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制作を理論で問うことに寄せて――あなたの健やかなアートライフのために(1)

筆者の、アート制作に携わる人との付き合いから、制作行為にとって理論とはどのようなものかを考えます。絵画、イラスト、文芸問わず、広く創作活動をしている人のために。
この(1)では自己発見としての制作という見地からアーティストを見つめています。
見出し画像はプロローグのやりとりをしていたときのものです。
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《プロローグ、あるいは「2018年4月7日㈯21:59新宿駅西口での会談」》

このあいだ、新宿である人と飲んだ。仮にミナコさんとする。ミナコさんは哲学思想の勉強を経てから、その知見を作品化しようというルートを辿って制作者になった人種である。ふと、アーティストにとって理論的知性の重要性についての話になった。彼女は言った。「アーティストも哲学がなくちゃダメだ」。わたしは同意する。「アーティストの制作行為は、要は自己発見ですからね。自分の方法から見つけることができる自分に、自分自身が驚けなくなったら芸術として座礁しちゃうでしょう」。わたしがそう言うと、ミナコさんは制作行為について次のように言った。「つまりね、あたしたちは現実を生きているわけだよ。その現実のなかで違和感を覚えてしまう。その違和感を言語を通して作品にしていく。自分が感じた違和感がその作品にうまく表現できたときに、そのときにリアリティが立ち上がるんだ」

脚色ありきとはいえ、おおよそ以上のようなやり取りだった。お互いに共通していたのは、アーティストが〝「作れてしまう」という技術〟の方に目が向きがちで、〝「作ってしまう」という事実〟の方には注意が向かないという見解だった。(とはいえ、わたしにはいわゆるアーティストの実際の制作現場を目にする機会がないので、彼女の話に相槌を打っていたという程度ではあったのだが。しかしながら、かくして、わたしは思弁へと誘われる)
ではでは、以上に登場したキーワードを、わたしは、あるひとつの〈わたしたち〉を制作するつもりで洗ってみることにしよう。

《制作行為と自己発見、あるいは「鏡に映ったあなたと二人」》

まず「制作行為が自己発見である」という、〈自己発見〉について。これは自分探しと言ってはいささか陳腐ではあるが、要するに自分が感じてしまっているものが自分の内側にあって、それを自分は感覚してはいても知覚することはできていない、言い換えると、感じてはいても見ることはできない。そんな、ゴーストのようなものに憑かれてしまうということ。それがいわばアーティストがアーティストたる根拠なのかもしれない、としてみる。そこで起こる制作行為への駆り立ては、第一には、「誰かに作品を見せたいから」という承認欲求的なものによってではなくて、「自分の違和感の正体を知りたい」という内発的な探求心によるものなのだ。

鏡のイメージを使って説明しよう。鏡というのはつねにそこに映っているものを映す。そのままにではなく、どこか調子を狂わせて、映す。実像ではない像として。人間というのは誰しも自分のなかに〈内なる鏡〉を持っている、としよう。例えば自分のアイデンティティが、母親の前では子どもとして、教師の前では生徒として、その都度決定する。ある特定の他人との関係が、自分のプロフィールのある項目を決定するようなものだ。このときの他人はまるで鏡のようではないだろうか? アイデンティティというのはしかし、目の前に具体的な母親や教師がいなくても、簡単に消え去りはしないものとして己れに書き込まれている。母親が家にいて自分が学校にいるときに、自分が母親の子どもではなくなるというわけではない。これは自分のアイデンティティを決める他人という鏡が、自分の内部に設置されているというふうに考えられる。それが〈内なる鏡〉なのだ。

〈内なる鏡〉はしかし、誰かに見られたことのない自分を映すことはない。誰かに見られない自分は〈剰余の鏡像〉として人間の現実に含み込まれている。〈剰余の鏡像〉というのはわたしたちの造語だ。これは他人が出会ったことのない人間としての自分であり、それは同時に自分が向かい合ったことのない自分でもある。〈内なる鏡〉には映らないものであるところの〈剰余の鏡像〉は、そうした他人に見られてきたことで紡がれた自分の現実からはみ出たものだ。しかし自分は現実にいる。その現実のなかで感じられる違和感が、鏡像の剰余物としての〈剰余の鏡像〉なのである(それはまた〈剰余の自画像〉もしくは〈剰余の自己像〉のことでもあるだろう)。

さて、〈内なる鏡〉と〈剰余の鏡像〉というキーワードを確認したうえで、〈自己発見〉の方へと話を戻そう。

再び〈自己発見〉を定義してみる。それは〈内なる鏡〉に映らないものである〈剰余の鏡像〉を知覚したいという欲求の現れなのだ。〈剰余の鏡像〉はアーティストの現実に、違和感として到来する。アーティストはその違和感に抵抗するために制作する。

アーティストの抵抗行為としての制作という観点でいうと、作品はやはり鏡として機能することになるだろう。それこそが〈内なる鏡〉に対する〈外なる鏡〉なのである。それは何を映すのだろうか。何も映していないかもしれない。しかし何かが映っているかもしれない。いずれにしてもアーティストが発見したい自己はそこにしかない(この点で、非アーティストたちの殆どが既製品を消費することによって満足できてしまう…という理解線も敷設可能だと言えるのではないか。なにせ彼らは必ずしも自身が覗き込んで驚き慄くような鏡を必要とはしていないのだから)。

《自分とは何か、あるいは「我無き処で我思う、ゆえに、我思わぬ処に我有り」》

自身の〈外なる鏡〉を制作するときのアーティストの身分について考えてみよう。そこでアーティストは何に成っているのか。人間はふつう、誰しもが主体である。自分の身体動作に責任を有する何者か――それが主体だ。アーティストの制作行為に寄せていえば、アーティストは自分の制作行為に対して、もしくは作品に対して主体であるのだろうか。そこには少々疑問が残る。たしかに作品に署名するのは制作者であるところの当のアーティストによってではある。とはいえ、〈外なる鏡〉に映る自分を見つめたいという欲求に駆られて無我夢中で制作をしているアーティストに、社会一般で使用されているような意味での「主体」という言葉が当てはまるのかどうか……。

アーティストは何をしているのか?――探求をしているのだ。
何を?――自分を。

ここで、アーティストがこだわらずにはいられない「自分」というものが、やはり社会一般で流通している意味での、いわばエゴイズム的なものとしての「自分」とは異なっているという気配を覚える。

それでは、アーティストにとっての「自分」というのは何なのか。そこで参照したいのが「自我」と「自己」のコントラストである。「自我」というのは日常わたしたちが使用しているような「自分」という言い方でもって意味しているものとさして変わらない。イメージとしては仏教において我執などと言われて修行者にはよろしくないものとして理解されているもので。つまりは自分は自分なのだというエゴイズムの根拠地としての自分である。対して、「自己」の方はカール・グスタフ・ユングがそのように理解しているような自然物としての自分である。あるいは仏教的な世界観の方へと寄せて言えば、小宇宙(ミクロコスモス)だろうか。小宇宙は大宇宙の反映物として理解できるので、その意味でも大自然と言われているものに含まれているようなものである小自然、として「自己」はあると見立てられる。ユングの心理学では集合的無意識というものが個人の自己から到達することができるものとして考えられている。それは意識があり、その奥に個人的なものとしての無意識があって、その更に深みには集合的無意識があるのだとする世界観である。その図式における(意識と個人的無意識のあいだである)意識サイドが「自我」と呼ばわれ、(個人的無意識と集合的無意識のあいだである)無意識サイドが「自己」であるというわけだ。要するに「自我」は制作することで発見をする側の「自分」のことで、「自己」は作品を通して発見される側の「自分」のことなのだ。――以上を踏まえてアーティストにとっての「自分」が「自我」寄りの意味なのではなく、「自己」寄りの意味として理解できることがわかるだろう。

<続>


参考資料
・カール・グスタフ・ユング『空飛ぶ円盤』松代洋一訳(1993)
・藤田一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』(2016)


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