そろそろ本当を見抜く力を身につけませんか?洞察力アップで正邪を見破る方法を①

こちらは続編としてどんどん更新していきます!マガジンにしていきますので1つ読み終わったら次をお読み下さい(^^)


ー「見たい」という欲求を大事にしようー

人の5つの感覚-「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」は、
「考える」という人間的営みの入り口です。

特に、『 視覚=見る』 は人間の思考を大きく左右しています。

自分の目の前にモノやコトが入ってきたとき、あなたが生理現象として、ただ「見える」で終わってしまうか、
それとも、なんらかの意図をもって「見る」姿勢をもつか…。

また、モノやコトに対して「見たい」と思えるか。
この差が知的な意味で、自分の「血や肉」になるかどうか決まります。

ただ、「見えるだけ」…
モノやコトが網膜に映ったまま放っておくだけだと、その像は瞬く間に消えてしまいます。

見て、感じて、考えて、そこからモノやコトの本質を見抜くことによって、新しい自分の発見や進歩が生み出されるのです。

・現実を見る
・実物を見る
・本物を見る


これが、第一歩です。

一流の「見る眼」は、一流人生の必須条件です。
そのためには、「見るべきものを、きちんとした見方で見る」という姿勢を忘れれてはいけません。

「禽獣は食らい、人間は食べる。教養のある人間にしてはじめて食べ方を知る」


フランスの法律家ブリア・サヴァランの食に関する名著『美味礼賛』の一節ですが、
この
「食らい」を「見える」
「食べる」を「見る」
「食べ方」を「見方」
と置き換えてみれば、わかりやすいかもしれません。

できる人は、モノやコトの見方を知っています。
できる人には、なにごとにつけ「本当を見抜く眼力」が備わっているのです。

私自身、「見たい」「聞きたい」「試したい」という好奇心がいまも旺盛です。
それに好奇心がなくなったら、自分の進歩はないと思っています。

映画館、劇場、美術館、コンサート会場もだし、新しい街や店にしばしば足を運びます。
行ったことのない国内外の地域への旅なども大好きです。
次々と自分がこれまで見たことのないよものを「見たい」「観たい」という願望が湧いてきます。

人付き合いでも同様です。

私は面白そうな人のうわさを聞けば、「会いたい」「見たい」「話したい」という好奇心に駆られて、なんとかそれを実現しようとします笑。
私はいままでそうやって生きてきました。
この抑えられないくらいの欲求が、私の進化を支えてきたといっても過言ではないでしょう。

だから、何事にも受け身で「見たい」「観たい」という意欲が希薄な人には、私は魅力を感じません。

そんな私だから、先のサラヴァンのもう一つの言葉に強い共感を覚えるのです。

「あなたが普段どんなものを食べているのか言ってごらんなさい。あなたがどんな人であるかを言い立てて見せましょう」

この言葉を私流にアレンジしちゃうと、

「あなたが『何を』『どんなふうに』見てきたか言ってごらんなさい。あなたがどんな人であるかを言い当てて見せましょう」

食べることと同様に、楽しく、かつ知的で前向きな人生を送ろうと思うなら、「何を、どんなふうに見るか」はとても重要なポイントです。
最低限のカロリーを胃袋に取り入れるだけの人生は、文字通り、無味乾燥だからです。

食事を味わって、楽しんで、心身の栄養にすることと同様に、自分の眼に何を映して、その像から何を導き出すかが、自分の人生の質を高めることにつながるのではないでしょうか。

何が言いたいかというと、「それは何か?」「それはなぜか?」という「本当」を求める視線が必要だということです。

ただ、モノやコトが頭のスクリーンに映ったままにしておくのではなく、その像に自分の眼の焦点をきちんと合わせて、フィルターを機能させ、頭に取り込み、「咀嚼」して、「消化」して、「吸収」できるか。

それが出来れば、自分にとって「本当が芽生えてくるでしょう。


いつも視界が開けているか?

①「見る」と「見える」はまったく違う

そう見えるだけかもしれないのですが、いつも「ぼーっと」している人がいます。

反応が鈍いので、せっかちな私としては、こういう人といると少しイライラしてしまいます。

だから仕事を一緒にやるのはご遠慮させていただいています。

人の五感は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。どれも欠けても困る機能ですが、人が生きていくうえで、視覚はもっとも重要な機能といえるかもしれません。

あくまでも個人の意見ですが、聴覚に難がある人でも、視覚が機能すれば、読唇や筆談などでコミュニケーションは可能ですし、読書やネット検索、スポーツや芸術の鑑賞など、自分のまわりの世界を広げることができます。

もちろん、視覚に難がある人でも、その他の感覚を研ぎ澄ませて人並み以上のことを成し遂げている人がいるのも事実ですよ。

「見る」「観る」「診る」「看る」「視る」-。

「みる」という言葉ひとつでも、日本語には多くの漢字が使われています。英語でも「look」「see」「watch」と異なりますね。

それぞれ「何を対象に、どうみるか」によって使い分けられています。

それだけ、人間は視覚をとおして複雑で繊細な行為を行っているということです。

けど、悲しいことに、誰にでも平等に与えられた人生の時間なのに、人によっては、ただ「みる」時間だけが大きな役割を占めている場合があります。

「はじめに」でも述べましたが、それは「見て感じる、見て考える、見て理解する」ことを怠っているということになります。

そんな人たちにとっては、重要な事柄に対しても「見る」という主体的な行為ではなく、「見える」という生理現象で終わってしまっています。

言葉をいい変えれば「網膜に映ってる」だけなのです。ただ、「ボーっ」と見えているに過ぎません。重要な情報でも瞬時に消えてしまいます。

例えば、休暇中に海辺で砂浜に寝そべり空を眺めるというなら、ボーっとするのも良いと思います。

しかし日ごろは、「見て感じる、見て考える、見て理解する」クセを付けておくことで、仕事のヒントも含めて物事への理解が深まり、想像力が広がると思います。それに、何より新しい発見があったりして楽しいではありませんか。

興味深い話を聴いたことがあります。元プロ野球セントラルリーグの審判員・篠宮慎一氏の話なのですが、審判員の知られざる苦労話や選手の興味深い素顔を綴ったエッセイ、「誰も知らないプロ野球「審判」というお仕事」の著者であります。

「われわれの仕事は眼が命。だから、新幹線での遠征移動のときも、ボーっとしているわけにはいきません。途中の通過駅では、ホームの駅名表示板を読み取る訓練をしていた。動体視力の衰えは死活問題ですからね。」

だが、篠宮さんは持病の腰痛が悪化し、審判員を辞めざるを得なくなります。そんな彼がサラリーマン生活を始めるころのこと。出張で新幹線に乗ったのですが、通過する表示板の駅名が全く読めなくなっていることに気が付くのです。

読もうとする意志、読まなくてはならないという強迫感がなくなれば、自ずとモノをとらえる力にも影響力が出るということなんでしょう。

こうした篠宮さんのような鍛錬は、動体視力の質を求められるモータースポーツのレーサーや野球線なども行っています。要は、モノをはっきり見ようとする意識が、視力の向上に好印象を与えるということでしょう。

アスリートや特殊な職業以外の人にも、何かを凝視しようとするこの姿勢は大切ことです。つねに「鵜の目鷹の目」でいろとは言いませんが、ふと気になった人の行動や現象に対して、実際の目と心の目で、意識的にじっくりと観察して考えてみる時間をもちたいです。

視覚の対象が何であるかは人それぞれですが、ただ網膜に映ったまま放置しておくのではなく、「見て感じる、見て考える、見て理解する=見つめる」クセをつけておいたほうが、間違いなく役に立ちます。

「ボーっと」しているは、「忘っと」している、かもしれませんね。

続く・・・





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