『存在と時間』を読む Part.87

  (b)時間と精神の関係についてのヘーゲルの解釈

 (a)項において、ヘーゲルは弁証法的な時間概念に依拠することで、「時間と精神の関連を確立することができた」ことが指摘されていました。ヘーゲルは精神が時間との関係のうちで成立することの証明を試みるのであり、この(b)項では、このように精神が「時間のなかに落ち込む」ことができるためには、精神の本質にどのようなものが属しているのでなければならないかを解明することにあります。

Wie ist der Geist selbst verstanden, daß gesagt werden kann, es sei ihm gemäß, mit seiner Verwirklichung in die als Negation der Negation bestimmte Zeit zu fallen? Das Wesen des Geistes ist der Begriff. Darunter versteht Hegel nicht das angeschaute Allgemeine einer Gattung als die Form eines Gedachten, sondern die Form des sich denkenden Denkens selbst: das sichals Erfassen des Nicht-Ich - Begreifen. (p.433)
精神がみずからを実現するときに、否定の否定として規定された時間のなかに落ち込むとされている。これが精神にふさわしいことだと言いうるとすれば、精神そのものはどのようなものとして理解されているのだろうか。精神の本質は”概念”である。一般には概念とは思考の形式であり、類において直観された普遍的なもののことであるが、ヘーゲルにおいてはこれとは違って、概念とは自己を思考する思惟そのものの形式である。すなわち思考が”みずから”を、非我を”把握する働きとして”、観念的に把握することなのである。

 ここでヘーゲルにおける精神の誕生について触れておきたいと思います。『精神現象学』や『エンチュクロペディー』の「精神哲学」の主要な部分は、自然的な心から自己意識へ、自己意識から自我へ、自我から理性としての精神へという道筋で、精神と理性が誕生するまでを弁証法的に展開したものです。この弁証法にとって精神とは、1つの目的なのです。
 わたしたちはごく自然に心をもった存在として生まれています。この心は自然的な心として、気分として自然な生活を送っています。赤ちゃんは最初は気分によって支配されているのであり、この状態ではまだ精神は目覚めていません。この心は感覚をもち、自己を個体性として受容するようになるのであり、赤ちゃんは成長するにつれ、自分の外から受ける刺激から単に受動的な形で自己を把握します。ここで区別されるのは外部の対象ではなく、心が感覚するさまざまなものです。この段階では、心は外部の対象を意識していないため、精神はまだ不明瞭な段階です。そして心はごく自然に自己についての意識をもち始めます。赤ちゃんから成長したこどもは、自分とそうではないものを区別することができるようになります。この自己意識の状態は精神が対自的に、すなわち自覚的に存在しながら、みずからを区別するという働きです。
 やがて心は外部の対象を意識し、それについて知的な判断を下すようになります。ここで自我が明確に確立されます。こどもは成長するにつれ、自分の外部のものがどのようなものであるかを認識し、それに対して自分がどのようであるかを区別しながら認識するようになります。この自我にとっては外的な対象だけでなく、心の内容もまた認識の対象となるのであり、自分の内面に意識を向けるようになります。意識は反省の段階に到達したのであり、ここで自己との関係を形成します。
 人間が自我をもち始めるということは、自分の心において、自分の外部の対象と内部の対象について意識し、認識し始めるということです。ここで精神が登場します。外部の対象を認識する自我は、外部と対象と自己との違いを明確に区別し、この区別は概念によって行われます。たとえば樹木という概念は、空や地面や草などの概念と区別されながら、樹木を樹木として普遍的に認識するものです。
 上記の引用文では、「概念とは思考の形式であり、類において直観された普遍的なもののことであるが、ヘーゲルにおいてはこれとは違って、概念とは自己を思考する思惟そのものの形式である。すなわち思考が”みずから”を、非我を”把握する働きとして”、観念的に把握すること」だと指摘されています。これは自分ではないものを概念として把握する働きそのものを把握するということであり、これはデカルトのコギト、すなわち「わたしはわたしが事物を思考すると思考する」ということを示しています。
 自我が他我を、自己と異なるものとして区別する働きもまた否定と呼ばれます。この否定の弁証法的な運動は、精神の働きです。まず外部の対象、すなわち非我を把握するということは、自我でないものをその「ない」ということにおいて認識することだからです。あるものをたとえば樹木として規定することにおいては、それが地面でも空でもない「ない」ものとして否定する働きが含まれているのであり、規定性とはある意味では否定性のことです。ただしこの否定性は、たんに規定するだけの否定であり、抽象的な否定性です。しかし自我が非我とは違うものとして自己を措定し、規定するときには、この抽象的な否定性とは異なる否定性が働いています。
 第1の否定性は、あるものを概念的に区別するという抽象的な規定です。しかしそこには自我を非我でないものとして否定する第2の否定性が働いているのです。たとえば「わたしは樹木ではない」という語りには、第1に外部の対象である樹木を規定する否定性がそなわっていますが、第2にそこには「わたし」と第1の否定によって規定した樹木との同一性を否定する働きが含まれています。この第2の否定によって、非我が異なる自我として措定されるのですが、この自我は自分自身においてはそれ以上区別がないもの、他者からを自己から排除するものとしての否定の否定です。自我はこのような否定性によって措定されたものですが、同時に精神として、この否定性を行使するものです。自我がこの否定性を行使するのは、概念によって判断することにおいてです。
 この否定性はすでに概念として定められていました。樹木という概念は、空や地面や草でないものとしての規定性という意味で第1の否定性を含むだけではなく、そのような樹木を措定するものとして第2の否定性を含みます。したがって概念は「否定性の否定性」だと言うことができます。

Sofern das Erfassen des Nicht-Ich ein Unterscheiden darstellt, liegt im reinen Begriff als Erfassen dieses Unterscheidens ein Unterscheiden des Unterschieds. Daher kann Hegel das Wesen des Geistes formal-apophantisch als Negation der Negation bestimmen. (p.433)
”非”我を把握することは、ある意味では区別することであるが、”この”区別を把握する働きとしての純粋な概念のうちには、区別を区別するということがひそんでいる。このようにしてヘーゲルは、精神の本質を形式的かつ命題論的に、〈否定の否定〉と規定することができるのである。


 このような否定の否定の働きは、ヘーゲルは”自由”であると指摘します。これについては概念についてよりも、人間の自己意識について考えるほうが分かりやすいでしょう。ヘーゲルによれば、人間の自己意識が自由であるためには、2つの要素が必要です。1つ目の要素は、特殊な内容すべてを否定するという面であり、もう1つが、不特定であることを否定する面です。前者が不特定状態への移行であり、後者が特定の内容への移行であって、たとえばデカルトのように外部の対象をすべて否定し、それ以上否定できないコギトに移行した後、今度はこのコギトからすべての内容を設定するということです。この第1の側面が第1の否定にあたるもので、規定された内容を否定します。第2の側面が第2の否定の否定を意味し、具体的なものを措定します。この2つの否定によって、自己意識は自由になるのです。
 これを踏まえて考えると、ハイデガーの引用した次の文が理解できます。

Der Begriff ist sonach die sich begreifende Begriffenheit des Selbst, als welche das Selbst eigentlich ist, wie es sein kann, das heißt frei. >Ich ist der reine Begriff selbst, der als Begriff zum Dasein gekommen ist<. >Ich aber ist diese erstlich reine, sich auf sich beziehende Einheit, und dies nicht unmittelbar, sondern indem es von aller Bestimmtheit und Inhalt abstrahiert und in die Freiheit der schrankenlosen Gleichheit mit sich selbst zurückgeht<. (p.433)
このように概念とは、自己がみずからを概念的に把握しながら、概念的に把握されていることである。自己はこのように概念的に把握されたものとして、その本来のありかたで存在する。すなわち自己は”自由”なのである。「”自我”は概念として”定在”に到達した純粋な概念そのものである」。「ところで自我は、”第1に”純粋な、自己にかかわる統一であるが、直接にこのような統一であるのではなく、すべての規定と内容を無視して、自己自身との無制限な同一性という自由に立ち帰ることにおいて、このような自己にかかわる統一になる」。

 ここでヘーゲルは>Dasein<という語を使っていますが、これはハイデガーの用語である「現存在」の>Dasein<とはまったく異なるものです。ヘーゲルのそれは一般的には「定在」と訳され、その意味は「存在するものとして具体的に規定された存在」だということです。定在は他のものとの差異や性質上の限界、制限を自分の性質としてもっているということであり、たとえば「刀」は他の事物からみずからをその性質に即して区別ために定在です。このときみずからの限界を定めること、つまり規定するということは否定することですから、定在は自己の否定を自己のうちに含む存在だと言えます。ですから、否定の否定、すなわち概念として定在に到達した純粋な自己は、「すべての規定と内容を無視して、自己自身との無制限な同一性という自由に立ち帰ることにおいて、このような自己にかかわる統一になる」というわけです。2つの否定から生じた概念は、たとえばコギトのように絶対的な自己同一性、すなわち我=我なのであり、ここに自由があるとヘーゲルは考えるのです。

 そして時間がこのような概念(精神)と同一の構造をそなえていることは、前回の考察から明らかでしょう。というのは、これらのどちらもが「否定の否定」という形式をそなえているからです。

Dieses Negieren der Negation ist in einem das >absolut Unruhige< des Geistes und seine Selbstoffenbarung, die zu seinem Wesen gehört. Das >Fortschreiten< des in der Geschichte sich verwirklichenden Geistes trägt ein >Prinzip der Ausschließung< in sich. Diese wird jedoch nicht zu einer Ablösung vom Ausgeschlossenen, sondern zu seiner Überwindung. Das überwindende und zugleich ertragende Sichfreimachen charakterisiert die Freiheit des Geistes. (p.434)
この否定の否定は、精神にそなわる「絶対的に不安的なもの」であり、精神の”自己啓示”でああり、この自己啓示は精神の本質に属するものである。歴史において自己を実現していく精神の「進歩」は、そのうちに「排除の原理」を含んでいる。しかしこの排除において、排除されたものは精神から切り離されることはなく、むしろそれは”克服される”のである。精神の自由の特徴は、克服しつつ同時に耐えながら自己を自由にすることである。

 概念を規定する「否定の否定」の運動は、精神そのものの本質であり、「精神の”自己啓示”」であると言われています。そして精神には「進歩」がつきものであり、精神は自己自身を否定しながら「克服」していかなければなりません。精神は否定の否定によって絶対的な自己に到達しながらも、つねにみずからを否定する運動において「絶対的に不安的なもの」になっているのであり、この運動によって、精神である概念はたえず深化していく可能性に開かれているのです。ヘーゲルはこの精神の進歩の歴史が、人類の歴史だと主張するのです。

Weil die Unruhe der Entwicklung des sich zu seinem Begriff bringenden Geistes die Negation der Negation ist, bleibt es ihm, sich verwirklichend, gemäß, >in der Zeit< als die unmittelbare Negation der Negation zu fallen. Denn >die Zeit ist der Begriff selbst, der da ist und als leere Anschauung sich dem Bewußtsein vorstellt; deswegen erscheint der Geist notwendig in der Zeit und er erscheint so lange in der Zeit, als er nicht seinem reinen Begriff erfaßt, das heißt nicht die Zeit tilgt. Sie ist das äußere angeschaute vom Selbst nicht erfaßte reine Selbst, der nur angeschaute Begriff<. (p.434)
”精神”はこのように、自己をみずからの概念に導く発展のもたらす動揺のうちにあるのであり、これは”否定の否定”である。だからこそ、精神にとっては、みずからを実現しながら、直接的な”否定の否定”である「時間のなかに」落ち込むことがふさわしいことになる。というのも「時間は”現にそこに存在し”、空虚な直観として、意識において表象される”概念”そのものだからである。そのため精神が時間のなかに現れるのは必然的なことであり、しかもみずからの純粋な概念を”把握して”、時間を消滅させるまでは、時間のなかに現れつづけるのである。時間とは、”外的に”直観された自己であり、みずからを”把握していない”純粋な自己であり、たんに直観されただけの概念である」。

 このように精神は「直接的な”否定の否定”である〈時間のなかに〉落ち込むことがふさわしい」ことになります。精神はみずからを同じ構造をもつ時間のなかで表現していくのであり、その顕現こそが歴史なのです。そして精神は「みずからの純粋な概念を”把握して”、時間を消滅させるまでは、時間のなかに現れつづける」のであり、絶対精神に到達し人類の歴史が完成にいたるそのときまで、精神とその外的な表現である歴史は進みつづけるのです。
 精神はこのように歴史として時間のなかに登場しますが、ヘーゲルによると人類の歴史はこうして精神がみずからの自由を実現していく歴史です。ヘーゲルは同時代のナポレオンのうちに絶対精神の現れをみいだしたことは有名ですが、ヘーゲルにとっては人類の歴史は自由が実現される進歩の歴史なのでした。

 ところで、前回指摘されていたように、ヘーゲルは〈今〉に基づいて時間を理解します。「時間は”現にそこに存在し”、空虚な直観として、意識において表象される”概念”そのもの」だとヘーゲルは語りますが、この「現にそこに」とは、現存在のありかたではなく、眼前的な存在者のありかたであることは明らかでしょう。ここでは時間は空虚な直観として眼の前にみいだされるようなものだと考えられているのです。ここからハイデガーのヘーゲル批判が始まります。
 すでに考察してきたように、ヘーゲルにとって時間は「抽象的な否定性」でしたが、ハイデガーはヘーゲルが、精神と時間に共通する否定の否定という形式的な構造に立ち戻ることによって、精神が歴史的に自己を自由として実現する可能性を示したことに注目し、このことによって精神と時間の親縁性を確立したことを指摘するのです。
 しかしそれによって存在論的には重要な欠陥が生まれることになります。第1の欠陥は、すでに説明されたように、人類の歴史がすべて現在という時間から解釈されることです。ヘーゲルの考える歴史は精神の自由の実現であり、絶対精神への到達ですが、現実にナポレオンの姿にその歴史的な瞬間が体現されていると考えるなら、この枠組みから外れるすべての歴史的な出来事はどうなってしまうのでしょうか。たとえばナポレオンと桶狭間の戦いは何の関係もないのですから、この戦いは歴史的ではないということになるのでしょうか。ナポレオンという現在を特権的なものとして歴史を考えることは、その他の歴史を無意味なものにしてしまうことになるでしょう。
 第2の欠陥は、時間が平板化された世界時間という意味で把握されており、その由来がまったく隠蔽されていることにあります。時間が眼前的な存在者として、精神と対立的に語られているのではそのためであり、人間が時間のなかで生きるということの意味が洞察されず、時間が完全な外的な否定性としてしか捉えられていません。ヘーゲルは時間が〈今〉連続であるという通俗的な時間概念をそれ自体として考察せずに把握しているのです。
 第3の欠陥は、精神が時間のなかに「落ち込む」という表現が示唆しているように、人間の精神と時間の関係がたがいに疎遠なものとしてしか捉えられず、人間の精神の誕生というものが存在論的にどのようなことを意味するのかは、解明されないままになっています。存在論的にむしろ精神は時間のなかに「落ち込む」のではなく、根源的な時間性「から脱落する」のではないでしょうか。しかもこのような意味での「脱落」が実存論的に可能になるのも、時間性に属する時熟の様態によってなのです。ヘーゲルは否定の否定という精神の本質的な機構が、根源的な時間性に基づかずに、どのようにして可能になるかという問いを吟味することはありません。
 そしてハイデガーは、ヘーゲルのこれらの時間論が、いかにアリストテレスの時間論を敷衍したものであるかについて、原注で詳細に説明しています。たとえば、アリストテレスが時間の本質を「今」のうちにみいだしたのと同じように、ヘーゲルもまた時間の本質を「今」のうちにみいだし、「今」を特権的な時間とみなしたことや、アリストテレスが「今」を「点」とみなし、ヘーゲルもまた「今」を「点」として解釈したことなどです。アリストテレスが時間を「運動の数」として規定したことはすでに指摘されてきましたが(Part.85参照)、ヘーゲルもこの観点を受け継いでいることを、ハイデガーは指摘したいのです。

 『存在と時間』の存在論的な時間についての考察はヘーゲルとは違って、平板化された時間概念を否定し、時間のなかで生きる現存在の日常性を考察し、抽象的なものからではなく、存在了解に導かれた具体的な相から分析を始めました。そのことによって、そうした実存を根源的に可能にするものとしての時間性の概念を考察してきたのでした。ここまでこの時間性のさまざまな時熟の可能性を分析してきましたが、この作業によって最初はたんに提示されただけであった時間性の構造に基礎づけが与えられたとハイデガーは考えます。


 以上、2つのパートにわけて第82節をご紹介してきましたが、わたしのヘーゲル哲学についての理解が追いついていないこともあり、幾分か読みにくいものになってしまったのではないかと感じております。書き手のこうした事情に加え、この節はこれまでのハイデガーの時間論の大筋にはあまり関係しないものであるので、読み飛ばしていただいても構わないかと思います。とはいえ前回のパートと合わせて、誤りがあるようでしたらご指摘いただけたら嬉しいです。

 次回、第83節をもって『存在と時間』は終わります。

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