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84.現実への耐え難い違和感(大人の中二病)

現実崩壊が起きた時、感じていたのは、何とも言えない息苦しさでした。
自分のそれまでの生き方に、もう我慢ができなくなっていたのです。

それは、ある日、会社が社会の縮図だと気づいたことがきっかけでした。

仕組みを作る側と従う側には、大きく隔たりがあり、どうやら、私は仕組みを作る側にはいけないようでした。
そして、私が従うしかないその仕組みは、繰り返すほど、物や人が使い捨てられていくことに気づきました。

使い捨てられるものは、仕方がない?使い捨てられる人は、運が悪い?
使い捨てられたのは、私の尊敬していた先輩や、かわいい後輩たち。
「そもそも、仕組みがおかしいのでは?」
そう思い始めると止まりませんでした。

誰かが犠牲になり続けることで、成り立つ仕組みを維持すれば、お給料がもらえ、ある一定の「安定」を得られました。
でも、「幸せ」じゃないのは、なぜ?

犠牲になる人がいることに気づいたことで、自分も、その立場に追いやられる「恐怖」を無視できなくなったから。もっともっと何かを得ないといけないという「飢え」が「競争」を生み出したけれど、何をしても「満足」ができない。本当は、物やお金が欲しかったのではなく、「安心感」が欲しかっただけ。自分の時間、人生の喜びを人質に取られているようでした。

仕組みを変えようと手を尽くしますが、あることに気づいて絶望しました。
仕組みを作る側は、この仕組みの問題点なんて、すでに気づいている。
「そもそも、仕組みを変える気なんてないんだ。」

これまで、信じていた社会というものの建前がガラガラと崩れ去りました。

仕組みを守ることが、「大人になること」だと教わりました。
「社会のため」「人のため」「家族のため」と言い聞かせ、自分のなけなしの権利を必死で守るために、魂を売り渡す「大人」たちに、違和感を覚えるようになってしまいました。彼らの瞳の奥は、悲しく濁って見えます。

彼らは、自分の考えを周りの人にも強要し、同じ考えの人を仲間にすることで「安心感」を得ようとしているようでした(同調圧力)。
それでも、消えない「恐怖」は、いじめやハラスメントという弱者への暴力で、ごまかしていました。自分が強者であると確認するための暴力は、「自分は、まだ、犠牲者側の人間ではない」という一時的な「安心感」を得られ、中毒性が高いものです。

犠牲者としての役割を引き受けることも、仕組みを作る側の人間になることもできなかった、中途半端な私。

苦しむ人、割を食う人が生まれる仕組みを、「仕方がない」と受けいれ、その仕組みを維持することに自分自身が苦しみ、その苦しみの対価として、お給料をもらうことに、耐えられなくなりました。

自作自演の偽善者に思えたのです。

もしかしたら、私は、いい大人になって「中二病」になったのかもしれません。

I love you.

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