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#16視点の転換「私は一人ぼっちじゃない」どんな環境でも捉え方を変えれば笑える空間になるという体験。一人ぼっち感を感じるあなたに届け(貧困幼少期からNPO代表理事までを100日で振り返る)

先生に疑われた体験をつづった前回。

自分にとって先生は大好きな存在でしたが、自分を理解してくれているのだと思い込んでいた分、何とも言えない悲しみから先生に関わる事をさけるようになりました。先生に見てほしい・褒められたいといった承認願望はなくなり、先生が異動するまでなんとなく過ごす様になりました。

お金を諦めて、この寂しさを埋めてもらおう!

お留守番で100円を貰う暮らしの中で、寂しいを言えない環境。

部屋で一人ぼっちでテレビ見ていも、寂しいなぁ・・・。

テレビが面白くて、一瞬笑うこともあるのですが、自分の笑い声が部屋に反響した時に、何とも言えない気持ちになって気持ちが瞬時に冷えます。

静かな中で自分の声が、より孤独感を増すのです。

その中で私は考えるわけです。

(そもそも私が100円を留守番として受け取っているから、言えないわけで、受取らなければいいんや!)

ーーー
その夜
ーーー
「お母さん!」(勢いづけて話さないと母は話聞いてくれる余裕がありません)
『何?』
「私な、もう100円いらんから、お母さんに家にいてほしいねん。」
『・・なんでなん?』
「・・さみしいねん。一人で家にいるのも・・」

権利と義務がバランスるならば、私の交渉は受け入れられるはず!

『お母さん、仕事は辞められへん』

母の一言は自身の想像と違いました・・

「なんでなん?!前みたいに働いて、家にいてくれるとかじゃあかんの?」

『お母さんな、パートで働く事は割が合わないから、もうしたくないねん。時給で働くのは、あほみたいやから、正社員で働いていたいねん。全然ちゃうねんで』

「何が違うの?」

『お金も違うし、ホケンとかもやで』

「ホケンって何?」

『あんたには、まだわからんと思うわ。ただ、前みたいなんは、お母さんもうしたくないねん。』

母はホントに赤裸々な人でした。大人になったときにこの時の保険は、社会保険の事だったのだと理解しました。

今までは権利と義務がバランスしていたのに、権利を放棄しても義務が消えませんでした。

想像と全然違う現実になんで!?と喪失感を味わうのですが、母がここで人生の転機となる視点を教えてくれます。

『あんた、一人で怖い言うけどな、全然一人ちゃうやん?』

「どういうこと??」

『隣のおっさんもやけど、隣の家にもいっぱい人いるしな、上のおばあさんは音があるところずっと叩いてきはるやろ?一緒にいるようなもんやん。』

だからあんたは一人じゃないねんで』

我が家の強烈な隣人と上下の居住者の構成はこちら・・・

両隣・・
・80代の女性が炊事をし、10人ほどが住む家(異様なほどに狭い部屋に出たり入ったりして過ごす人たち・犬を飼っている)
・ヤクザ(異様なほどに音を立てる人)

真上
・視覚障がい者の女性と介護者の女性(音が発生するところをひたすら小突きつづける 深夜問わず、冷蔵庫のモーターなどに反応し続けるタフさ)
・70弱の一人暮らしの男性(音が発生するところを時々小突く人 猫を飼っている)

我が家から洗濯機・冷蔵庫・お風呂が使えなくなったエピソードはこちら

今思うとそれっていいのか?という強烈な発想なのですが、自分の部屋には誰もいないけれど、壁の向こう側に住む人などの存在を通じて一人ぼっちじゃないと教えてくれたのです。

最初私は意味が分からないと思っていたのですが、確かに上のおばあさんはずーーーーっとコンコンコンコンと天井から音を発生させていたし、下のおじいさんもいつからか床を小突くようになっていたので、あぁ確かに一人ぼっちじゃないと納得したのです。隣のヤクザも帰ってくると異様なほど音を立てていました。

意地悪な騒音が、皮肉にも自分を一人じゃないと感じさせてくれたのです。

この時に誰かと一緒にいないといけない自分じゃなくて、壁の向こうには誰かがいるんだという安心感から、一人遊びが苦手じゃなくなり、留守番も楽しくできるようになりました。

壁の向こうに人がいて、それぞれの人が自分の人生を生きているのだと思うと妙に何とも言えない安心感があったのです。シルバニアファミリーのようなそれぞれの家の暮らしの想像をしていました。

シルバニアファミリー公式サイトより

そう考えられるとどこでも楽しいので、長期休みは祖母の家で過ごしていたのですが、その際にも目の前のマンションを「おばあちゃん、あの家一部屋一部屋に物語があってな、もしかしたらな、今この瞬間に離婚しようとしているかもしれへんし、笑っているかもしれへんし、泣いてるかもしれへんねんで。面白いね」と言って祖母がそれに共感してくれると思ったのですが、『いってることが、ようわからへん。けったいな(変な)事を言う子やなぁ』とちょっと眉間に皺を寄せて苦笑いしていました。

理不尽を暮らしから学んでいたのですが、例え周りから見て可哀そうな状況であっても、自分は楽しく過ごせるようになれる事を知りました。

親戚は小さい子を一人で留守番なんてかわいそうと母に言っていましたが、自分の本心から「いや、留守番大丈夫!」と答えられるようになったのはこの時。ただ私の本音は、親戚の思い込みで母のために健気に留守番を頑張る子として捻じ曲げて受け取られていました(笑)

お金も貰えるし、楽しく過ごせるしいいやぁとなったときです。

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ささいなことで人生は変わると信じています。
それは、人生の大きな決断の手前にあるキッカケになるのではないかと。節目を思い出すと決断の前には、ささいなキッカケがあったからです。見て下さったあなたの何かのキッカケになればと思って綴っています。
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