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生きることと死ぬこと

ちょうど3年前の今日、奄美大島出身のひとりの唄者が死んだ。その時の日記をここに載せたいと思う。

2017年12月14日

何のことだろうと思って訊いて聞いてみたら、僕が昔一度だけ会ったことがある唄者のことだった。昔たった一度会っただけの人のことなのに、不覚にもその唄者の弟子の前で泣いてしまった。みっともない姿を晒してしまった。最近、死に対して敏感になりすぎてしようがない。ちょうど「天寿」という言葉を調べていた直後だったからなのかもしれない。

天寿

天とは神のことで「神から授かった命」ということだとずっと思っていた。勿論そういう意味もあるのかもしれないが、天とは「天」そのもののことで、大自然に生かされてる命という意味だそうだ。

なるほど、僕たちはこの大地でこの森でこの海でこの風を受けこのティダを浴びこの樹に抱かれ、そしてこの島に生かされている。それは、この島が出来た時から、そしてこれからも永遠に続いていくだろう。僕たちはここで「生かされて」いるのだ。

この島に帰ってもう2年になる。一度島を離れ、そして島に戻って初めてこの島の大自然を実感する。この島の自然は素晴らしい。最近つくづく思うことは、今僕たちがこうして生きていることは、実はとても「すごいこと」なんじゃないかということ。「生きていること自体がすごいこと」なんだということだ。

仕事柄、ありがたいことに沢山のお年寄りの方々と接している。この島のうっちゅたちはみんな元気で凜としている。この人たちは本当に島の宝物だと思う。

その一方で、僕の同窓やたくさんの友が死んでいった。自殺で死んだ友もいる。なぜ自分の命を自分で絶たなければいけないのか、僕には理解できない。僕は自殺をした友に対して悲しみという感情は一切ない。そこにあるのは激しい憤りだけだ。勇気をもって更にいうならば、「他人を殺す」ことよりも「自殺」は罪が深いとさえ思う。自殺者の心の闇は僕にはわからない。いや、わかろうとも思わない。大自然に生かされているこの「命」は、またこの「大地」に還るべきなのに。

僕たちは「生かされている」からこそ「生きていける」

僕たちは大自然に背いてはならない


唄者

その唄者に会ったのは、2000年代に入ってすぐの頃だったと思う。ちょうど「中孝介」や「元ちとせ」がデビューして、にわかに奄美大島が注目され始めた頃だった。都内でも奄美関連のたくさんのイベントや催物が開催されていた。故郷から遠のいていた僕も何回かそこに足を運んだことがある。そのいくつかの会場で、僕はその唄者の弟子たちの何人かと知りあいにもなった。

その唄者本人と会ったのが何のイベントだったのかはもう覚えていない。もちろんその時が初対面だった。でも、僕が龍郷出身だということを知り、その唄者は人懐っこい笑顔で僕に話しかけてきた。話の中に共通の知人が出てきてビックリしたり、でもさすがに唄者の話術は素晴らしく楽しくて面白かった。

あの笑顔はもうこの世には存在しない。

あなたはちゃんと大自然に還ったんですね。

天寿を全うしたんですね。

奄美の大自然に還ったんですね。

奄美の大自然はすごいと思う

そして、そこで生かされている僕たちは生きているだけですごいことだと思う。


強さと美しさ

朝仁のコンビニの奥の山に、この時期クリスマスからお正月にかけてド派手なイルミネーションが飾られる。僕はそれを見るたびに嫌な気持ちになる。あれを美しいなんて一度も思ったことがない。この島にはこんな素晴らしい大自然があるのに、何であんな人工的な光が必要なのだろうか。あんな物は、自然の少ない大都会でこそ見応えがあるのに。いや、東京のイルミネーションもあんまり好きじゃないけどね。

キラキラ輝く宝石を見て、一度も美しいなんて思ったことがない。人間の命ほどこの世で美しいものはないと思う。その美しさは歳をとればとるほど輝きを増す。僕たちは生きている。生かされている。しかし、僕たちはまだ輝く前の原石のままなのだ。自ら輝く努力をしなければならない。少しずつでもいいから輝かなければならない。

以前にも書いたことがあるが、美しさとは強さであり、強さとは優しさだと思う。

自分を愛せないと他人なんか愛せない。痛みを知らなければ他人の痛みなんかわからないし、人に優しくなんかなれない。強くなければ優しくなれない。決して腕力の強さではない。腕力なんてなくていい。「自分を愛する強さ」。自分を愛する強さを持っていれば、人を愛せて人の痛みを知ることができる。優しくもなれる。そして美しい輝きを放つことができる。

美しさとは強さであり、強さとは優しさだ。

そして、この世で一番美しいものは人の命だ。

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