球団ヒストリー66.混迷を極めた監督人事
熱意の大功労者
2007年、初代監督の鵜狩道夫さんが急に退任されたことにより、思いがけず監督に就任した末廣昭博さん。
コーチを引き受ける予定でチームに合流した矢先のことだった。
末廣さんは、以前鹿児島にあった社会人野球チーム『鹿児島鉄道管理局野球部』に所属していた。国鉄の分割民営化に伴い1987年(昭和62年)に廃部となったが、当時は鹿児島唯一の社会人チーム。
つまり社会人野球の厳しさをイヤというほどご存じの上で、野球への熱意をずっと持ち続けている方だ。
その丁寧な指導には厚い厚い信頼があり、甲子園常連だった強豪鹿児島商業高校でもコーチ経験が。
そのつながりで鹿児島商業の室内練習場を貸していただくなど、練習環境の向上にも一役買ってくださった。
当時まだまだ弱小で練習場所の確保に苦心していた鹿児島ドリームウェーブ(当時はホワイトウェーブ)。
まして雨なんか降ったらただでさえ少ない練習が中止になってしまうような状況だったわけだから、感謝してもしきれない。
また縁のあるお子さんを無償で練習に参加させるなど、野球少年の育成にも熱心だった。
末廣元監督の野球愛が伝わるエピソードだ。
実に7年もの間、この走り出したばかりの球団を支え、見守り、引っ張ってくださった大功労者。
しかも無償、なんなら自腹を切ってまで。
そのあたりのことは、球団ヒストリー62『監督という重責』で詳しく書いたのでお読みいただけたら嬉しい。
門前払い
全国大会に出場した2012年をもって退団を申し出た末廣元監督。送別会も行った。
ところが後任が決まらず、あと一年ということに。
しかしこの後任人事が混迷を極めた。
「監督を引き受けてくれる人がいないだろうか」
國本正樹球団代表は思いつく限りの野球関係者に声を掛けて紹介を頼んだが、見つからない。
見つかるどころか、そもそも会うことも電話で話すことすらできない。
門前払いが続いた。
ほんの1,2人電話がつながっても、詳しい話になる前に断られる。
「何人に相談したかもう覚えてないけど、とにかく電話をかけまくった」にもかかわらず、成果はゼロ。
それはそうだ。
完全ボランティア、交通費すら出ない。
2013年ごろの練習スケジュールを見ると、多いときは週に5回の練習がある。
ほぼ毎回、鹿児島県日置市の伊集院球場だ。
鹿児島市内中心部から車で30分ほどかかる。平日19時からおそらく22時ごろまでの練習。帰宅はかなり遅くなる。
監督ともなると「先に帰るぞ」と気軽に言うこともできないだろう。
しかも、全国に行ったチーム。
週末だけの練習で和気藹々としていたころとはだんだん雰囲気も変わり、いわゆる”ガチ”めのチームに変貌してきている。
監督のプレッシャーも、経済的そして時間的負担も大きい。
正直、引き受けてくださる方はよっぽどの物好きか、ものすごい男気のある人か。
後任未定のまま
この年は戦績が奮わず、公式戦はたったの3試合しかできなかった。
つまり全日本クラブ野球選手権大会九州地区予選の敗退により、なんと8月前半には早々にこのシーズンが終了してしまったことになる。なんならシーズン真っ盛りでもおかしくないのに。
末廣監督はこの大会をもって退任。
いまだ後任が見つかっていないにもかかわらず。
しかし、チームは動いている!
全国を目指している!!
とにかく監督を見つけなければならない。
救世主
そんなときに救世主が現れた。
チーム創設時から大エースとして君臨し、2013年にはコーチも兼任していた竹山徹さん。
実は前回の記事『球団ヒストリー65.転機』にもちらりと新聞記事で紹介している。
正式に監督就任のオファーをすべく、竹山さんの住む指宿まで足を運んだ國本代表。
酒を酌み交わしながら、「僕でよければ」と竹山さんは快く引き受けてくださったそうだ。
「おそらく選手たちからも『竹山さん、やらないんですか?』という声はあったと思います」と國本代表がおっしゃるので、ある意味では自然な流れであったのかもしれない。
とはいえ投手としてもまだまだ大黒柱。
引退するわけにはいかない。
こうして、選手兼監督として、レジェンド竹山徹さんが就任する運びとなった。