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#23【喪】政治と教育と言葉について本気で考える。

ショッキングな事件です。
色々思うところがあり、今日は特に自戒も込めて書きます。
なお、内容は執筆当時の情報を基にしていて、憶測レベルのことはなるべく排除しています。

2022年7月8日

朝のルーティンを終えて、一息ついたタイ時間の10:00ごろ、SNSに衝撃的なワードが飛び込んできた。安倍元総理が銃撃されたとのこと。
そこから僕は、YouTubeで流れる民放のニュースを見ながら、SNSにも目を通した。数十分後から予定を立てていたが全キャンセル。
移動先でもYouTubeを片手に仕事をして、結局安倍さんの死亡が報道されたタイ時間の15:00過ぎまで、5時間ほどこの情報収集をしていた。

容疑者と動機


報道は事件直後から「容疑者が何者なのか?」と「安倍さんの安否」の2点の情報に焦点が絞られた。
特に容疑者については、
40代(のちに41歳と判明)の男☞フルネーム☞元海上自衛隊員☞事件現場の近くに居住と、
数時間のうちにあらゆることが判明された。

Twitterでは、選挙2日前の出来事だったこともあり、「二・二六事件」や「ケネディ暗殺事件」も引き合いに出しながら、政治的な対立や政界の陰謀論まで推測された。

ただ、この時点で僕はその可能性は薄いと感じていた。
ここが残念なところだが、現代の日本に「殺したくなるほど」政治に興味のある人は少ない。
安倍政権をはじめとする自民党の政策に本気で苦しめられて生活すら危うい人・危うかった人・実際に破綻した人は多くいるはずである。
(自民党政権に限らずだが)
それでも、自分たちの生活が政治の力によって大きく動かされて影響していること、
もっと言えば政治さえ変われば自分たちの生活が大きく変わるということを
現代日本の僕たちは知らない。
知っているかもしれないけど、実感としてはない。

こういう感覚があるから、僕は動機が「政治的信条ではない」と報道されたとき、「でしょーね。」と思った。
さらに近所に住んでいたとの報道で、いよいよガンマニアの突発的行動なのではと勘繰り始めた。

政治と宗教


ところが、事は思ったよりも深かった。
当日夕方あたりから、家族が「統一教会」の信者であり、破産したことの恨みであるとの報道があがったのだ。
(民放とNHKは今日まで「特定の宗教団体」とぼかしていたけど)

そして本日、統一教会は民放と大手新聞社のみを対象として会見を行った。

自民党と統一教会のつながりは、かねてからネットで上がっている通り。
僕もぼんやりとは知っていたが、改めてこの教団の内実を知ることができた。

ちなみに、政治と宗教は僕らや子どもたちが想像する以上に密接なつながりがある。
創価学会と公明党はあまりに有名だし
(だから自公の連立政権が第一党になり続けているのだし)
僕のかつての職場と関係の深い宗教団体だって、かつて自民党とのつながりが大きかったと聞く。
政党は、宗教団体の支援があって成り立っているのだ。
別に宗教じゃなくてもいい。
一つの信念に基づいて組織された団体であればなんでもいいだろう。
もしFC東京が全国1000万人のサポーターを擁していれば、政治が入り込んでくるに決まってる。

「宗教」と聞くと日本人は構えるが、「何を信じるか」という観点でいえば、信教は選挙の投票と何ら変わらない。
僕は「宗教」に関してネガティブなイメージはないし、この事件をもってしても
「ほら、宗教にのめりこむとこんな悪いことになる」
とは思っていない。

むしろもうちょっと根源的な、「信じること」について
考えなければならないと思う。

政治と教育

簡単に言えば、日本の政治的関心のなさは、とにもかくにも教育現場に責任があると思う。
公立の先生は特に、政治的発言についてはかなり慎重になっているらしい。
でも本当は、子どもたちと一緒に「自民党のこの政策は~」とか「この区長の時の方針は~」とかって話す教育現場こそ健全なのでは?

政治の授業だって少なすぎる。
個人的にはお涙頂戴の道徳の時間よりも主権者教育を中心とした社会のコマを増やすべきだと思う。

政治には色々詰まっている。
・リーダーの在り方
・組織の作り方
・運営の仕方
・言葉の大切さや重み

これを知るだけでも、自分たちの実生活に深くかかわっていることを実感できるのではないか。


政治家の様々な問題が出てくるのは、
政治家が本質的に「悪者」なのではなく、
政治家の行動に興味をもって声を上げる人がいないから。

そりゃ、万引きしても何も言われなければ、
まして「坊ちゃんよく来たね」なんて店先のおばちゃんに言われようもんなら
何度も万引きを繰り返すだろう。
最初は小っちゃい一つの飴玉だったのが、
スナック菓子何袋もとるようになるに決まっているだろう。

今の世の中を作ったのは、政治に関心を持たなかったすべての国民に重い責任があることを自覚しなければならない。

ちなみに、タイでは選挙日は駅で国歌が流れたり、禁酒日だったりと色々生活に影響を及ぼす。
発展途上国はそれだけ国の政策によって自分たちの生活が左右することを知っているからだろう。


政治と言葉

言葉にはバイアスがある。
一つの言葉を選択した時点で、何かを選択しなかったことになる。
言葉によって、その人や組織の立場が明らかになる。
こういうことを政治は強く教えてくれる。

今回のことでも「言葉」について様々なことを考えさせられた。

例えば、事件直後の容疑者についての報道。
「安倍元首相の政治的信条に対する恨みではない」

これは推測だが、容疑者がこの発言をしたはずはないと思っている。
おそらく、警察が「安倍元首相の政治信条が気に入らなかったのか?」と質問し、「いいえ、違います」と答えたのだろう。
これが、メディアでは40代男性っぽい声で前述の文言で放送される。
でも、僕らはそこに無自覚だ。
このニュアンスの違いは大きい。

また、報道各社が今日まで「統一教会」の名前を出さなかったこと。
何らかの報道規制がかかったものと推測されている。
(この真実は分からない)
嘘は言っていない。
でも、こういう言葉遣いがいろいろな憶測や立場・関係性を表すということが良く分かる。

芸能人のスキャンダルもそうだが、
謝罪会見の滑稽さについては誰もが知るとおりだ。
反省してるかしてないかではなく、
「反省してるっぽく謝罪の声明をだす」行為こそが大事なのだ。
たしかに滑稽だけど、同時に社会が「言葉」に大きく影響を受けていることの最たる例だろう。

やや話がそれたが、
要は「政治」は言葉によって動かされ、その言葉には「真実」だけではない複雑な重みがあるのだ。
政治家たち自体もその言葉を巧みに操っているし、
さらにメディアという言葉の魔術師がさらにフィルターを加えて僕らのもとに届けられる。
そのことに自覚的な子どもたち(大人も)はどれくらいいるのだろうか。
「メディアリテラシー」は、単純に「嘘か真か」の見分ける力ではないのだ。

この事件が抱えるいくつかの「闇」


①僕が、政治的対立が動機でないと思案した通り、政治が僕らの生活を大きく動かしている実感のある現代日本人は極めて少ない。
②「宗教」に対する無知と忌避と距離の取り方について、特に無宗教の人々は知らない。
③安倍さんが倒れたことに対する子どもたちの反応は「なんかわからんけど悲しい。なぜなら知っている政治家だから」。
④メディアの報道規制について騒いでいる。そもそもメディアなんて言葉の取捨選択の繰り返し。ふだんから報道にはバイアスがかかっている。


改めて教育がしなければならないこと

僕は当初、言語化できないショックに駆られていた。
多くの人に漏れず、SNSで流れてくるショッキングな映像や文言に触れ続けてしまったからだ。
ただ、数日経ってちょっと変わってきた。
ショックなのは、この事件に対する国民の反応に対して。
そして考えれば考えるほど、すべて教育が担うべき責任であるということ。

不謹慎を承知でいうが、
この事件をきっかけに、僕が教育現場に戻るべき理由が言語化できた。
簡単じゃないけど、現場に戻れた時にはこの想いを忘れたくない。


最後に。


色々書いてきたし、教育の課題がたくさんあると思ったけど、
何より教育現場で子どもたちに伝えたいこと。

「どんな時でも、暴力以外で解決できる方法を模索しよう」

残念ながら暴力に頼らなければならないときがないとも言えない。
そういう意味で僕は暴力を全否定できない。

でも、困難を一緒に乗り越えようとしてくれる人や団体や方法がきっとある。
誰かに傷つけられたとしても、違う誰かが救ってくれることはたくさんある。
そのために、視野を広く持つやり方を学校現場はもっと教えなければ。

安倍元首相のご冥福をお祈りいたします。

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