『存在と時間』を読む Part.64

  第63節 気遣いの存在意味を解釈するために獲得された解釈学的な状況と、実存論的な分析論全般の方法論的な性格

 すでに第45節では、この節のタイトルにある「解釈学的な状況」について次のように語られていました。「すべての解釈には、それに固有の予持、予視、予握がある。これらの〈前提〉の全体をわたしたちは”解釈学的な状況”と呼ぶが、解釈が解釈として、ある探究の明示的な課題とされる場合には、こうした解釈学的な状況を、開示されるべき〈対象〉についての根本的な経験に基づいて、しかもこの経験のうちであらかじめ明確なものとし、確定しておく必要がある」(Part.47)。ハイデガーは第45節では、予視、予持、予握という3つの観点から、基礎存在論で必要とされる根源性を保証するための解釈学的な状況が不十分であることを指摘していました。
 第2篇の第1章と第2章は、「死への先駆」と「決意性」という概念によって、解釈学的な状況の不十分さを解消しようと試みてきました。そしてこの第3章にいたって、この2つの概念を統合する道筋が明らかにされます。先駆的な決意性の概念によって、気遣いの存在の意味を解釈するために必要な根源性が獲得されたのです。これを方法論的に予持、予視、予握の3つの概念でふりかえってみると次のようになります。

Das Dasein ist ursprünglich, das heißt hinsichtlich seines eigentlichen Ganzseinkönnens in die Vorhabe gestellt; die leitende Vor-sicht, die Idee der Existenz, hat durch die Klärung des eigensten Seinkönnens ihre Bestimmtheit gewonnen; mit der konkret ausgearbeiteten Seinsstruktur des Daseins ist seine ontologische Eigenart gegenüber allem Vorhandenen so deutlich geworden, daß der Vorgriff auf die Existenzialität des Daseins eine genügende Artikulation besitzt, um die begriffliche Ausarbeitung der Existenzialien sicher zu leiten. (p.311)
現存在は根源的に、すなわちみずからの本来的で全体的な存在可能に関して、〈予持〉のうちに置かれている。またこの分析を主導する〈予視〉は実存の理念であるが、もっとも固有な存在可能が解明されることで、これも明確に規定された。さらに現存在の存在構造を具体的に詳しく考察することで、現存在があらゆる眼前的な存在者と比較して、存在論的に固有なありかたをしていることが明確にされた。このようにして、現存在の実存性を把握することを目指した〈予握〉は十分に分節され、さまざまな実存カテゴリーを概念的に詳細に考察する作業を確実に導くことができるようになった。

 このように先駆的な決意性の概念を提起することによって、現存在の実存についての分析の新たな視座が獲得されたことになります。しかしこの新たな視座は、現存在の分析論の道程を進むことを容易にするものではなく、むしろ新たな視点からこうした道程を反復することを要請するものです。というのも、現存在は日常性においては非本来性のもとに頽落した存在であり、すべての分析はこの頽落した状況から開始しなければならないからです。わたしたちは現存在として実存する存在者ですが、だからといって本来的な意味で実存しているわけではなく、頽落こそが現存在の基本的なありかたなのです。
 ハイデガーは現存在の日常性への頽落という事実を確認しながら、この第63節において、新たな視座による現存在の実存論的で存在論的な分析の方法論を提示しようとしますが、この新たな方法論には3つの軸があります。それは存在論的な分析の「暴力性」、こうした分析を導く「理念の意味」、そして「解釈学的な循環」の重要性です。

 まず現存在の存在論的な分析の暴力性という第1の軸から考えてみましょう。現存在は頽落しつつ、自分の存在可能に直面することを避けて、むしろ自分たちの周囲にある事物に配慮しながら、自分たちとともに生きる人々に顧慮しながら、過ごしています。これは現存在にとってもっとも身近なありかたなのであり、頽落存在はこうした日常的な現存在についての解釈を導く傾向があるので、現存在の本来的な存在を隠蔽してしまいます。そのために現存在の存在論は、存在論的に考察するための適切な地盤を奪われているのであり、だからこそ存在論的な分析では、現存在についての日常的な解釈に抗して、現存在の根源的な存在を把握する必要があるのです。
 日常性において現存在は自分の真のありかたを隠蔽しつつ生きているのですから、存在論的な解釈においては、こうした隠蔽を取り去るために、暴力的になることが求められます。

Die Seinsart des Daseins fordert daher von einer ontologischen Interpretation, die sich die Ursprünglichkeit der phänomenalen Aufweisung zum Ziel gesetzt hat, daß sie sich das Sein dieses Seienden gegen seine eigene Verdeckungstendenz erobert. Die existenziale Analyse hat daher für die Ansprüche bzw. die Genügsamkeit und beruhigte Selbstverständlichkeit der alltäglichen Auslegung ständig den Charakter einer Gewaltsamkeit. Dieser Charakter zeichnet zwar die Ontologie des Daseins besonders aus, er eignet aber jeder Interpretation, weil das in ihr sich ausbildende Verstehen die Struktur des Entwerfens hat. (p.311)
わたしたちの存在論的な解釈は、現象のうちで根源的に提起することを目標とするものであるから、”この現存在という存在者の存在を、それ自身にそなわる隠蔽傾向に抗して、奪いとらなければならない”のであり、これは現存在の”存在様式”そのものによって”求められている”ことなのである。このため実存論的な分析は、日常的な解釈の掲げる要求や、その自己満足や穏やかさと比較すると、たえず”暴力的なものである”という性格をおびることになる。この性格は現存在の存在論においてはとくに際立ったものとなるが、すべての解釈につきものの性格である。この解釈のうちで形成されてくる理解が、投企という構造をそなえているからである。

 この既存のものに「抗して」という性格とその暴力性は、解釈につきものの性格です。解釈によってそれまで自明なこととされていたことが否定され、新たな視点が切り開かれるときには、つねにこうした暴力的な性格が生まれるのです。
 ハイデガーは、このような新たな視点を切り開く解釈の営みの暴力性を、解釈における「投企」という性格によって基礎づけます。すでに現存在の実存はその固有な存在可能に向けた投企であることが指摘されてきましたが、現存在が本来的なありかたをするためには、自分のそれまでの生き方を問い直すものとならざるをえません。これは本質的に頽落存在である現存在にとって大きな衝撃となることであり、ここに投企の暴力的なありかたをみてとることができます。

Wenn das Sein des Daseins wesenhaft Seinkönnen ist und Freisein für seine eigensten Möglichkeiten und wenn es je nur in der Freiheit für sie bzw. in der Unfreiheit gegen sie existiert, vermag dann die ontologische Interpretation anderes als ontische Möglichkeiten (Weisen des Seinkönnens) zugrundezulegen und diese auf ihre ontologische Möglichkeit zu entwerfen? (p.312)
現存在の存在が、その本質からして〈存在可能〉であって、みずからのもっとも固有な可能性に開かれているものであるとしたら、そして現存在の存在はそのつどこうした可能性に向かう自由のうちに、あるいはこうした可能性に抗する不自由のうちにしか、実存しないとしたら、存在論的な解釈がなしうるのは、特定の”存在者的な可能性”(存在可能のありかた)をもとにして、”これをその存在論的な可能性”に向けて投企することでしかないのではないだろうか。

 自分がその1人である現存在の分析は、それが根源的なものであるためには、現存在自身が本来的に実存しているそのありかたに、すなわちもっとも固有な存在可能にみずからを投企することに注目する必要があります。現存在の存在論的な解釈が、わたしたち自身が自分の日常的な生活から本来的な実存に向けて投企するという意味をもつのであれば、「存在論的な解釈がなしうるのは、特定の”存在者的な可能性”(存在可能のありかた)をもとにして、”これをその存在論的な可能性”に向けて投企することでしかない」のではないでしょうか。
 それだけに日常性のうちに自己を喪失していた現存在は、新たな実存論的な解釈によってこうした日常性を揺り動かされ、自己に固有の究極の存在可能へと目覚めさせられるはずです。そうだとすれば、投企の暴力的なありかたこそが、現存在の現象的な実情を開けわたすものになることでしょう。

 ところで解釈には導きとなるものが必要であり、これが恣意的な解釈を禁じる役目をはたします。こうした投企の暴力的なありかたによって規定された解釈というものは、何によって導かれるのでしょうか。

Woher nimmt sie den Leitfaden, wenn nicht aus einer >vorausgesetzten< Idee von Existenz überhaupt? Wodurch regelten sich die Schritte der Analyse der uneigentlichen Alltäglichkeit, es sei denn durch den angesetzten Existenzbegriff? Und wenn wir sagen, das Dasein >verfalle< und deshalb sei ihm die Eigentlichkeit des Seinkönnens gegen diese Seinstendenz abzuringen - aus welcher Blickstellung wird da gesprochen? Ist nicht schon alles, wenngleich dämmerig, erhellt durch das Licht der >vorausgesetzten< Existenzidee? Woher nimmt sie ihr Recht? War der sie anzeigende erste Entwurf führungslos? Keineswegs. (p.313)
この解釈が導きの糸とするのは、実存一般について「あらかじめ前提とされていた」理念ではないだろうか。非本来的な日常性の分析は、そのすべての歩みが、すでに想定した実存概念によって規制されていたのでないとすれば、何によってみずからを規制していたのだろうか。わたしたちが、現存在は「頽落している」と語るとき、そしてこの存在傾向に抗して、存在可能の本来性を、現存在から奪い取る必要があると語るとき、わたしたちはどのような観点から語っていたのだろうか。これらのすべては最初から、「あらかじめ前提された」実存についての理念の〈光〉によって、ぼんやりとではあっても、照らしだされていたのではないだろうか。この実存の理念がその権利の根拠としているのはどのようなものだろうか。この実存の理念を示そうとする最初の投企は、導きの糸のないものだったのだろうか。いや、決してそのようなことはない。

 すべての解釈には〈予視〉〈予持〉〈予握〉という要素があることは、すでに確認されてきました(Part.31参照)。そしてこの節の最初に、第1篇の現存在の日常性の分析において働いていた「予ー構造」とは別に、第2篇で考察された「死への先駆」と「決意性」の概念によって、こうした「予ー構造」が新たな視点から見直されました。すなわち、現存在の実存論的な「解釈が導きの糸とするのは、実存一般について〈あらかじめ前提とされていた〉理念」です。この分析を導く理念の意味の問題が、解釈の第2の軸となります。
 非本来的な日常性の分析を行うためには、現存在の本来的な実存についての理念が必要でしたし、現存在が頽落していることを指摘するときには、現存在の本来性についての理念が必要でした。さらに「この存在傾向に抗して、存在可能の本来性を、現存在から奪い取る必要があると語るとき」にも、現存在の本来的な実存についての理念が必要だったのでした。そうであるなら、「これらのすべては最初から、〈あらかじめ前提された〉実存についての理念の〈光〉によって、ぼんやりとではあっても、照らしだされていた」と考えるべきでしょう。現存在はみずからを実存するものとして、「実存の理念」に照らして理解しているのです。
 この実存の理念については、すでに第9節で提起されていました。その際に提示された特徴は次の2つです。第1は、現存在という存在者は、「〈みずからにかかわる〉ように存在」するものだということであり、ハイデガーはこの存在様式を「実存」という概念で示しました。第2は、現存在は「そのつどわたしの存在」であることであり、これをハイデガーは「各私性」という概念で提起しました。
 この2つの特徴については、「形式的な告示」と言われていたことも覚えておりますでしょうか。「告示」と言われるのは、この2つの特徴が現存在の存在様式を告げ知らせるものであるからであり、「形式的」と呼ばれるのは、これらの特徴が現存在の存在様式を内容からではなく、本質や存在などの概念に基づいて、現存在の存在のありかたを、その「形式」から考察するものだからです(Part.24参照)。
 現存在はこのような実存の理念に基づいて自己を理解していますが、世界のうちで出会う他の存在者のうちには、実存という存在様態をそなえていないものも存在していることもまた、理解しています。現存在は世界内存在として、手元的な存在者や眼前的な存在者と出会うのであり、こうした存在者について現存在は、「実在性」という概念で理解しているのでした。

Die Umgrenzung der Sorgestruktur gab die Basis für eine erste ontologische Unterscheidung von Existenz und Realität. Dies führte zu der These: Die Substanz des Menschen ist die Existenz. (p.314)
気遣いの構造を画定することで、実存と実在性を初めて存在論的に区別するための基礎が確立された。こうしてわたしたちは、人間の実体は実存であるというテーゼにたどりついたのである。

 実存と実在性の存在論的な区別については、第43節で考察されました。実在性(>Realität<)は、事物(>res<)の存在形式なのであり、これは眼前的な存在者にあてはまる性格です。このような存在者は、それが「何であるか」によってその本質が規定されるものであり、伝統的な哲学においては神によって製作された被造物としてのニュアンスをもつことを、ハイデガーは指摘していました。これにたいして「"現存在の本質はその実存にある"」(Part.8)のであり、現存在と呼ばれる存在者は、机や家や木のように、それが「何であるか」を示すのではなく、それが「存在するものであること」を示す存在者なのでした。このことが「人間の実体は実存であるというテーゼ」になります。

Aber selbst diese formale und existenziell unverbindliche Existenzidee birgt doch schon einen bestimmten, wenn auch ungehobenen ontologischen >Gehalt< in sich, der ebenso wie die dagegen abgegrenzte Idee von Realität eine Idee von Sein überhaupt >voraussetzt<. Nur in deren Horizont kann sich die Unterscheidung zwischen Existenz und Realität vollziehen. Beide meinen doch Sein. (p.314)
この実存の理念は、実存的には拘束力をもたないたんなる形式的なものである。それでもこの理念には、まだ表立ったものではないとしても、すでに特定の存在論的な「内容」が含まれている。こうした「内容」は、実存の理念と対照される形で画定された実在性の理念と同じように、存在一般の何らかの理念を「前提とする」ものである。実存と実在性を区別することができるのは、”存在一般の理念という”地平においてである。どちらも”存在”について問題にしているのである。

 実存の理念と実在性の理念は、存在者の存在様式について語られたものですから、「どちらも”存在”について問題にしてい」ます。ということは、これらの理念はどちらも「存在一般の何らかの理念を〈前提とする〉ものである」と言えるでしょう。これまでは実在性は、実存の理念と対照される形で画定されてきましたが、より根源的には、「実存と実在性を区別することができるのは、”存在一般の理念という”地平において」だけです。存在一般の理念が把握されて初めて、現”存在”や眼前”存在”といった存在の多様性について理解できるようになるのです。

 このように考えてきたときに生まれてくる疑問があります。循環の問題です。

Soll aber die ontologisch geklärte Idee des Seins überhaupt nicht erst gewonnen werden durch die Ausarbeitung des zum Dasein gehörenden Seinsverständnisses? Dieses jedoch läßt sich ursprünglich nur fassen auf dem Grunde einer ursprünglichen Interpretation des Daseins am Leitfaden der Existenzidee. (p.314)
しかしわたしたちはこれから、現存在にそなわる存在了解を詳細に考察することによって、存在論的に解明された存在一般の理念を手に入れようとしていたのではなかっただろうか。ところがこの存在了解は、実存の理念を導きの糸として、現存在を根源的に解釈することによって、初めて根源的に把握しうるものなのである。

 『存在と時間』では「現存在にそなわる存在了解を詳細に考察することによって、存在論的に解明された存在一般の理念を手に入れようとして」きました。これまでの考察から、現存在の存在様式を分析し解釈することで、「実存の理念」が獲得されましたが、現存在の存在了解は、「実存の理念を導きの糸として」理解されてきたのです。実存の理念が存在一般の理念を前提しているものであるのに、実存分析によって存在一般の理念を手に入れようとするということには、循環論が発生しているのではないでしょうか。
 現存在分析の方法論の第3の軸であるこの循環については、すでに「解釈学的な循環」と呼ばれてきました。第32節では、存在了解における「予ー構造」のために、解釈学的な循環は不可避なものであり、むしろこの循環に入りこむ必要があることが指摘されていました。「決定的に重要なのは、循環のうちから抜けだすことではなく、正しいありかたで循環の中に入りこむことである。この理解の循環というものは、任意の認識様式がそのうちで働いている円環のようなものではなく、現存在そのものの実存論的な”予ー構造”を表現したものなのである」(Part.31)。
 この第63節においても、循環を避けるのではなく、現存在分析の最初から、現存在の循環的な存在を完全に視野に入れておくことが大切だと主張されています。というのも、存在の意味について理解するためには、存在というものを認識しつつ生きることのできる現存在を手掛かりとして、その実存論的な存在様式を理解する必要があるからです。現存在が循環的な存在であるからこそ、現存在分析においては循環に入りこむことが重要なのです。現存在がみずからの存在について語るこのような方法論を表現すると、次のようになります。

Oder hat dieses Voraus-setzen den Charakter des verstehenden Entwerfens, so zwar, daß die solches Verstehen ausbildende Interpretation das Auszulegende gerade erst selbst zu Wort kommen läßt, damit es von sich aus entscheide, ob es als dieses Seiende die Seinsverfassung hergibt, auf welche es im Entwurf formalanzeigend erschlossen wurde? (p.315)
むしろわたしたちの〈前・提〉とは、理解しながら投企するという性格をもつものではないだろうか。すなわち、こうした理解を形成していく解釈が目指すものは、解釈されるべきものに、”みずから発言させて、このものがそうした存在者として、投企において形式的な告示によって開示されている存在機構を示しているかどうか、みずからに決定させる”ということなのである。

 実存論的な解釈について言われる循環論という非難は、実存および存在一般の理念をまず前提にしておいて、それに基づいて現存在を解釈し、そしてそこから存在の理念を確立しようとしているという非難です。しかしここで「前提」ということは、実存の理念で1つの命題を設定して、そこからその他の命題を演繹するようなことではなく、現存在の「予ー構造」による「理解しながら投企するという性格」をもつものです。現存在は気遣いによって根源的に構成されているので、そのつどすでに〈みずからに先立っている〉のであり、こうした実存的な投企のうちで、前存在論的に、実存や存在のようなものをあわせて投企しているのです。そうであれば現存在分析を遂行するためには、現存在に「”みずから発言させて、このものがそうした存在者として、投企において形式的な告示によって開示されている存在機構を示しているかどうか、みずからに決定させる”」という方法をとるべきであるということになります。

 このように、問いの循環を避けるのではなく、現存在が循環的な存在であることを考慮に入れる必要があります。現存在は、つねに前存在論的な存在了解を行いつつ、世界のうちで気遣いしながら生きている存在です。世界のうちで気遣いつつ存在することで、存在の意味を前存在論的にすでに理解しているのであり、この暗黙のうちの理解を明示的なものにすることが求められているのです。
 ここでハイデガーはよくみられる2つの誤謬を指摘します。1つは現存在がすでに世界内存在であることを認識せずに、世界から孤立した自我のような存在であると想定して、この自我に世界や客観を与えようとする考え方です。これはデカルトの哲学やフッサールの超越論的な現象学の立場です。こうした考え方を採用するのであれば、世界内存在としての現存在が、すでに前存在論的に把握しているはずの世界についての存在了解を無視することになってしまいます。このように現存在が「予ー構造」において理解している前存在論的な把握を現存在から奪っておいて、いわば裸にした現存在を「自我」として措定するのであれば、それは現存在に過小な前提を置いたものであると言わざるをえないでしょう。
 もう1つの誤謬は、ベルクソンやディルタイなどの生の哲学にみられるものであり、〈生〉を問題にして、そのあとでおりにふれて死を考慮にいれることを目指すものです。生の哲学においては、今ここで生きている瞬間が理論的に重視されるために、かえって死の意味が軽視される傾向があるとハイデガーは考えます。さらにこの生の哲学においても、第1の誤謬と同じように、生の瞬間を生きる主体が「自我」とみなされることが多いです。これは理論的な主観としての自我に、倫理学で実践的な側面を考察して補完しようとするものであるとハイデガーは指摘します。これでは生についても死についても、人間が人為的に切り離されたことになってしまうでしょう。

 この第63節では、分析のためのこれらの3つの軸について、方法論的に検討してきました。こうした検討は、すでに何度か行われてきた方法論的な考察と重複するところもありますが、ここでは存在一般について、現存在や眼前存在についての考察を含めた形で敷衍されたところに特徴があります。
 次の課題は、存在の問い一般を準備するという本書の究極の課題を実現するために、「基礎となるような実存論的な真理」の獲得を目指す作業です。

Die Analyse der vorlaufenden Entschlossenheit führte zugleich auf das Phänomen der ursprünglichen und eigentlichen Wahrheit. Früher wurde gezeigt, wie das zunächst und zumeist herrschende Seinsverständnis das Sein im Sinne von Vorhandenheit begreift und so das ursprüngliche Phänomen der Wahrheit verdeckt. Wenn es aber Sein nur >gibt<, sofern Wahrheit >ist<, und je nach der Art der Wahrheit das Seinsverständnis sich abwandelt, dann muß die ursprüngliche und eigentliche Wahrheit das Verständnis des Seins des Daseins und des Seins überhaupt gewährleisten. (p.316)
先駆的な決意性の分析によって同時に、根源的で本来的な真理の現象に到達した。すでに指摘したように、さしあたりたいてい支配している存在了解は、存在を眼前性という意味で把握しているので、真理という根源的な現象を覆い隠しているのである。しかし真理が「存在する」のでなければ、存在は「与えられ」ないのであるから、そして真理の存在のありかたにしたがって、そのつど存在了解も変化するのであるから、根源的で本来的な真理は、現存在の存在についての了解と、存在一般についての了解を保証するものでなければならない。

 すでにハイデガーは真理について、真理をあらわにする主体の側面と、あらわにされた真理の側面という2つの側面から考察していました(Part.45参照)。第1の主体の側面からみた真理は、真理をあらわにする現存在において示されるものであり、これが根源的な意味での真理です。ハイデガーはこの側面について、「第1義的な意味で〈真である〉のは、〈露呈しつつあること〉であり、現存在である」と説明しています。第2の側面は、現存在が主体としてあらわにする真理の側面であり、これは存在者が「〈露呈されてあること〉(露呈されること)」です。そしてこの〈露呈されてあること〉は、現存在の開示性によって可能になるのであるから、「現存在がその本質からしてみずからの開示性を”存在し”、開示された現存在として何かを開示し、露呈させるかぎり、現存在は本質からして〈真である〉」ことになります。この意味で「”現存在は〈真理のうちにある〉」のでした。
 ただし日常性において現存在は頽落しているために、「露呈されたものも、歪曲と隠蔽という様態のうちにふたたび沈み込んでしまう。”現存在はその本質からして頽落するものであるために、その存在機構からみても、〈非真理〉のうちにあるのである”」のでした。
 このように現存在が頽落しているときには、現存在は日常的な存在了解において、他の存在者を眼前存在者とみなしてしまいます。その場合、現存在の開示性というありかたが把握されておらず、「さしあたりたいてい支配している存在了解は、存在を眼前性という意味で把握しているので、真理という根源的な現象を覆い隠している」のです。「真理が〈存在する〉のでなければ、存在は〈与えられ〉ない」というのは、開示性としての真理である現存在が存在するのでなければ、すなわち存在了解をする存在者が存在するのでなければ、存在は与えられないということです。そして「真理の存在のありかたにしたがって、そのつど存在了解も変化する」というのは、現存在の存在のありかたにしたがって、存在了解も変化するということを意味します。すると「根源的で本来的な真理は、現存在の存在についての了解と、存在一般についての了解を保証するものでなければならない」のは明らかでしょう。
 この根源的で本来的な真理とは何かというと、それは「もっとも根源的で、基礎となるような実存論的な真理」であり、「”気遣いの存在の意味の開示性”」です。

Die ursprünglichste, grundlegende existenziale Wahrheit, der die fundamentalontologische Problematik - die Seinsfrage überhaupt vorbereitend - zustrebt, ist die Erschlossenheit des Seinssinnes der Sorge. Für die Freilegung dieses Sinnes bedarf es der ungeschmälerten Bereithaltung des vollen Strukturbestandes der Sorge. (p.316)
基礎存在論という問題構成が、存在の問い一般を準備しながら目指しているのは、もっとも根源的で、基礎となるような実存論的な真理であり、これは”気遣いの存在の意味の開示性”である。この意味をあらわにするには、気遣いの構造の全容を、あますところなく確認しておく必要がある。

 存在了解は現存在がもたらすものですから、「存在の問い一般を準備」するためにはまず現存在の存在についても十分な理解が前提として必要になります。そして現存在の存在は気遣いなのであるから、「もっとも根源的で、基礎となるような実存論的な真理であり、これは”気遣いの存在の意味の開示性”である」ということになります。したがって次の課題は、「気遣いの構造の全容を、あますところなく確認」するということになるのです。


 今回は以上です。次回もまた、よろしくお願いします。

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