怒鳴る患者・家族への対応 場数踏んで慣れろ 精神科専攻医の徒然草2

◯キレることが正当化されてたまるか
 医者をやっていると患者や家族に怒鳴られることも多いし、まして精神科は他の科よりもその機会は多いかもしれない。若手のうちは特にそうで、単に若いからだったり、業務に不慣れでつい礼儀を欠いてしまうこともある。それでも不意に怒鳴られると落ち込んでしまうし惨めな気分になってしまうので、できれば上手な対応ができるようになっておきたいところである。
 クレーム対応について学び始めてまず出会うのはクレームの裏にある心理的な訴えに耳を傾けようという考えである。確かにこれはその通りで、精神科医も診察室で怒鳴る人物を見たときはその精神状態や病理を捉えようと努める。
 だがしかし待ってほしい。若手の我々が先に知りたいのはそんなことだろうか?なぜ怒鳴られた側が更に相手に歩み寄ろうとしないといけないのだろうか?そんな不正義があってたまるものか。そこで私が精神科医としてよく患者を怒らせてしまった中で作っていったもっと実践的な対応についてまとめてみようと思う。

◯医師にキレる患者は頭が悪いことが多い
 普通の大人であれば外でどんなに不愉快な思いをしようとも医師に対して乱暴な振る舞いはしない。大きな声を出す時点でそのひとは通常の話しが理解できない人間であることは間違いない。なので、標準的な知能・認知機能水準を前提とした方法は意味が無く、もっとシンプルな方法で制御するのが良い。もちろん中にはパワハラ・モラハラ気質があり平均以上の知能で怒る人もいるが、そのような場合は全て計算して怒っているので警察通報を警告すれば黙るのでそうするように。以下はすべて理屈が通じないタイプの対応だ。
 まず、繁華街の喧嘩のように相手をやり込めて叩きのめしてはいけない。あくまで治療の場であるので、振り上げてしまった拳の下ろし先をこちらでお膳立てしてあげるのが良い。医師に怒る人物はただでさえ賢くなく、まして興奮しているので我々の手のひらの上で踊らせることは簡単である。患者の主観的な体験としては「つい興奮してしまったけど言いたいことを先生にわかってもらえて良かったです」と感じるような、川辺で殴り合った後に信頼関係が深まるような体験を演出してあげることを目指すと上手くいくことが多い。これを実践すると、ただの理不尽なクレーム対応がいつのまにか良質な精神療法として治療的に作用するのである。この形を目指して治療に活かす。

◯怒りは自然鎮火する
 どんな人物でも怒るのは疲れる。そのため一度怒り出したとしても新たな薪が焚べられなければ自然と鎮火していくものである。ただ、何が薪になるかは慣れていないとわからない。そこでやりがちだが実は薪になってしまう行動を考察してみよう。
一、萎縮してしまってすぐ謝ってしまう
 真面目で穏やかなタイプの医師がよくやってしまう。謝り続ければ自然に時間は過ぎるので怒りも収まっていきそうではある。しかし、これは怒鳴る人物からすると本当に理解してくれているのかわからない点が惜しい。医師が謝りながらいかに適切な説明をしたとしても、怒る人物は口頭での説明だけでは物事を理解しにくいので、不安になってますます強い口調でまくし立てることになってしまう。更に悪い点としては、その場の主導権を怒鳴る側に明け渡してしまっていることだ。「忙しいのにやっていられない」必ずそういう気持ちがよぎるし、その気持ちが万一態度にあらわれてしまった場合怒りは更にボルテージを上げることになってしまう。
二、批難・批判する
 「何なんですか?何が気に食わないんですか?」と不服な態度で静かに言うような対応は少しやんちゃだったタイプは取りがちかもしれない。しかしこれは直接的に挑発として受け止められてしまう。
 何度も言うように怒鳴る人物は頭が悪いので、伝えたいことが伝わらないときに自分の説明が悪いなんて思わない。なんでわからないんだ!?と怒る一方である。なので基本的に「あなたがなぜそのような態度を取るのか理解できない」というような発言はしない方が良い。こちらとしては不適切な態度を諌めているに過ぎないのだが、相手は「医者に理解できない」と言われたとしか感じない。「なんでお医者さんなのにわからないんだ!?お医者さんならわかるはずじゃないですか!」とますます怒り出すばかりだろう。
三、腫れ物として抱え込む
 専攻医1年目がよくやるような、対応に困り果てて騙し騙しビクビクしながら入院や外来で抱え込む。科の責任者がきっちり沙汰を取ってくれるなら良いが、そんな良い上司ばかりではないのが現実である。せいぜい大変だねとねぎらってくれるだけはないか。
 他の仕事ではこの対応でもいいかもしれないが、医師がこれをしてしまうと、つい診察時間が短くなったり説明が短くなってしまったり、カルテを開くのすら嫌になって見落としが生まれ重大な医療事故や訴訟に巻き込まれてしまうリスクが高くなってしまう。まして怒鳴る人物は裁判好きも多いので、訴訟される前に上手く対応できるに越したことはない。

◯手を取って怒りの階段を共に降りる
 ここまで長くなってしまったが、今自分はこちらも同じ程度のデカい声で「大きい声を出す人と話はしません!もっと小さい声で話しましょう!」と繰り返すことをよくやる。相手の声量と同じくらいの声量をこちらも出し、内容も声を下げようということしか言わない。相手は「それよりも謝ってくださいよ!!」などと言うかもしれないが取り合わずに同じことを繰り返す。そうしていると相手もうっかりトーンを落とすので、すかさず「そうです。そう、ゆっくり、これくらいのトーンで」と言うふうに徐々に声量を下げ追従させる。
 つい駆け上がってしまったエネルギーの階段をこちらも同じように駆け上がってまず追い付くイメージだったりする。追い付いたあとはゆっくり介助するように階段を共に一歩一歩降りていく。そうやってトーンダウンさせた後に初めて「何か嫌な気持ちにさせてしまいましたか?」と聞くと、冷静になって話してくれることが多い。
 このような人は人生で人から嫌われるか喧嘩するばかりだったことが多いので、このような対応は非常に新鮮に受け止めることになる。さらにそこからあえて大げさに「こうやって冷静に教えてくれたので自分も知らないうちにあなたを傷つけていたことに気付けました。大きな声で言われただけではわかりませんでした」と言ってあげる。そうすると、患者は医師のことをよく信頼するようになるし、なにより初めて適切なコミュニケーションの成功体験を積むことになる。そうやって作った信頼関係をベースに、今回の出来事を何度も治療の中で取り扱っていくと、治療が進んでいくことになる。
 また、医師の側からもこのような診療の体験を積んでいくと患者が興奮して怒鳴ることは単なる不快な出来事ではなく、治療が深まるチャンスとして認識することができていく。このようにポジティブな認識を医師が持つようになると、怒鳴る患者にも余裕をもって接することができ、ますます対応が上手になる良い循環に入ることになるのだ。

◯ガチで自分が悪いときはどうするのか
 これまでは理不尽なケースを想定していたが、本当にこちらが悪くて怒らせてしまう場合もあり、セリフが上手く合わない。ただ、この場合も何も変わることは無く同じように相手のボルテージに合わせた声量で「申し訳ありません!!」と謝罪し続け、徐々に一緒にトーンダウンさせていけば良い。

◯普通だと思っていた家族がキレてきた場合
 古来より正義感と暴力性はお互いに抱き合ってキスをする関係にあるようで、知能水準が標準以上であろう家族が怒鳴る場合は患者に対する正義感に由来するのだろう。もしかしたら何かしらの患者に対する罪悪感の裏返しから、医師という権力性にも患者のために果敢に立ち向かっていく姿勢を患者にアピールしているのかもしれない。
 この場合もエネルギー量を合わせて徐々に落とすのは変わらない。違うのは落とした後の褒め方だ。「こんなに本人のことを思ってくれる家族がいるなんて驚いた!」と本人の前で褒めちぎってあげるのだ。医師側もつい失礼な態度をしてしまっていた時には嘘でも例をあげて「医者をやってるとこんなひどい家族ばかりでつい私も荒んでいた。けど貴方がたを見て大事なことを思い出させてもらえた」などと言ってやる。こうするとまた家族も本人も主治医に惚れることになる。医師にこう言われた以上、その家族も熱心に患者を支えることになるだろう。

◯訴訟上不利になるから謝れないのは本当か?
 よく言われるが、これは日本の訴訟文化に馴染まない。そもそも民事訴訟とは紛争解決手段に他ならないのだが、日本では非常に面倒くさいし金もかかるのでよっぽどでないと皆やりたくない。また、今回の全文を通して伝えているように、トラブルがより深刻化していくのは振り上げた拳の下ろし先が無い場合が多い。日本においては、謝ると責任を認めたことになるから謝らないという態度はますます相手を強硬にさせ、いよいよ裁判ではっきりさせて謝らせたいという姿勢を誘発しかねない。
 また医事紛争においてはこのような口頭での言った言わないはあまり問題にならず、カルテ記載のほうが何倍も重要である。さらに言えば、法曹らも謝罪することがただちに責任を全面的に認めることになるなんて思っておらず、「申し訳ない」という言葉が単に興奮する相手との対話の準備を示しているに留まる場合もあることはよく認識している。
 普通の診療をして普通のカルテを書いていれば、ちょろっと謝る姿勢を見せるくらいなんのリスクにもならないはずだ。

◯変わるきっかけを演出してあげること
 とはいえ怒鳴るということは良くないことなのは変わらない。ただ、短くない人生をすでにそうやって生きてきてしまった以上誰かに叱責させられる形で認知を変容させることは難しい。今までの人生はいったい何だったんだという絶望と向き合わないといけなくなるからだ。なので、できるだけでポジティブなエピソードとして演出してあげて「まあ、こういうのも悪くはないか」という言い訳を作ってあげるのだ。
 精神科や精神療法の面白さはこういうところにもある。

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