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田中一村の愛した峠 @47

学校が名瀬にあったので、高校時代は龍郷からバスに乗って本茶峠を越えなければならなかった。バスの中ではだいたいウトウトしているのだが、峠の頂上辺りに近づくと耳の奥がキーンとなって、僕はその不快感で目を覚ます。窓の外を眺めると、山の遥か彼方には広大な海が見えた。

こんな狭くて何もない島から早く抜け出したかった。あの海の向こうにある世界に今すぐにでも行きたい。峠を越えるバスの中で、耳の違和感を気にしながらいつもそう思っていた。この島が嫌いでしようがなかった。

高三の時に原付免許をとると、バスではなくバイクで峠を越えていた。その頃はヘルメットなんて被らなかったので、峠の風を直に顔に受ける。山沿いの木々や景色を楽しむ余裕もなく、ただ顔や体中で受ける峠の風だけが心地よかった。



本茶峠を下ると、そこには田中一村が19年間暮らした村がある。この島に惹かれ、えかきの終焉の地として一村がここに来たのが1958年、50才の時だった。大熊の紬工場で染色工として働き、ある程度お金が貯まると絵を描くことだけに専念する暮らしをつづけていた。

毎朝、本茶峠の散策に行くのが彼の日課だった。そこでクワズイモや芭蕉やヘゴの木を写生し、そして有屋の家でこの島の風景に色をつけていた。

この島を愛していた一村、しかし彼の絵からは悲しみしか聞こえてこない。この島をこの海をこの木々をこの鳥たちを愛していたはずなのに、彼の描く奄美大島は苦悩に満ちている。アダンの実とアカショウビンの細かすぎる描写や、夕焼け色からは狂気すら感じられるのだ。それは、この島の重く暗い血塗られた歴史とよく似ている。その400年の歴史を知らないはずの一村が、19年という短い時間で奄美大島という大きな悲しみをこんなにも克明に表現している。一村の19年の悲しみは、この島の400年分の悲しみなのだと思う。



本茶峠には今はもうトンネルが開通しているので、あの頃バスやバイクで越えた峠の道は、めったに車の通らない寂れた旧道になっている。
 

あのとき一村が歩いた本茶峠を、僕は龍郷側から逆にたどってゆくことにした。大嫌いだったこの場所を、あの日と同じ道のりでたどっていく。あの日の僕はもういないが、あのときの一村ももういないが、あの日の自分とあのときの君を探しながら峠を歩いてゆく。

寂れた道沿いの山肌には、いたる所に岩清水が湧いていて、それが沢や小さな滝となって道の下に流れ出ていた。濡れた岩に生えた緑の苔が水の反射で光っている。

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見たこともない白い花が咲いていた。調べてみたら「センニンソウ」というらしい。痩果という硬い果実につく白い綿状のものが、仙人の髭に似ていることから「仙人草」になったそうだ。そして、このセンニンソウは有毒性のため馬や牛は決して食べないので、別名「ウマクワズ」と言われている。食えない芋の「クワズイモ」があるが、馬が食わないウマクワズもあるとは驚きだ。

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そしてそのクワズイモや芭蕉や真っ白なテッポウユリが、山の斜面やガードレール下の崖のあちこちに自生している。ヒカゲヘゴは住用や宇検ほどの巨大なものは少ないが、それでもその立ち姿は圧巻だ。

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色鮮やかなルリカケスが、見た目に似合わない鳴き声で「ガァー、ガァー」と叫んだ。もうすぐ頂上だが、あの日の不快な耳鳴りがしない。長い年月を経て酸素の濃度が変わったのか、それとも僕の体質が変わったのだろうか。

山々の向こうの海は変わらずそこにあり大きかった。高校を卒業して大嫌いだったこの島を捨て、僕は恋い焦がれたあの海の向こう側へ行った。向こうの世界は思った通り何でもあり望むものは何でも叶い、夢のような世界だった。しかし・・そこはただそれだけの世界だった。



一村はそんな海の向こう側からやってきた。何でもある夢の世界から何にもないこんなちっぽけな島にやってきた。でも君は知っていた。すべてのものはこの地にあることを、それは自身の小宇宙にあることを。そして君は知っていた。あの日の僕を君は知っていた。小宇宙に気づかない僕を君は知っていた。

でも僕はまだ君のことを知らない。ただ峠の向こうから君の息遣いが聞こえるだけだ。はぁ、はぁ、と、苦しいのか悲しいのかわからない、それでも君の荒々しいその息遣いだけが聞こえてくるんだ。一村、君はこんなちっぽけで何もない島に来て幸せでしたか。



田中一村が知人に宛てた手紙がある。

その時折角心に芽生えた真実の絵の芽を涙をのんで自らふみにじりました。その後真実の芽はついに出ず、それがやっと最近六ヵ年の苦闘によって再び芽ぶき昨年の秋頃から私の軌道もはっきりして来ました。・・・・この軌道を進むことは絶対素人の趣味なんかに妥協せず自分の良心が満足するまで練りぬく事です。
- 昭和34年3月 -
私がこの南の島へ来ているのは歓呼の声に送られて来ているのでもなければ人生修行や絵の勉強に来ているでもありません。私のえかきとしての生涯の最後を飾る絵をかく為に来ていることがはっきりとしました。
- 昭和34年3月 -
私は紬染色工として働いています。有数の熟練工として日給四百五十円也、まことに零細ですが、それでも昭和四十二年の夏まで働けば三年間の生活費と絵具代が捻出できると思われます。そして私のえかきとしての最終を飾る立派な絵をかきたいと考えています。工場は海辺の小部落にあり、空気は清澄然し夏の工場内は地獄の釜の如く蒸し暑く海岸には真黒な南の鷺が餌を漁り断崖には奇異の植物あり南国情趣豊かです。
- 昭和37年12月 -
えかきは我儘勝手に描くところにえかきの値打ちがあるので、もし御客様の鼻息を窺って描くようになったときはそれは生活の為の奴隷に轉落したものと信じます。
- 昭和40年 -
私の絵の最終決定版の絵がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、絵の正道であるとも邪道であるとも何とも批評されても私は満足なのです。それを見せるために描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから・・・・・
- 昭和43年 -



一村が本茶峠で写生をしている姿を書いた、こんな文献を見つけた。

「運転手さん、あのおじいさんは誰ですか」
奄美大島の本茶峠を走るバスの中で、登校中の高校生が尋ねました。同じ時間に同じ場所を、時には立ち止まり、時にはきょろきょろと周りを見回しながら毎日歩いているおじいさんが、気になっていたのです。
「千葉から来た、ちょっと変わった絵描きらしいよ。」
バスの運転手は、あまり興味がないような口調で答えました。それを聞きながら高校生が目で追ったおじいさんの姿は、まるで何かを探し求めているようでした。
そのおじいさんの正体こそ「孤高の日本画家、田中一村」でした。この時、一村は名瀬市の有屋というところに住み、大熊にある大島紬の工場で、染色工として働いていたのです。



そして、亡くなった時の様子がこのように綴られている。

1997年(昭和52年)9月11日、一村は夕食の準備中に心不全で倒れ、69才でこの世を去りました。亡くなったときの様子は、四畳半の部屋にうつ伏せに倒れ、左手は胸に当てられていました。かすかに下唇をかんだ表情のあとが残っていましたが、苦しんだ様子もなく、端整な顔には安らかさが漂っていました。奄美の豊かな自然に包まれたような、穏やかな最期でした。



僕が高校生の時、君はもうこの地にはいなかった。でも、あの日もしかしたら僕は君を見ていたのかもしれない。峠で必死に何かを探し、何かを求め、さまよっている君の姿を僕は見ていたのかもしれない。まどろんだバスの中で不快な耳の奥を気にしながら、海の向こうの遥か彼方ではなく、僕は君のことを見ていたのかもしれない。バイクで峠を越える時、風にのった君の息遣いを聞いていたのかもしれない。顔にあたる風が気持ちよかったのは、探し求めていたものが見つかったと歓喜する君の声が風にのって僕の耳に入ってきたからかもしれない。


葉桜になった桜並木を抜けて、峠の頂上にたどり着いた。一気にあの日の濃度になった酸素が耳の奥ではじけた。頂には反対側の峠から歩いてきた僕が待っていた。
 

やぁ一村、やっと会えたね。




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