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ふつうの人を行動力のなさによって定義できる可能性について勇気だして考えてみた

社会人になってから特に押し付けがましく聞こえる・聞かされるワードに「ふつう」がある。

……って思いません?

無知の恥 〜ふつうはそんなことしないよね

しきたりとか決まり事とか、慣習とか規約とか、場合によってはオフィシャルだったりローカルだったりするフォーマルな言動や所作ってものがあって、そういうことに無知でいると恥ずかしいんだよ、なんてたしなめられたりして。いい大人がさ、なんて付け加えられたりもして。

ふつうはそんなことしないよね

なんてことを言われて、無知な自分を思い知らされる。自分が知らないということを知っている、といった「無知の知」なんてあったもんじゃありません。自覚させられ、反省を強いられてしまうんじゃあ、むしろ知らないでいたことで恥ずかしくなる──「無知の恥」(「無知の知」と同様に “むちのち” と読むのがミソです笑)の醜態を晒すことになりかねません。

どうしてこんなことから記事を書き始めたのかと言うと、12/28にこんなエピソードがあったからです。

ワイはつねづね学者が書く専門書よりも市井の人間から「生きた知恵ある言葉」を聞きとれるものと信じているのですが、上のツイートで紹介している言葉はまさに示唆を含むところの大きいものだったのです。

(ツイートの注釈として、「」と書いてあるのはワイの血縁上の妹ではありません。その正体は刃物でもって御髪を整える職能を具えた巫女であり、血縁上に兄を持つ一人の女性でもあるといった二点から、便宜上または本質上「妹」と表記してあります。ここには「妹の力」に関する暗意もあり、民俗学者である柳田國男の残した『妹の力』からの影響があることを断っておきます。)

ふつうならそうしないけど自分ならそうする

それではいったいどんな示唆があったのかと言うと、その妹がわたしたちを取り仕切る「ふつう」なる概念を、〈行動力〉という言葉で定義できることを示唆していた、ということでした。

ビジネスライクな人々だけではなく、創作活動界隈、どんな領域でもそうですが、「行動しなければダメだ」といったメッセージが信奉されています。某有名予備校教師の謳い文句となっている「いまでしょ!」もそうですが、行動を起こすことは「ゼロなりマイナスなりの現状を変える唯一確実な第一歩を踏み出す具体的な意思表示」となるわけです。

さて、以上のごとき行動重視の考え方に「ふつう」の概念がどのような形で隠然たる力を働かせているのか。それはずばり、行動しないでいる状態において、ということになるでしょう。

ふつうならそうしないけど自分ならそうする」といった(ふつうではない)異質な行動ができることで、ビジネスチャンスは見出され、作品は制作されるものですし。逆を言えば、ふつうのままでいたらいつまでたっても現状のままだということです。……そういえば成功者と呼ばれる人たちは「行動した人」なんて言うふうにも呼ばれてはいませんでしょうか?

ゲーム=現実/ルール=ふつう

わたしたちの現実を一個のゲームだとイメージするなら、そこではゲームがゲームとして成り立つためのルールがあります。もっと言えばルールに従ってゲームをプレイするプレイヤーがいるでしょうし、さらにはプレイヤーがみずからのゲームプレイを違反のないように・上手いプレイを誇示したいようなオーディエンスだっているはず。それがゲームのふつうであり、ひいては現実のふつうなのだ。──と、しておくことにします。

人が「自分を変えたい」と思う場合を想像してみてください。このときにも起動している「ゲーム=現実」はあって、その人物は一定の「ルール=ふつう」を遵守しています。

「ゲーム」の意味を重ね合わせつつ「現実」の表記に戻すこととして、一方にはネガティブな現実があり、他方には(自分を変えることによって享受したい)ポジティブな現実がある。この点において〈行動〉は、別現実への移行を企てる具体的な手続きとしての意味を持つことになります。

「別現実への移行を企てる具体的な手続き」などと説明した〈行動〉ですが、これはなにも難しいことをするわけではありません。掲載したツイートを例にすれば、お菓子を作ってみようと思い立ったときにレシピを調べ、材料を買い行くことだってそうです。あるいは野宿できる人間になりたいと思ったときに野宿関連の書籍を図書館に借りにいくことだってそうです。いずれも今現在に属している現実からの逃走・離脱・飛翔・超越を試みるための行動を起こしているという点で共通しています。

内面化された常識に行動力は奪われる

ワイはひとりの妹巫女から、「ふつうの人が行動力のなさで定義できる可能性」の示唆を受けました。これを先述した「別現実への移行を企てる具体的な手続き」と合わしてみるなら、何かしらのアイデアを思い立ってもじっさいの行動に移せない人がふつうなのは、自分の現状に変化をもたらすかもしれない行動に対して、「行動しないでいること」によって、自分のふつうを続けることにしてしまっているからだと考えられます。

以上のことの後に、この記事の冒頭に書いたことに立ち戻ることにしましょ。

ふつうはそんなことしないよね

上のような言葉を言われる場合、その人はそう言ってきた相手と現実を部分的に共有しているのでしょう。そして、相手がこちらの言動を間違っているものだと思わせることで、より常識的な振る舞いを教育しようとし、さしあたって目の当たりにしたこちらの行動を否定しに掛かっているわけです。

これはしかし、なかなかに罪作りな教育です。この教育が達成されてしまったあかつきには、教育された身としての自分は教わって身についた「ふつう」を裏切ることが難しくなってしまうのですから。内面化された常識は規範と化し、こちらの言動を規律します。この規律によって行動力は奪われてしまう

じっさいに行動した人がすごいなら

そういえば、妹はワイに「すごい」と連呼していたのが印象的でした。これは接客の、とりわけ女性→男性に対しての対人いろはとして知られる「さしすせそ」の "す" に当たる言葉でもあって、じつはあまり深刻に受け取る必要はないのかもしれませんが、ここでは「ふつう」の観念と対比させる形で特別に意味を持つ言葉だと理解します。

すなわち、

ふつうの人は思いついても行動に移さない。
だから、じっさいに行動したあなたはすごい。

これはしかし、言っていることは「ふつうはそんなことしないよね」のメッセージとは別内容ではありません。一見して「すごい」と評されることは肯定的な事態であるように思われながら、もしかしたら皮肉の含意した否定的な言葉なのかもしれない。

……なんて疑ったらキリがないのですが、このことから改めて、件のツイートで取りあげた「ふつうの人が行動力のなさで定義できる可能性」の信憑性を認められはしませんでしょうか。

無知の恥 〜ふつうの人が行動できないのは

人が「ふつう」と呼んでいるものは往々にして個人的な信条だったりします。とくに世間体を気にする日本人だと、この思い込みが根深いものになり、個人的な信条であるはずのものが自分以外の人もそうに決まっていると無自覚なままで信じ、生活している場合もあったりして。

個人的なことが社会一般のこととしてひっくり返った挙句、「ふつう」の力はより強固なものになります。そうなったときに自分が生きる現実の「ふつう」を逸脱した行動をとることは、たとえ思いつきであったとしても困難なものになってしまうのです。

(このときの "行動させない抵抗力" は「恥じらい」や「面倒くさい」として記述できるでしょう。この記事の冒頭で「無知の恥」などと言いましたが、知らなかったこと・間違っていることが行動することで露見させる恥ずかしさや、恥ずかしい思いをするくらいだったら何もしない方がいいといった面倒くささは、まさに人に行動させない抵抗力であり、無知の恥ゆえの無行動と考えられます

人に行動させない抵抗力にどっぷり肩まで浸かって常識がきっちりと内面化された人物にとっては、思いつきは思いつきのままになってしまうのでしょう。厄介なことに、こうした傾向は人が幸せになる理由にも不幸になる理由にもなってしまいます。なぜなら、満足した現状に安住することにもなるし、不満足な現状を変えられない理由にもなってしまうのですから。)

であるがゆえに、ふつうの人はふつうの人のまま、別様のあり方へと踏み出す行動をとれないでいる。行動力のなさによってふつうの人を定義できるとは、そのような風景を言うのです。

※記事で使用した写真は今年の夏に無宿旅に出かけたときのもの。旅に関する記事はこんなのを書いております。↓

最後ですが、「ふつう」とか「ふつうの人」なんてことについて書くことはどこか恥ずかしさがあります。なにせ、そういうことを書いているおまえ自身はどれだけ「ふつうとは違っているんだ・特別なんだ・行動力があるんだ」などの声が聞こえるようだからです。ですから、記事のタイトルにもある通り、この話題に触れることは「勇気がいる」わけです。なにせ、ワイ自身もひとつのふつうを託ちつつ生きる、ひとりのふつうの人なんですもの。

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