加納かおり

生粋の野球ファン。高校野球ばかりを見てきましたが、縁あって社会人野球クラブチームのヒス…

加納かおり

生粋の野球ファン。高校野球ばかりを見てきましたが、縁あって社会人野球クラブチームのヒストリーを書くことに。知れば知るほど、野球界をいかに知らなかったのかが見えてきました。プロ野球選手になれるのは一握り。それでも野球を続けたい人たちのリアルを書いています。鹿児島の野球ウグイス嬢。

マガジン

  • 鹿児島ドリームウェーブ球団ヒストリー

    2005年に、イベントをきっかけに誕生した社会人野球チーム『鹿児島ドリームウェーブ』。生まれては消えていく球団が多い中、17年目を迎えた2022年現在も「クラブ日本一」を目標に走り続けています。 そんな鹿児島ドリームウェーブ誕生からの紆余曲折を、いちファンであるライターが綴ります。

  • 鹿児島ドリームウェーブNews!

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最近の記事

球団ヒストリー80.竹山助監督

竹山”前”監督の進退 内川新監督就任の裏で、前監督である竹山徹さんは退団を考えていた。 「だって、前任の監督がいたらやりづらいでしょう?」 こう話す竹山さんは、退団を当然のことと思っていた様子。 やはり気遣いの人だ。 2014年の団結は ところで、竹山さんが監督を務めた2014年、宮崎梅田学園を破って都市対抗二次予選に進出、負けたとはいえ三菱重工長崎に0-1の大熱戦を繰り広げたのは、間違いなく一致団結していたからだ。 2013年末の「もしや解体…?」という不安さえ抱

    • 球団ヒストリー79.出会い、そして

      出会い 2014年5月30日。 それは、都市対抗野球二次予選で訪れた沖縄でのことだった。 当時、鹿児島県野球連盟の理事長も兼務していた鹿児島ドリームウェーブの國本正樹球団代表は、現地で開催された九州地区野球連盟の懇親会に参加。 そこで國本代表の隣に座っておられたのが、のちにドリームウェーブの監督を務めていただくことになる内川義久さんだ。 プレイヤーとして企業チームに所属し、都市対抗や日本選手権に出場。引退後は九州の雄であるHONDA熊本の監督を務めるなど、華々しい野球

      • 球団ヒストリー78.知っていただくこと

        2014年ごろの鹿児島ドリームウェーブについて調べていたら、気になるトピックがいくつかあったので、ご紹介したい。 1.2013年11月末から代表コラム開始 鹿児島ドリームウェーブのHPをくまなく回っていただくと『コミュニティ』というページの下のほうに代表コラム『社会人野球って⁉』のコーナーがある。 私もこのヒストリーを書き始めるとき、一読した。 私は自他ともに認める野球ファン。 甲子園で県代表の試合がある日は「今日は試合だから」と朝から予定を入れずテレビにかじりつくほ

        • 球団ヒストリー77.2014年全日本クラブ選手権

          チーム状態 大エース竹山徹さんが選手兼監督としてチームを率いた2014年。 第85回都市対抗野球大会では1次予選を突破して沖縄での九州地区予選に進出した。初戦では超強豪三菱重工長崎に善戦したものの、敗者復活戦(第二代表トーナメント)で西部ガスに大敗を喫した。 この敗戦がチームに与えた影響は大きく、大会後すぐに「もう辞める」と明言した選手もいたほど。まだシーズン前半が終わっただけにも関わらず。 ※シーズン中の退部は原則認めていない。 ほんの3か月ほど前、あれほどの一体感を

        球団ヒストリー80.竹山助監督

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        記事

          球団ヒストリー76.沖縄、もうひとつの壁

          沖縄大会 沖縄で開催された2014年の第85回都市対抗野球大会九州地区(二次)予選。 戦績については前回の記事で詳しく書いたのでご一読いただきたい。 今回は、この沖縄遠征にまつわる準備のお話をしてみたいと思う。 過去にも経験している二次予選だが、これまでは長崎、宮崎、福岡。 それがこの年は沖縄というリゾートアイランド! 観光に行くわけではないが、やはり気持ちは高ぶる。 しかし、だからこそ立ちはだかる壁があった。 そう、遠征費。 動いた金額は 先にお伝えしてしまうと

          球団ヒストリー76.沖縄、もうひとつの壁

          球団ヒストリー75.都市対抗二次予選、沖縄での挑戦

          第85回都市対抗二次予選の顔ぶれ 2014年。 鹿児島ドリームウェーブは、第85回都市対抗野球大会南九州予選で企業チームである宮崎梅田学園などを倒し、二次予選への切符を手にした。 二次予選には、九州各地の予選を勝ち抜いた12チームが終結。 そうそうたる企業チームが名を連ねる。 ホンダ熊本(熊本・大津町) 三菱重工長崎(長崎市) てるクリニック(那覇市) 九州三菱自動車(福岡市) 熊本ゴールデンラークス(熊本市) 沖縄電力(沖縄・浦添市) 西部ガス(福岡市) ビッグ開発ベ

          球団ヒストリー75.都市対抗二次予選、沖縄での挑戦

          球団ヒストリー74.2014都市対抗予選~ブッちぎりの一体感

          士気の高まり 誰よりも優しく、誰よりも努力家で、誰よりも鹿児島ドリームウェーブを愛する竹山徹さんが、選手兼監督として指揮を執った2014年。 危うく監督不在ともなりそうなチームの窮地を救ってくれた竹山さんの想いを、選手たちもよくわかっていた。 きっと本心では、”監督”を背負うことなく無心でマウンドに立ちたいだろうということも。 だからこそ、チームの士気は高まった! 「竹山さんを勝たせたい」 「竹山さんを胴上げしよう!」 都市対抗のハードル シーズン最初の公式戦は、都

          球団ヒストリー74.2014都市対抗予選~ブッちぎりの一体感

          球団ヒストリー73.竹山監督

          チーム発足時からの大エース 2013年シーズンを終え、末廣昭博さんから監督を引き継いだ竹山徹さん。 その経緯についてはこちらをお読みいただきたい。 このヒストリーを書かせていただくようになり、あちこちに取材のお電話をするのだが、そのたび真っ先にお名前が出るのは常に竹山さんだ。 2005年、立ち上げ当初のメンバーとして入団し、途中何度か退団なさったそうだが毎回呼び戻され、このころには10年目を迎えていたはず。 そして私自身、ヒストリー執筆のおそらく一番早い段階から何度も何

          球団ヒストリー73.竹山監督

          球団ヒストリー72.FM鹿児島でラジオスタート!

          FM鹿児島で放送されている、『フルスイング!鹿児島ドリームウェーブ』というコーナーをご存じだろうか。 2013年にスタートし今年で12年目に突入した、なかなかの長距離走者だ。 現在は『something μ(サムシングミュー)』という番組内のコーナーとして毎週月曜の17:50ごろから放送されている。 背景にある想い ラジオで鹿児島ドリームウェーブをアピールできないだろうか? 球団代表國本正樹さんがそんな想いを抱くには背景がある。 全盛期ほどではないにせよ、野球というス

          球団ヒストリー72.FM鹿児島でラジオスタート!

          球団ヒストリー71.第一工大からの入団が新時代を作った理由

          昨年12月に書いた『球団ヒストリー60.新時代~入団ルートの確立』について、さらにお話を聞くことができたので補足しておきたい。 詳細はリンクから飛んでいただくとして、この記事をざっくりまとめると2013年に大学から新卒での入団が急増し、大幅な戦力アップにつながったということ。 ではなぜ、これが『新時代』なのか。 前出の記事と重複する部分もあるが、ここは大きな分岐点でもあるので今しばらくのおつきあいを。 第一工業大学(現・第一工科大学)との関わり 2013年の大きな変化

          球団ヒストリー71.第一工大からの入団が新時代を作った理由

          球団ヒストリー70.積年の課題、練習場所の確保Ⅱ

          なぜ今、このことについて書くのか? ところで、今になって練習場所の確保について書こうと思ったのはなぜか。 ひとつは、実際に2024年現在のマネージャーさんが練習場の確保に苦心している様子を間近で見ているから。 もうひとつは、『球団ヒストリー67.初の試み、自治体との協定』を取材したときの疑問。なぜ社会人野球クラブチームが、自治体と協定を結ぶ必要があったのか?ということ。 そこには、とにかく練習場所を確保したいという強い願いがあったと知ったからだ。 逆になぜ、今までこの

          球団ヒストリー70.積年の課題、練習場所の確保Ⅱ

          球団ヒストリー69.積年の課題、練習場所の確保Ⅰ

          週末夜の必然 鹿児島ドリームウェーブが正式発足した2006年ごろ(当時のチーム名は鹿児島ホワイトウェーブ)、練習は週末の夜に限られていた。 これには理由がある。 球場が取れない。 クラブチームの特性上、ほぼほぼ全員が仕事との両立をしている。 中には野球優先のためにフリーターという働き方を選択している選手もいたようだし、中には求職活動中の選手もいただろうけれど、それは稀。 全員が別に本業を持ち、休日や終業後の時間を野球に充てているのが実態だ。 となると、全体練習ができる

          球団ヒストリー69.積年の課題、練習場所の確保Ⅰ

          球団ヒストリー68.レジェンドの男気

          「もうやめるか?」 「監督を引き受けてくれる人がいない。もうやめるかな…」 鹿児島市城南町のファミリーレストラン”ガスト”で、球団代表國本正樹さんはそう弱音を吐いた。 そばで聞いていたのは、当時のマネージャー藤崎順子さん。 ふだんはこんな表情を見せることはないが、このときばかりは國本代表も意気消沈していた。 末廣監督の退団は早々に決まっているのに、後任となる監督の糸口さえも見つかっていなかったからだ。 そもそも飲み友だちだった順子マネに、「俺もうどうしていいか分からな

          球団ヒストリー68.レジェンドの男気

          球団ヒストリー67.初の試み、自治体との協定締結

          2013年、当時の本拠地ともいうべき伊集院球場を持つ鹿児島県日置市と、ある協定を結んだ。 『スポーツによる元気で健康なまちづくりの推進に関する協定』だ。 このことについては、さきの記事で少しだけ触れた。 背景 社会人野球クラブチームと自治体が、協定? 正直なところ、スポーツをただ好きで見ているだけだった私には、なぜそんな必要があるのか理由が分からなかった。 実は、その背景にあるのは練習場の確保という積年の課題。 鹿児島ドリームウェーブは、専用の練習グラウンドを持っ

          球団ヒストリー67.初の試み、自治体との協定締結

          球団ヒストリー66.混迷を極めた監督人事

          熱意の大功労者 2007年、初代監督の鵜狩道夫さんが急に退任されたことにより、思いがけず監督に就任した末廣昭博さん。 コーチを引き受ける予定でチームに合流した矢先のことだった。 末廣さんは、以前鹿児島にあった社会人野球チーム『鹿児島鉄道管理局野球部』に所属していた。国鉄の分割民営化に伴い1987年(昭和62年)に廃部となったが、当時は鹿児島唯一の社会人チーム。 つまり社会人野球の厳しさをイヤというほどご存じの上で、野球への熱意をずっと持ち続けている方だ。 その丁寧な指導

          球団ヒストリー66.混迷を極めた監督人事

          球団ヒストリー65.“新時代”サイドストーリー

          就職斡旋が軌道に乗り、また大学からの入団ルートが確立された2013年。 それにより戦力が増強され、公式戦で人数が足りないなんて心配もほぼなくなった。 この年の目標は、2012年に果たせなかった全国での一勝。 しかし、予想に反して戦績は振るわなかった。 公式戦は3試合のみ、1勝2敗。 これについては、『球団ヒストリー61.動物園⁉』に詳しく書いてあるので読んでいただけたら嬉しい。 しかし2013年は、戦績以外のところでこれまでとは違う動きがいくつもあった。 海外プロ野球チ

          球団ヒストリー65.“新時代”サイドストーリー