを感じたからでしょう」と言ってます。
 壱岐さんも、川本さんの作品を知る前から文楽がお好きだったそうですが、川本さん作品の人形の表情には文楽人形や能面に通じる深みがありますよね。
 たとえば『鬼』(1972年)という作品で、人形のカシラの角度と照明の具合、そして鶴澤清治さんによる三味線の音色で表情が変わって、その心情も伝わってくるのが印象的です。川本作品の撮影を手掛けられた田村実さんも、インタビュー動画で、「照明にはものすごく気を使われた」とおっしゃっています。
■壱岐 人形の表情は光の角度によって大きく変わりますからね。川本先生はおっしゃっていました。能面も文楽人形の首も微妙に左右非対称に作られていて、そういう工夫は日本独特のものだ、と。その秘訣に気がつかれた先生は、首を作るときは左右から上下から斜めからと、ライトを微妙に当てながら顔の角度で微妙な演技をできるように作っておられたようです(●写真11)。

(写真11)「毎日グラフ」(1990年11月4日号、毎日新聞社)企画が白紙になり、次のチャンスを待つことになった「平家物語」の人形たちを掲載したインタビュー記事に、照明に関する発言がある

■壱岐 チェコの偉大な人形アニメーションの芸術家であるトルンカ先生は「光の芸術家」と評されたりしますが(●写真12)、それはつまり、人形を人間の代役のようにむやみに動かすのではなくて、光と影と風で心を表現しておられたからなんです。「風」、といってももちろん実写ではなく、コマ撮りで表現する「風」、ですよ。
 ちなみに川本作品の大半を撮影された田村実さんは、まさにレジェンドですね。
■朝倉 田村さんにもぜひ、お話を伺ってみたいですね。
■壱岐 これはちょっと意外な感じがするかもしれませんけれど、川本先生が作られる人形は当初、先生の師であった劇作家の飯沢匡先生から「“叙情人形”のようだ」と言われていたそうなんですよ。
 川本先生は東宝争議で職を失った後、飯沢先生からのお誘いを受けて、デザイナーの土方重巳さん(●写真13)、カメラマンの隅田雄二郎さんとともに、1951年に人形芸術プロダクションを設立して役員となり、トッパンのストーリー・ブック(人形による名作絵本)などの人形製作を担当されます(●写真14)。そして土方さんのデザインを基に、実に見事な、洗練された人形を作り上げて、高度な技量レベルに達しました。しかしその作風はあくまでも西洋風のもので、後年の川本先生の人形に特徴的な、日本古来の文化を踏まえた作風の確立には至ってはいなかったんです。

(写真12)人気の高いイジィ・トルンカの作品群は、日本でも多くのソフトがリリースされている
(写真13)土方重巳の著書『土方重巳・造形の世界』(造形社)
(写真14)飯沢匡、土方重巳らと製作した絵本

■朝倉 たとえば、絵本の『シンデレラ』は1953年の刊行ですね。この時、川本さんは人形と装置製作を担当されていますが、たしかにこの頃に作られた人形は、「川本喜八郎製作」と言われても後年の作風の印象が強い私からすると意外な感じがします。
■壱岐 海外にもよく売れたトッパンの人形絵本はすべてのページにおいて、人形だけでなく、美術など何からが何までがまるで人形映画のワンシーンのように見事なものでした。でも残念なことに、コマ撮りによる人形アニメーションの技術は、この当時の日本国内にはなかったんです。そして飯沢匡先生にとっては、絵本を人形アニメーションにすることが夢でした。そこで若き日の川本先生は、飯沢先生のその夢を実現しようとチャレンジされたのでした。
■朝倉 師匠思いですね……。
■壱岐 そうなんですよ。
 その後、川本先生がチェコへの渡航経験を経て、ご自身で作品を企画・演出(監督)されるようになると、文楽や能の研究し、さらにそれを超えようとされて、作り出す人形にある種の“凄み”が感じられるようになりました。川本先生がそのように変わっていくヒントを与えてくれたのが、トルンカ先生です。川本先生が書き遺されたもの(「師匠のこと」)によりますと、トルンカ先生は人形について、「人形は人間のミニチュアではない。人形には人形の世界がある」と答えて、こんな助言を下さったのだそうです。少し引用します。
 「日本には、歌舞伎や文楽といった様式的な演劇があるではありませんか。貴方は、自分のアニメーションにそれを生かしてみてはどうですか」
 つまり、作家はそれぞれの民族性を生かして作品を作ることが大切なのだ、という示唆を得たわけです。民族性と様式ということからいえば、考えてみたら飯沢先生も、日本の庶民の芸能として生まれた「狂言」を高く評価された方でした。それで、川本先生が最初に製作し演出された作品は壬生みぶ狂言に材を取った『花折り』(1968年)になったのだろう、と思います。
■朝倉 見事に繋がっていますね。
■壱岐 そして続く『鬼』では、文楽的なテイストの人形を作られて、その画面に「横の動き」を取り入れ、「闇」を「美しく」、そして「怖く」表現しています。名作です。冒頭の数十秒間で老母の生い立ちから現在までを、鶴澤さんの三味線と山口五郎さんの尺八、そして壬生みぶ露彦つゆひこさんと中川涼さんによる背景画で短時間で説明しきっていて感嘆します。
 それが『道成寺』になると、能の世界になって。ここでも動きは日本古来の絵巻物のイメージを持った横の動きにチャレンジされていますが、さらに「光と影と風」で人物の心理を表現して大成功を収めました。それが次作の『火宅』(1979年)では、能を題材にしながらも、奥行きのある「縦の構図」に挑戦されるんです。
■朝倉 『火宅』は物語自体も、奥へ、奥へ、と分け入っていく感じがありますよ。
■壱岐 そうやって、人形アニメーション映画にドラマ性を高める試みを成功させていったんです。
■朝倉 心を表現する・心に寄り添う、ということで言うと、照明に加えて、先ほども言いました『鬼』における鶴澤さんの三味線や山口さんの尺八の響きように、音・音楽も非常に重要な存在となっていますね。
■壱岐 川本先生の作品には鶴澤さんの他に、武満徹さん(『火宅』、『蓮如とその母』(1981年))や松村禎三さん(『道成寺』)、湯浅譲二さん(『詩人の生涯』(1974年))、廣瀬量平さん(『死者の書』)、池辺晋一郎さん(『連句アニメーション 冬の日』(2003年))などが曲を提供しておられますが、川本先生ご自身が大変に音楽がお好きで、クラシックについても深い造詣をお持ちだったんです。
■朝倉 川本さんの――これは人形アニメではなくカットアウト・アニメーション(切り絵アニメーション)ですが――『詩人の生涯』では、湯浅さんの曲を高橋アキさんがピアノ演奏されていて。これが素晴らしい……。
■壱岐 じつに美しい音楽ですよねえ。特に終章で、さまざまな美しい雪の結晶が降ってくるシーンあたりからラストにかかる曲が、映像と見事にマッチしていて本当にステキだと思います。「音による絵画」とでもいうような。
■朝倉 曲の調子が徐々に高まっていって、解放感と希望を感じさせる。あと、物語中盤の、厳しい冬のシーンに流れる曲も良いんですよねえ。
 先日、この作品についてお電話でアキさんにお聞きしましたら、演奏は、パーカッショニストの山口保宣さんと一緒に、アニメ本編を観ながらされたのだそうです。
 ラストにかかるピアノ曲は湯浅さんの『ドの歌』で、これをシーンの長さに合わせて繰り返して弾いた、とおっしゃっていました。アキさんは最近も湯浅さんと『詩人の生涯』のことをお話しされたそうで、その時も湯浅さんが「川本さんは素晴らしいね」とおっしゃっていた、と聞きました。おふたりにとっても印象に残る作品だったようです。
 なお、アキさんは2022年10月に行なわれたピアノリサイタルで『ドの歌』を演奏されて。生で聴くことができて、深く感動しました……。
■壱岐 『詩人の生涯』は、原作が安部公房さんの短編小説で、労働者と資本家の関係が描かれていますよね。
■朝倉 ええ。
■壱岐 それで、世間ではよく、「この作品には川本先生ご自身の体験が反映されているのではないか」と言われています。つまり、「川本先生ご自身が東宝在籍時代に巻き込まれて職を失った、いわゆる東宝争議をイメージしたのではないか」、と。たしかにその要素はあります。
■朝倉 私も今回改めて観直して、そのことを連想しました。
■壱岐 でも私は、川本先生はこの作品で社会問題や思想的なものを描こうとしたのではない、と思っているんです。そうではなくて、「芸術家として生きていくのだ」という先生ご自身の、決意というか、芸術家としての一種の“解脱”を描いた記念碑的作品である、と感じています。先生ご自身も、「自分の作品を貫く生涯のテーマは“執心と解脱”だ」と語っておられます。
 ちなみに、『詩人の生涯』と同様に、男性の主人公で“解脱”を描いたのが『不射之射』(1988年)、そして女性を主人公にして“解脱”を描いたのが、最晩年の長編『死者の書』(2006年)ということになると私は思います。『鬼』『道成寺』『火宅』の不条理ものとも称される名作群だけでなく、最後に女性主人公の“悟り”と“解脱”を作品にできて良かったと思います。

●火と水の、処理の発見

■朝倉 私は映画でもテレビでも、特撮モノが好きなのですが、火と水の処理が大変難しい、と言われるんです。ミニチュアセットで適用しようとすると、燃える建物の炎上する火の勢いや、船が進む洋上の波立つ水面など、大きさの再現が難しくて、“本物らしさ”の表現に苦労した……という証言を読んだり聞いたりするのですが、川本さんの人形アニメーションでは、この火と水の表現が実によく使われます。
■壱岐 怖いもの、不条理なもの、として出てくることが多いですね。
■朝倉 業火とか、激流、といったように。
■壱岐 いずれも効果的に使いこなしておられて、実に見事です。
■朝倉 よく使う、というのはつまり、川本さんが描こうとした世界に火と水が必須のものだったからだと思うんですが、その再現にあたって川本さんはよく、アニメーション――カットアウト・アニメで、でしょうか――で処理されていて、古典に題材を取った話では、まるで絵巻物に出てくる火と水のような描き方をするんですね。そしてそれが、日本的な造形の人形たちと画面の中で違和感なく共存していることに驚かされました。
 この処理方法は、川本さんにとって大きな“発見”だったのではないでしょうか。そして、この技術の導入は、川本さんがそれまでに培ってきた、人形アニメだけにとどまらない、アニメーション全般の素養が役立ったのかなと思うんです。このようなアニメーションの技術は、師匠の持永只仁さんに習ったものだったのか、とにかく、作品世界を豊かなものにしていますよね。
■壱岐 そうした工夫は川本先生独自のものだと思います。火と水は『道成寺』にも出てきますけれども、圧巻なのは『火宅』です。
■朝倉 無理なく表現されていて素晴らしい。人形アニメーション部分映像に日本画風の炎のアニメーションを重ねているけれど、物語の世界にうまく融合していてまったく不自然ではないんですよ。
 壱岐さんがおっしゃっていたように、物語の着想だけでなく、演出術においても、古典や美術などに関する知識、素養の深さ、そして観察眼の鋭さという川本さんの素地が活きていることがわかります。
■壱岐 アトリエに遺されたメモや資料などを調査保存してきてわかることは、とにかく、ものすごく研究し、工夫しておられたということです。血のにじむような勉強と研究の成果のうえに先生の作品群があるんです(●写真15)。

(写真15)川本喜八郎作品のソフト

●人形に向き合う真剣さ

■壱岐 勉強と研究、という話の流れで言いますとね、私が川本先生に、いちばん最初に質問をして、いまも自分の研究テーマとしているのが、「なぜあのような様々な顔を生み出せるのか?」ということなんです。
■朝倉 『人形劇 三国志』で衝撃を受けて以来の問い、ですね。
■壱岐 先生は、表現したいと思う人物を理解し掘り下げるためにあらゆるものを読んで、歴史を知って、というように、研究を重ね、下地を作ったうえで想像力を働かせました。すると、「人形の顔が、まさに生まれてくるんだ」、と。「どんな顔でもいいから、ただ立体的に作ればよい、というわけではない。生まれてこなければいけないんだ」ともおっしゃっていました。
 でも、人形製作の前提として、川本先生の頭脳には、人物のカシラタイプに関する独自の基本的分類法があったことに私は気づいたんですよ。そのことは、先生ご本人からも少し伺いました。秘伝だったかもしれないので言うことはできないのですが、その分類法を踏まえた上での「生まれる」だと私は思うんです。
 川本先生はもともと建築家を志しておられて、寺社建築を学ばれましたから、素養として理系的な分類学をきちんとわかっておられる。そのうえで、文系的なアプローチで人物を深く理解していこうとされました。それで、たとえば悪人を作るにしても、「いわゆる“典型的な悪人顔”というものはない」とおっしゃるんですよ。「悪人には、根っからの悪い奴もいるけれど、何かの拍子で誤って人を殺めてしまって、その罪に苛まれてひっそりと生きている悪人もいるだろう……。そのように、同じ悪人といってもひとりひとりの顔はおのずと違うものになるはずです。だから役の使いまわしはできない。ある作品のために作られた人形は、その作品の役しかできないんです」と言っておられました。そして、「作中で人形が死んでしまったら、本当に死んでしまう」、「人形は人間の代わりなのではなく、人形でなければ表現できない世界があるんです」、ともおっしゃっておられました。
■朝倉 川本さんが人形に向き合ったその真剣さがよくわかります。
 私が川本さんの作品のなかで特に好きな1本は、1分くらいの小品『セルフポートレート』(1988年)なんです。
 この作品には川本さんご自身が、とても可愛らしい粘土細工の人形として出演しておられます。この中で川本さんは、白い粘土を捏ねて、きれいな女性の人形を作りあげる。するとその女性はツノの生えた鬼面の老女に変化して、逆に川本さんを捏ねあげて粘土の塊にしてしまいます。でも、その塊からはすぐに手が生えて、もと通りの川本さんになり、鬼の老女を捏ねて土くれにしちゃう。だけど老女も途端に復活して川本さんをまた捏ねあげて……と、それがコミカルに延々と繰り返されるというもので、BGMとして全編に瀬川瑛子の『命くれない』が流れている(笑)。また、この作品の人形の造形は他の作品と違って本当に可愛いらしいもので、鬼面の老女にもどこかほのぼのとした味がありますから、私は最初、笑いながら観たんですよ。
 でも鑑賞してしばらく経ってから、川本さんの身体には昇降二体の、実に見事な龍の刺青があった、ということを知って、それがこの作品と急に結びついて、はっ、としました。つまり、刺青を入れるのは“我慢”といわれるくらいに辛い苦行で、それに耐えてまで身体に見事な墨を入れようと思ったのは、「人形製作に生涯を捧げる」という、川本さんの強い意志の表れだったのではないか? そして、それだけの覚悟で日々臨んでいる実際の人形製作にあたって川本さんは、精魂を傾け、まさに全身全霊を込めておられたはずですが、逆に、川本さんご自身もまた「人形によって生かされている」と感じる瞬間があったのではないか?
 それだけ真剣に、人形と渡り合っていたし、渡り合わなければいけないと感じていたんじゃないだろうか。そのことがこの作品で表現されているのか、と思って、大きな感動に襲われたんです。そして今のお話で、改めて腑に落ちた気がします。
■壱岐 先生は「人形にお仕えしている」とおっしゃってましたよ。
 『死者の書』でも、主人公の郎女いらつめは、悟りに至るまでのお顔をものすごい数、作っておられました。場面に応じてカシラを挿げ替えていきますから。乙女がやがて解脱していく過程の顔の微妙な変化を、異なる首を数多くつくることで表現しておられました。遺された首の数々を確認して驚嘆しました。本当に手間のかかることをやっておられたんです。

●多くの人に支えられた最後の大作『死者の書』

■壱岐 『死者の書』は、川本先生のお仕事としては最後の大作となってしまいましたけれども、いろいろな人のサポートでなんとか完成させようと多くの人々が動きまして、ひとこまサポーター制度というものを、桜映画社さんが事務局となって運営してくれました。今でいうところのクラウドファンディングみたいなもので、エンディングの字幕には、募金に応じてくださったすべての方々のお名前が表示されていて感動的です。私もその中の一人ですが、大勢の方々の活動が大きなうねりとなって完成することができた大作です。
■朝倉 私はまだ、『死者の書』を観る機会に恵まれていないんですが、これは折口おりくち信夫 しのぶの小説が原作で、聞くところによると川本さんにとっても本当に難しい題材であったことから準備に相当時間がかかったのだそうですね。
■壱岐 ええ。先生はシナリオづくりの作業を、時間が前後して進行する複雑な原作をいったん分解して、時系列で並び換えるところから始められました。遺された先生の資料からも、そのことが確認できました。
 そのシナリオと絵コンテの完成版を川本アトリエ以外の人間で最初に見せていただいたのは、私だったかもしれないんです。読みながら「これは責任重大だなあ……」と思いましたよ。
■朝倉 ええっ、そうなんですか! 
■壱岐 川本先生が私に電話をかけてこられて、「『死者の書』の絵コンテができ上がったから、すぐ見てください。今日、アトリエに来られますか?」とおっしゃったんです。そこで私は会社の仕事を早めに終えて、夜に千駄ヶ谷のアトリエに伺いますと、先生は「いまコンビニでコピーしてきたばかりです」とおっしゃって、完成したばかりの絵コンテ――しかもコピー機の熱でまだホカホカする――を私の目の前に置かれて、「読んでください」とおっしゃいました。絵コンテとシナリオは膨大な量で、それを川本先生の目の前で、じーっと、30分くらい無言で読ませていただきました。
■朝倉 それは緊張しますね……。
■壱岐 絵コンテは、時系列を並び変えておられたことで展開がわかりやすくなっていました。実は、シノプシスと脚本についてはずっと以前から、先生が書き直されるたびにいただいていたんですよ。もちろん、原作の小説も読んでいました。ただ絵コンテも、わかりやすくなっていた、とは言え、それでもやっぱり原作自体が難しくて、その場で一回読んだだけでわかるような、生やさしいものではありませんでした。
■朝倉 絵コンテは緻密に書き込まれているんですか?
■壱岐 緻密、というより、黒澤明監督の絵コンテのようでしたね。つまり、その映画をすっかり観てしまったかのような読後感なんですよ。それだけわかりやすく描いておられました。実にすごいものでしたよ。私にとっては、絵コンテそれ自体がもう素晴らしい作品でした。
 そして、私が読み終えますと先生は私に、「これ、やれますかね?」と真剣におっしゃられた。素人の私に、ですよ。そう問いかけられた時はものすごく緊張しました……。
■朝倉 川本さんにとって壱岐さんはやはり、良き相談相手だったんですね。
■壱岐 先生のこの一言はつまり、「どこかの映画製作会社がお金を出してくれるだろうか?」というお尋ねであるのと同時に、「私に映画製作会社への交渉を手伝って欲しい」というお願いだな、とわかりました。そこで先生に、「企画を持っていきたい映画会社の当てがおありですか?」と聞きましたら、「桜映画社に持っていきたい」とおっしゃった。
■朝倉 桜映画社は記録映画、児童の向け劇映画、科学映画などを手掛けていることで有名ですね。岡本さんの『おこんじょうるり』を製作したのも同社です。
■壱岐 私は桜映画社の方とお会いしたことがなかったので、アポイントを取っていただいて、先に絵コンテをお届けしておいた上で、社長の村山憲太郎さんのもとへ、先生と一緒に、私は一人の川本ファンとして同行しまして、「この絵コンテの企画である『死者の書』にご協力いただけませんか」とお願いしたんです。
 それで、ご同席くださった桜映画社の福間順子さんという名プロデューサーがサポーター事務局となってくださって、その後数年でその長編人形アニメーション『死者の書』を見事に完成に導いてくださいました。福間さんには本当に感謝しています。
■朝倉 完成後に試写会があったそうで、サポーターの皆さんも大勢駈けつけた、と。川本さんも嬉しかったでしょうね。
■壱岐 それはもう。イマジカさんでの試写会、あの時の先生の笑顔は忘れられません。
 でも、上映する前の時点では、映画監督というお立場の方はどなたもそうなのかもしれませんが、ご自身も資金をありったけ投入しておられるとはいえ、核となったのは大勢のサポーターの方々からの基金で、これを受けてこそ完成できたわけですから、試写会では、責任感のお強い川本先生は、少し落ち着かないご様子でしたね。
 試写会の直前に川本先生は、私とともに川本先生の応援をしてきた高井義行さんに、やや不安げにこう囁かれたそうです。「こんなに皆さんから製作資金を集めてしまって良かったのでしょうか……」。これに対して高井さんは、ファンはサポーターとして先生に協力させていただけたことだけでも嬉しいのですよ、という意味合いで、「あの壱岐さんがあんなに喜んでいるのですから、良かったんじゃないですか」と答えられました。そうしたら先生は、ニコッと微笑んで、頷かれたのだそうです。
 試写会は感動的でした。エンドロールでは「ひとこまサポーター」の皆さんのお名前が、7分間にわたってクレジットされるのですが、八世・観世かんぜてつじょうさんの能楽『當麻たえま』の音声を背景にしたものでとても印象的でした。ちなみに、能の『當麻』は折口信夫の小説『死者の書』の題材の一つの「中将姫伝説」をテーマにしたものなんですよ。誤解されることがよくあるのですが、「チベット死者の書」とはまったく別のものです。
 「ひとこまサポーター」たちのお名前は、販売されている作品DVDでも観ることができます。機会があったら皆さんのお名前をぜひ最後まで観てください。「あの人のお名前もある」、「あっ、あの人も!」と、世界中から様々な方々が応援しておられたことがわかって、驚かれると思います。私の名前ももちろん載っています。川本先生のお名前も、ひとこまサポーターのところにも載っています。みんなの想いとお金で作り上げた特別な作品なのだという感謝のお気持ちだったのだと思いますね。
 先生も試写会で、皆さんの様子を見て、ホッとされたとことだろう思います。

【第1回おわり。第2回に続く】

秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜
~マエストロたちはどのように映画の音をつくってきたのか?

秋山邦晴 著 高崎俊夫+朝倉史明 編集
カバーデザイン:西山孝司 本文組版:真田幸治
A5・並製・672ページ 本体5,800円+税
ISBN: 978-4-86647-107-5
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK263

壱岐國芳(いき くによし)
1958年生まれ。川本喜八郎研究家、人形アニメーション史研究家。1980年早稲田大学卒。生命保険会社に入社し不動産・教育・営業管理など経験後、関連の教育会社へ志願出向。文化人100名に人生を訊くラジオ番組『元気e!』を企画推進しメルマガ・出版・教育プログラム開発など手掛けた後、秋田アトリオン音楽ホールの民間指定管理責任者に指名され公共ホールの経営再建も果たす。60歳で本社を定年退職後、川本プロダクションを経て、としま未来文化財団(東京都豊島区)の幹部として招かれ、区民活動を支援し「文化を基軸としたまちづくり」を応援。2023年3月、65歳財団定年を機に、ライフワークの人形美術家/アニメーション作家・川本喜八郎と持永只仁の研究など、著述と創作活動を再開。

朝倉史明(あさくら ふみあき)
1974年、神奈川県生まれ。編集者。大映映画スチール写真集『いま見ているのが夢なら止めろ、止めて写真に撮れ。』(責任編集・監修:小西康陽、DU BOOKS)や、2016年版から毎年発行している『名画座手帳』(企画・監修:のむみち、往来座編集室)、1968年に引退し今も根強い人気を誇る女優・芦川いづみのデビュー65周年記念の単行本『芦川いづみ 愁いを含んで、ほのかに甘く』(高崎俊夫との共編、文藝春秋)などの編集の他、日活映画『事件記者』シリーズのオリジナル・サウンドトラックCD(CINEMA-KAN Label、音楽:三保敬太郎)のプロデュースを手掛ける。

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映画本編集者対談『秋山邦晴の日本映画音楽史を形作る人々/アニメーション映画の系譜』をめぐって~高崎俊夫×朝倉史明「これは秋山邦晴の青春の書だ!」
https://note.com/dubooks/n/n592cee5abb50


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