『存在と時間』を読む Part.45

  (b)真理の根源的な現象と、伝統的な真理の概念の派生的な性格

 ハイデガーは真理を、世界において存在者をあらわにすること、世界内存在である現存在が露呈させることと言い換えました。このような概念規定をすれば、たしかに真理の概念から〈一致〉という考え方を排除することができます。しかしこれは、伝統的な哲学によって考察されてきた真理の概念を無視するという、一見するとかなり恣意的な定義なのではないでしょうか。
 ところがハイデガーは、これは決して恣意的な定義ではなく、古代の哲学においてすでに予感されていたものであることを指摘し、そのことをアリストテレスの哲学に見出しています。

Aristoteles hat nie die These verfochten, der ursprüngliche >Ort< der Wahrheit sei das Urteil. Er sagt vielmehr, der λόγος ist die Seinsweise des Daseins, die entdeckend oder verdeckend sein kann. Diese doppelte Möglichkeit ist das Auszeichnende am Wahrsein des λόγος, er ist die Verhaltung, die auch verdecken kann. Und weil Aristoteles die genannte These nie behauptete, kam er auch nie in die Lage, den Wahrheitsbegriff vom λόγος auf das reine νοεῖν zu >erweitern<. Die >Wahrheit< der αἴσθησις und des Sehens der >Ideen< ist das ursprüngliche Entdecken. Und nur weil νόησις primär entdecket, kann auch der λόγος als διανοεῖν Entdeckungsfunktion haben. (p.226)
アリストテレスは、真理の根源的な「ありか」が判断であるというテーゼを提唱したことはない。むしろロゴスとは現存在の存在のありかたであり、それが露呈することも、”あるいは”隠蔽することもあると語っているのである。この”2重の可能性”は、ロゴスの真理存在の傑出した特徴であり、ロゴスとは”隠蔽的でもありうる”ふるまいなのである。アリストテレスはすでに述べたテーゼを主張したことはなかったのだから、ロゴスについての真理概念を、純粋な思考することにまで「拡張する」ことなど、なしえなかった。感覚の真理も、「イデア」を見ることの真理も、根源的に露呈させることなのである。そして思考は第1義的には露呈するものであるからこそ、ロゴスもまた思考することとして、露呈する機能をもつことができるのである。

 アリストテレスは『命題論』第4章で、ロゴスが命題として語られた場合には、それは真理を語ることであるか、あるいは偽を語ることのどちらかであることを指摘しています。これは、ロゴスが「露呈することも、”あるいは”隠蔽することもある」ということであり、アリストテレスによると、「ロゴスとは”隠蔽的でもありうる”ふるまい」であるからこそ、それが真であることもありえます。
 すでに序論において、ロゴスとは見えるようにすること(アポファンシス)であることが示されてきました(Part.5参照)。すると真理を語ること(覆いを取ること、アレーテウエイン)とは、ロゴスが見えるようにしたそのもののありのままの状態を示すことであり、偽を語ることは、その真の事態を覆い隠すことであると言えるでしょう。
 このようにアリストテレスにおいては、ロゴスは命題として、そのままで事態の実情を語るものであり、命題におけるロゴスの真と偽はあくまでも、知覚によって現実の事態を把握し、ロゴスによって語られていることと事態の一致を判断することにすぎません。たとえば刀鍛冶が出来上がった刀を見て「これは良い出来だ」と言うとき、この言明が真であるのは、その刀が業物であるからであって、その言明を語る者(刀鍛冶)が、「これは良い出来だ」と思うからではありません。命題の真偽を決定するのは言明を語る者の判断ではなく、事態なのです。
 ハイデガーはそこから、「真理の根源的な「ありか」が判断であるというテーゼ」は間違いであると結論します。ここで「判断」という語は、「純粋な思考すること」を意味していますが、この純粋な思考は、純粋なものとして、外界の事態による検証を排除するものとみなされています。しかしアリストテレスにとっては、「感覚の真理も、〈イデア〉を見ることの真理も、根源的に露呈させること」なのです。この露呈、すなわち覆いをとることこそが真理のありかたであり、判断の真偽と混同すべきではないとハイデガーは主張します。

Die These, der genuine >Ort< der Wahrheit sei das Urteil, beruft sich nicht nur zu Unrecht auf Aristoteles, sie ist auch ihrem Gehalt nach eine Verkennung der Wahrheitsstruktur. Nicht die Aussage ist der primäre >Ort< der Wahrheit, sondern umgekehrt, die Aussage als Aneignungsmodus der Entdecktheit und als Weise des In-der-Welt-seins gründet im Entdecken, bzw. der Erschlossenheit des Daseins. Die ursprünglichste >Wahrheit< ist der >Ort< der Aussage und die ontologische Bedingung der Möglichkeit dafür, daß Aussagen wahr oder falsch (entdeckend oder verdeckend) sein können. (p.226)
アリストテレスが、真理の真正な「ありか」が判断であるというテーゼを語ったというのは間違いであるだけでなく、このテーゼはその内容からみても、真理の構造を誤認したものである。言明が真理の第1義的な「ありか」であるのではなく、その”逆である”。言明は〈露呈されてあること〉をわがものとする1つの様態であり、世界内存在の1つのありかたなのである。そうしたものとして露呈されたものに根拠をおくものであり、現存在の”開示性”に依拠しているのである。このもっとも根源的な「真理」こそが、言明の「ありか」であり、言明が真であったり偽であったりしうる(すなわち露呈したり隠蔽したりしうる)ことを可能にする存在論的な条件なのである。

 ハイデガーは「言明が真理の第1義的な〈ありか〉である」という考え方を否定します。この考え方は真理は命題に宿ると考えるものですが、これまで考察してきたアリストテレスの考え方によるかぎり、その逆なのであり、命題こそが真理に宿ると考えるべきなのです。もちろん、命題が真理そのものに宿るということではありません。命題が可能となるのは、現存在が世界において何かを露呈し、あるいは隠蔽する存在であるからこそです。命題は現存在の真理を語る存在あるいは偽を語る存在としての存在様態によって、初めて可能になるのです。というのも「言明は〈露呈されてあること〉をわがものとする1つの様態であり、世界内存在の1つのありかた」だからです。そのようなものとして言明は、露呈することに根拠をおくのであり、「現存在の”開示性”に依拠している」のです。
 このようにして、人間が語る命題と言明が、「真であったり偽であったりしうる(すなわち露呈したり隠蔽したりしうる)ことを可能にする存在論的な条件」は、人間が覆いを取り去って真なるものを露呈する(アレーテウエイン)ことにあると結論できます。現存在が開示性であり、事態の真偽を露呈する存在であるからこそ、命題を語ることができるのです。このことは同時に、人間が偽を語ることの根拠も、この現存在の開示性にあるということを示しています。真を語ることは、偽を語ることと等根源的なものだと言えるでしょう。
 ハイデガーは前節で「〈露呈させつつあること〉としての〈真であること〉は、存在論的にはここでもまた世界内存在に基づいてのみ可能である」ことを主張していましたが、古代の哲学を分析することで、その主張をより一層敷衍して示すのでした。

 これまでの存在論的な分析では、現存在の実存論的な構成と、日常的な存在について考察されてきました。現存在の実存論的な構成では、現存在の開示性が「情態性、理解、語り」によって構成されていたのであり、この開示性によって、現存在の存在性格があらわにされてきました。現存在はこの開示性のために、みずからを露呈する存在です。そして真理が〈露呈されたこと〉や〈露呈しつつあること〉として定義された今、現存在と真理には重要な結びつきがあることが示されます。

Das Entdecken ist eine Seinsweise des In-der-Welt-seins. Das umsichtige oder auch das verweilend hinsehende Besorgen entdecken innerweltliches Seiendes. Dieses wird das Entdeckte. Es ist >wahr< in einem zweiten Sinne. Primär >wahr<, das heißt entdeckend ist das Dasein. Wahrheit im zweiten Sinne besagt nicht Entdeckend-sein (Entdeckung), sondern Entdeckt-sein (Entdecktheit). (p.220)
露呈させることは、世界内存在の1つの存在のありかたであり、〈目配り〉のまなざしの配慮的な気遣いも、立ちどまって眺めやる配慮的な気遣いも、世界内部的な存在者を露呈させるのである。この存在者が〈露呈されたもの〉である。そのことは、第2義的な意味で「真である」。第1義的な意味で「真である」のは、〈露呈しつつあること〉であり、現存在である。第2義的な意味での真理は、〈露呈しつつあること〉(露呈すること)ではなく、〈露呈されてあること〉(露呈されること)である。

 現存在が開示性であることによって、露呈しつつあることが可能になります。そのようなものとして現存在は「第1義的な意味で〈真である〉」と言えますが、それは「〈露呈しつつあること〉であり、現存在である」ありかたにおいてです。真理とは言明における知性と事物の一致であるよりも、まず覆われていたものをあらわにするという現存在の存在様態に固有なありかたなのであり、この存在様態こそが、言明における真理を可能にする根源的な意味をそなえているのです。
 この第1義的な真理は、現存在が開示性であることから生まれるものです。現存在は開示性において、自己の存在様態を「気遣い」と結びついた存在様態として、根源的に示します。

Die Struktur der Sorge als Sichvorweg - schon sein in einer Welt - als Sein bei innerweltlichem Seienden birgt in sich Erschlossenheit des Daseins. Mit und durch sie ist Entdecktheit, daher wird erst mit der Erschlossenheit des Daseins das urpsrünglichste Phänomen der Wahrheit erreicht. Was früher hinsichtlich der existenzialen Konstitution des Da und bezüglich des alltäglichen Seins des Da aufgezeigt wurde, betraf nichts anderes als das ursprünglichste Phänomen der Wahrheit. Sofern das Dasein wesenhaft seine Erschlossenheit ist, als erschlossenes erschließt und entdeckt, ist es wesenhaft >wahr<. Dasein ist >in der Wahrheit<. (p.220)
気遣いは、〈世界内部的な存在者のもとにある存在〉として、”自己に先立って”〈ある世界のうちにすでに存在していること〉という構造をそなえているのであり、この構造は現存在の開示性をみずからのうちに含んでいる。〈露呈されてあること〉はこの開示性”とともに”、この開示性”によって”あるのであり、このことから、現存在の”開示性”とともにあることで、初めて”もっとも根源的な”真理の現象に到達するのである。これまで〈そこに現に〉の実存論的な構成について示したことは、そして〈そこに現に〉の日常的な存在について示したことは、真理のもっとも根源的な現象にかかわるものにほかならなかったのである。現存在がその本質からしてみずからの開示性を”存在し”、開示された現存在として何かを開示し、露呈させるかぎり、現存在は本質からして「真である」のである。”現存在は「真理のうちにある」のである”。

 ハイデガーによると、現存在の覆われていたものをあらわにするという存在様態が「”もっとも根源的な”真理の現象」なのであり、これは現存在が開示性であることによって可能となります。すなわち「〈露呈されてあること〉はこの開示性”とともに”、この開示性”によって”あるのであり、このことから、現存在の”開示性”とともにあることで、初めて”もっとも根源的な”真理の現象に到達する」ということになります。
 しかし同じく重要なことは、現存在はみずからの存在様態を開示しながら、自己を取り囲んで世界を形成する事物を同時に露呈する存在者だということです。ここで開示することは現存在について語られる事柄であり、露呈することは世界の事物について、すなわち現存在でない事物について語られることです。現存在は世界内存在として「〈目配り〉のまなざしの配慮的な気遣いも、立ちどまって眺めやる配慮的な気遣いも、世界内部的な存在者を露呈させる」のであり、世界のさまざまな事物を露呈し、その真理を示す存在であると言えるでしょう。
 これが「第2義的な意味での真理」であり、こうした「意味での真理は、〈露呈しつつあること〉(露呈すること)ではなく、〈露呈されてあること〉(露呈されること)」だと指摘されます。現存在はみずからを「開示する」存在者として、第1義的な意味で真理の場にあり、世界の世界内部的な存在者を「露呈する」存在者として、第2義的な意味で真理の場にあるのです。
 刀匠は世界内存在として、まずその開示性というありかたで「そこに現に」を存在する存在者です。そのように存在することによって初めて、世界内部的な存在者である刀にかかわることができるのであり、刀という事物を露呈させることが可能になります。こうして「この刀は良いものだ」という言明も可能になるのであり、その際この言明は、たんに露呈された世界内部的な存在者について語るだけではなく、そのように刀について目利きするみずから(刀匠)についても語るのです。「現存在がその本質からしてみずからの開示性を”存在し”、開示された現存在として何かを開示し、露呈させるかぎり、現存在は本質からして〈真である〉のである」。

 このようにして、ハイデガーは「”現存在は〈真理のうちにある〉のである”」と語ましたが、この命題の実存論的な意味は、これまでの分析の成果に基づいて4つの規定によって言い換えることができます。

1. Zur Seinsverfassung des Daseins gehört wesenhaft Erschlossenheit überhaupt. (p.221)
第1に、現存在の存在機構には、その本質からして”開示性一般”が属している。

 現存在は開示性において、現存在の世界内存在だけではなく、同時に現存在を取り囲む現存在ではない事物も露呈します。現存在はみずからの存在を開示しながら、世界内部的な存在者をも同時に露呈するのです。これが、「現存在の存在機構には、その本質からして”開示性一般”が属している」ということであり、こうした存在様態のために、世界内部的な存在者が〈露呈されてあること〉は、現存在の開示性の存在と等根源的なものであると言うことができます。すなわち、第1義的な真理は同時に、第2義的な真理を伴うのであり、これらが等根源的であることが、真理の問題の第1局面です。

2. Zur Seinsverfassung des Daseins und zwar als Konstitutivum seiner Erschlossenheit gehört die Geworfenheit. (p.221)
第2に、現存在の存在機構には、しかもその開示性の構成要素の1つとして、”被投性”が属している。

 現存在の存在機構における真理の問題の第2の局面は、現存在が世界に投げ込まれた”被投性”という存在様式のうちにあることです。現存在は、ある特定の世界においてそのつどすでに〈わたしのもの〉として、また〈このような現存在〉として、特定の世界内部的な存在者の特定の圏域のうちで存在します(そのつどすでに〈わたしのもの〉という「各私性」についてはPart.8参照)。現存在はつねにこの1人の〈わたし〉として、わたしとわたしを取り囲む世界とを開示します。この局面で開示されるのは、わたしが生きているこの世界の事実性であり、現存在と世界の関係の真理です。開示性はその本質からして、事実的な開示性だと言えるでしょう。

3. Zur Seinsverfassung des Daseins gehört der Entwurf: das erschließende Sein zu seinem Seinkönnen. (p.211)
第3に、現存在の存在機構には、”投企”が属している。投企は、みずからの存在可能にかかわる開示的な存在である。

 現存在の存在機構にある第3の局面は、現存在がつねに”被投性”のうちにありながらも、つねに自己の生き方を選択する投企という存在様式のうちにあることです。

Dasein kann sich als verstehendes aus der >Welt< und den Anderen her verstehen oder aus seinem eigensten Seinkönnen. Die letztgenannte Möglichkeit besagt: das Dasein erschließt sich ihm selbst im eigensten und als eigenstes Seinkönnen. Diese eigentliche Erschlossenheit zeigt das Phänomen der ursprünglichsten Wahrheit im Modus der Eigentlichkeit. Die ursprünglichste und zwar eigentlichste Erschlossenheit, in der das Dasein als Seinkönnen sein kann, ist die Wahrheit der Existenz. Sie erhält erst im Zusammenhang einer Analyse der Eigentlichkeit des Daseins ihre existenzial-ontologische Bestimmtheit. (p.221)
現存在は理解する存在であるから、世界と他者のほうから”みずからを”理解することが”できる”し、またみずからに固有の存在可能から、”みずからを”理解することも”できる”。みずからに固有の存在可能からみずからを理解するということは、現存在はみずからのもっとも固有な存在可能において、あるいはみずからのもっとも固有な存在可能として、みずからをみずからに開示するということである。この”本来的な”開示性は、本来性という様態で、もっとも根源的な真理の現象を示すのである。もっとも根源的で、しかももっとも本来的な開示性が、”実存の真理”なのであり、この開示性のうちでこそ現存在は、存在可能として存在することができるのである。この実存の真理の実存論的かつ存在論的な規定性は、現存在の本来性の分析の連関のうちで初めて明らかにされることになろう。

 現存在にはみずからを理解する2つの可能性がありました。1つが「世界と他者のほうから”みずからを”理解する」ことであり、もう1つが「みずからに固有の存在可能から、”みずからを”理解する」ことです。これら2つの可能性のうち、後者の方が「本来的」というように語られるありかたであり、ここでは「本来的な開示性」と言われています。「この”本来的な”開示性は、本来性という様態で、もっとも根源的な真理の現象を示す」のであり、「もっとも根源的で、しかももっとも本来的な開示性が、”実存の真理”」だと指摘されています。この第3の局面で、現存在は自己に固有のありかたを選択するという本来的な開示性にあることで、真理の存在となります。
 このように、現存在の存在機構の最初の局面では、現存在は開示するとともに露呈する存在者として、根源的な真理の場にあります。しかしこの素朴な真理の開示は、そのままでは意味をもちません。というのも、現存在は世界のうちに被投された存在であり、”頽落”のうちで真理を隠蔽するからです。

4. Zur Seinsverfassung des Daseins gehört das Verfallen. Zunächst und zumeist ist das Dasein an seine >Welt< verloren. Das Verstehen, als Entwurf auf die Seinsmöglichkeiten, hat sich dahin verlegt. Das Aufgehen im Man bedeutet die Herrschaft der öffentlichen Ausgelegtheit. Das Entdeckte und Erschlossene steht im Modus der Verstelltheit und Verschlossenheit durch das Gerede, die Neugier und die Zweideutigkeit. (p.221)
第4に、現存在の存在機構には”頽落”が属している。さしあたりたいていは現存在はみずからの「世界」のうちに自己を喪失している。理解することは、さまざまな存在可能性に向かって投企することであるが、それが世界のうちに置き入れられているのである。世人のうちに没頭するということは、公共的に解釈されたありかたによって支配されているということである。〈露呈されたもの〉と〈開示されたもの〉は、語り、好奇心、曖昧さによって歪曲され、閉塞された様態のうちにある。

 現存在は被投性の存在でありながら、投企によって自己の本来の可能性を自覚し、選択することができるはずです。ところが実際には「〈世界〉のうちに自己を喪失して」おり、「世人のうちに没頭する」というありかたをしているのであり、「〈露呈されたもの〉と〈開示されたもの〉は、語り、好奇心、曖昧さによって歪曲され、閉塞された様態のうちにある」のです。
 これは現存在がひとたび露呈した真理が、日常性における頽落の存在様態のうちで忘却され、隠されてしまうということです。たとえば、ある人が真剣に何かに取り組み、それについて何かを露呈し、それを詩のうちに表現したとしましょう。その詩が意味するのは、その人によってつかみ取られた固有の真理です。しかしそれが出版され、多数の人によって読み継がれていくたびに、その詩の解釈は語り、好奇心、曖昧さという日常性の存在様態において歪められていき、詩に込められた固有の真理は公共的な解釈のうちに隠蔽されてしまうことになるでしょう。

Das Sein zum Seienden ist nicht ausgelöscht, aber entwurzelt. Das Seiende ist nicht völlig verborgen, sondern gerade entdeckt, aber zugleich verstellt; es zeigt sich - aber im Modus des Scheins. Imgleichen sinkt das vordem Entdeckte wieder in die Verstelltheit und Verborgenheit zurück. Das Dasein ist, weil wesenhaft verfallend, seiner Seinsverfassung nach in der >Unwahrheit<. (p.222)
存在者へと向かう存在は失われたわけではないが、根こそぎになっているのである。存在者は完全に隠されているわけではなく、まさに露呈されているのだが、同時に歪められている。存在者はみずからを示しているものの、仮象という様態でみずからを示しているのである。さらにかつて露呈されたものも、歪曲と隠蔽という様態のうちにふたたび沈み込んでしまう。”現存在はその本質からして頽落するものであるために、その存在機構からみても、「非真理」のうちにあるのである”。

 しかしハイデガーは、現存在がこのように頽落して自己の真理を忘却するというありかたもまた、現存在が真理のうちにあることによって可能となることを指摘します。

Der volle existenzial-ontologische Sinn des Satzes: >Dasein ist in der Wahrheit< sagt gleichursprünglich mit: >Dasein ist in der Unwahrheit<. Aber nur sofern Dasein erschlossen ist, ist es auch verschlossen; und sofern mit dem Dasein je schon innerweltliches Seiendes entdeckt ist, ist dergleichen Seiendes als mögliches innerweltlich Begegnendes verdeckt (verborgen) oder verstellt. (p.222)
「現存在は真理のうちにある」という命題の完全な実存論的かつ存在論的な意味は、それと等根源的に「現存在は非真理のうちにある」ということを語っているのである。しかし現存在は開示されたものであるからこそ、閉ざされたものでもある。そして現存在とともに、世界内部的な存在者はそのつどすでに露呈されているからこそ、そうした存在者は〈世界内部的に出会う可能性のあるもの〉として覆われ(隠され)、歪められているのである。

 現存在は存在から真理を何度でも、確保しなければなりません。すでに〈露呈されたもの〉についても、それを仮象や歪曲に抗して明示的にわがものにする必要があるのです。現存在は本質的に頽落していますから、そのような新たな露呈は、完全に隠されてあることを基礎にして行われるのではなく、仮象の様態(語り、好奇心、曖昧さ)で〈露呈されてあること〉を出発点として行われます。存在者は露呈されてはいるものの、歪められているのであり、真理は、その〈隠されてあること〉から引き離すようにして獲得されるのです。

Die jeweilige faktische Entdecktheit ist gleichsam immer ein Raub. Ist es Zufall, daß die Griechen sich über das Wesen der Wahrheit in einem privativen Ausdruck (ἀ-λήθεια) aussprechen? Kündigt sich in solchem Sichaussprechen des Daseins nicht ein ursprüngliches Seinsverständnis seiner selbst an, das wenngleich nur vorontologische Verstehen dessen, daß In-der-Unwahrheit-sein eine wesenhafte Bestimmung des In-der-Welt-seins ausmacht? (p.222)
そのつどの事実的な〈露呈されてあること〉は、いわば”奪取”である。ギリシア人たちが、真理の本質について”欠如的な”ア・レーテイア(隠れなさ)という表現をしたのは、偶然であろうか。現存在のこのように自己について語る言葉のうちで、自己についての根源的な存在了解が告知されているのではないだろうか。すなわち、前存在論的な理解にすぎないとしても、世界内存在の本質的な規定が〈非真理のうちにある〉ということが告知されているのではないだろうか。

 ここでハイデガーは、真理(アレーテイア)とは、「忘却、隠匿」を意味する語であるレーテー(>λήθη<)を否定すること、すなわち「非忘却、非隠匿」であることに注目します(ギリシア語では接頭辞のアは否定詞の意味をもちます)。ハイデガーは、ギリシア人たちが真理を「隠されていないこと(隠れなさ)」という欠如的な表現をしたことを重要なことだと考えており、「前存在論的な理解にすぎないとしても、世界内存在の本質的な規定が〈非真理のうちにある〉ということが告知されている」と語っています。現存在は本質的に隠蔽された状態にあり、それから覆いを取っていく存在者だということが、真理の語の意味からも見受けられるのです。

 さて、ここまで真理の現象について4つの局面から考察されてきましたが、そこから2つのテーゼを確認することができます。第1に、もっとも根源的な意味での真理は、現存在の開示性であり、この開示性には、世界内部的な存在者の〈露呈されてあること〉が含まれるということです。第2に、現存在は等根源的に、真理と非真理のうちに存在しているということです。そしてこれらの確認事項が提起されることで、真理についての認識と表現が、どのようにして「知性と事物の一致」に変様したのかが示されることになります。
 すでに言明と、言明の構造である語りの〈として〉が、解釈とその構造である解釈学的な〈として〉に基礎づけられたものであり、これらはさらに理解に、現存在の開示性に基礎づけられていることが指摘されてきました(Part.32参照)。ところが、真理を「知性と事物の一致」とする考え方においては、真理はこうした派生的な言明の卓越した規定とみなされています。しかし言明の真理の根は、もともとは理解の開示性のうちにひそんでいたのであり、この「一致」という現象をその派生的な性格において明示的に示す必要があるでしょう。

 それでは派生的な真理の理論の誕生のプロセスはどのようなものでしょうか。まずは言明における存在者の露呈について確認していきましょう。

Das Sein bei innerweltlichem Seienden, das Besorgen, ist entdeckend. Zur Erschlossenheit des Daseins aber gehört wesenhaft die Rede. Dasein spricht sich aus; sich - als entdeckendes Sein zu Seiendem. Und es spricht sich als solches über entdecktes Seiendes aus in der Aussage. Die Aussage teilt das Seiende im Wie seiner Entdecktheit mit. (p.223)
世界内部的な存在者のもとでの存在は、配慮的な気遣いであるが、この気遣いは露呈しつつあるものである。しかし現存在の開示性には、その本質からして語りが属している。現存在はみずからを語りだす。すなわち存在者へ向かいながら露呈しつつある存在としての”みずから”を語るのである。そして現存在がみずからをこのような存在として言明において語るのは、露呈された存在者についてである。この言明は、存在者がどのように露呈されてあるかを伝達するのである。

 刀鍛冶の例で追ってみましょう。刀匠は槌で鉄を打つ工程において、刀匠としてのみずからについて、そして道具としての槌や素材としての鉄という手元存在者について、「この鉄はもっと打つ必要があるな」とか、「他の槌を使うべきだな」というように語ります。これらの語りは刀を製作するという目的連関のうちに語られる言葉であり、刀匠がどのような世界に存在しているのかをみずからに語るのです。そしてこの語りが他者に向けられると、それは伝達としての言明となります。

Das die Mitteilung vernehmende Dasein bringt sich selbst im Vernehmen in das entdeckende Sein zum besprochenen Seienden. Die ausgesprochene Aussage enthält in ihrem Woüber die Entdecktheit des Seienden. Diese ist im Ausgesprochenen verwahrt. Das Ausgesprochene wird gleichsam zu einem innerweltlich Zuhandenen, das aufgenommen und weitergesprochen werden kann. (p.224)
この伝達を聞いた現存在は、その〈聞くこと〉において、語られている存在者とかかわりながら、露呈しつつある存在のうちへと、みずからをもたらす。語られた言明は、〈それについて〉の語りのうちに、存在者の〈露呈されてあること〉を含んでいるのである。この〈露呈されてあること〉は、それについて語られた言葉のうちに保存されている。語られた言葉は、いわば世界内部的に手元存在的なものとなり、それが採用されて語り継がれることができるようなものである。

 刀匠が「この鉄はもっと打つ必要がある」と語るとき、これを聞いた弟子は「その〈聞くこと〉において、語られている存在者とかかわりながら、露呈しつつある存在のうちへと、みずからをもたら」します。このとき語られた言明は、鉄についての語りのうちに、鉄の〈露呈されてあること〉を含んでいるのであり、弟子はこの言明を聞くことによって、「これはもっと打つ必要があるんだな」とみずからもその鉄について露呈することになります。師匠が鉄について露呈させたことが、語られた言葉のうちに「保存されている」のであり、この言明が「いわば世界内部的に手元存在的なものとなり、それが採用されて語り継がれることができるようなもの」になることによって、弟子もまた露呈させることができるようになるのです。

Auf Grund der Verwahrung der Entdecktheit hat das zuhandene Ausgesprochene an ihm selbst einen Bezug zum Seienden, worüber das Ausgesprochene jeweils Aussage ist. Entdecktheit ist je Entdecktheit von ... Auch im Nachsprechen kommt das nachsprechende Dasein in ein Sein zum besprochenen Seienden selbst. Es ist aber und hält sich für enthoben einem ursprünglichen Nachvollzug des Entdeckens. (p.224)
この手元的に存在する語られた言葉は、〈露呈されてあること〉を保存していることによって、語られた言葉が語っている〈それについて〉が、存在者への関連をみずからのうちにもっているのであり、その存在者〈について〉語られたことが、そのときどきの言明である。〈露呈されてあること〉とは、そのつど、〈~について露呈されてあること〉である。受け売りをするときでも、受け売りする現存在は、語られている存在者そのものに向かう存在のもとにやってくる。しかしそうした現存在は、露呈という行為を根源的にあらためて遂行することを免除されているし、免除されていると考えている。

 露呈を伝達するための手段という性格をおびた言葉は、手元的な存在者になります。師匠の言明は、この手元存在者の性格によって弟子に伝達され、さらにその弟子を通してまた他の人へと語り伝えられることが可能となります。このとき、原初的なものとしての師匠の露呈である〈鉄について〉は、この言明がその〈露呈されてあること〉を保存しているがゆえに、弟子にとっては「露呈という行為を根源的にあらためて遂行することを免除されている」ということになります。弟子はその鉄について、あらためて実際に師匠の工程を踏むことがなくても、師匠の言葉によって露呈させることができるのであり、弟子もやはり「語られている存在者そのものに向かう存在のもとにやってくる」と言えるでしょう。
 このように、現存在は必ずしも「原初的な」経験のうちで、存在者そのものに直面するとはかぎりませんが、それでもそのときどきにおうじて、この存在者に向かう存在のうちにとどまっています。刀鍛冶の例では、師匠が弟子に眼の前でやって見せたものを言葉に表現することで伝達していましたから、これは比較的原初的な経験に近いものとなっているでしょう。原初的な経験のうちでは、師匠が弟子に語ったその言葉は、生き生きとした経験のうちでの世界内部的な存在者の露呈を表現していたはずです。しかしその言葉が次々と伝達されていき、刀鍛冶に関係のない人の世間話になるとどうでしょうか。「この鉄はもっと打つ必要がある」という言葉は、実際に鉄を打っているその瞬間において、刀鍛冶の世界との連関を保っている存在者でしたが、それが日常生活において世間話として語られるようになると、刀鍛冶の世界から切り離された無世界的な存在者であるかのように思われるようになるのです。こうした言葉のうちでは、露呈された存在者そのものではなく、その露呈を表現する言明と、その露呈において語られた対象との関係が表現されるようになります。このように、言葉が伝達の手段となり、原初的な経験が語り伝えられるだけのものとなると、手元的な存在者とされた言葉が、次第に眼前的な存在者であるかのように思われてくるのです。
 言明は、存在者に向かう結びつきをそなえており、〈露呈されてあること〉を保存しています。

Die Aussage ist ein Zuhandenes. Das Seiende, zu dem sie als entdeckende Bezug hat, ist innerweltlich Zuhandenes, bzw. Vorhandenes. Der Bezug selbst gibt sich so als vorhandener. Der Bezug aber liegt darin, daß die in der Aussage verwahrte Entdecktheit je Entdecktheit von ... ist. Das Urteil >enthält etwas, was von den Gegenständen gilt< (Kant). Der Bezug erhält aber durch die Umschaltung seiner auf eine Beziehung zwischen Vorhandenen jetzt selbst Vorhandenheitscharakter. (p.224)
こうした言明は、1つの手元的な存在者になっている。その言明が、露呈する言明としてそれへの結びつきをそなえている存在者は、世界内部的な手元的な存在者であるが、眼前的な存在者である。そのためこの結びつきはそのものも、眼前的に存在するようにみえる。しかしこの結びつきは、言明のうちに保存された〈露呈されてあること〉のそれぞれが、〈~が露呈されてあること〉であることによって生まれているのである。判断は「対象について妥当する何かを含んでいる」(カント)。ところがこの結びつきは、それが2つの眼前的な存在者のあいだの関係へと転換されたために、それ自身が眼前的な性格をおびるのである。

 師匠が鉄について露呈したこと(鉄が露呈されてあること)を表現した言明は、刀の素材としての手元的な存在者に結びついたものです。しかしその原初的な経験が失われると、伝達の手段としての言葉のうちで語られた言明は、あたかも眼前的な存在者であるかのような性格をおびることになり、また、その言明が鉄という存在者とのあいだでもっている結びつきそのものも、無世界的な言語空間のうちで眼前的な存在者であるようにみられるようになります。

Entdecktheit von ... wird zur vorhandenen Gemäßheit eines Vorhandenen, der ausgesprochenen Aussage, zu Vorhandenem, dem besprochenen Seienden. Und wird die Gemäßheit nur mehr noch als Beziehung zwischen Vorhandenem gesehen, das heißt wird die Seinsart der Beziehungsglieder unterschiedslos als nur Vorhandenes verstanden, dann zeigt sich der Bezug als vorhandenes Übereinstimmen zweier Vorhandener. (p.224)
〈~が露呈されてあること〉は、眼前的な存在者としての語られた言明が、語られた存在者という別の眼前的な存在者”へと”、眼前的に存在しつつ適合しているということになる。そしてこの適合性は、2つの眼前的な存在者のあいだの関係としてみられるだけになり、関係する2つの項の存在様式はどれも、区別なくたんなる眼前的な存在者として理解されるだけになるので、この結びつきは2つの眼前的な存在者のあいだの眼前的な〈一致〉であるようにみえることになる。

 人々に伝達されることを目的とした言明では、師匠の個人的な判断と経験も、それが眼前的な言葉と、こうした言葉で表現された眼前的な存在者のあいだの関係についての表現になっているために、それ自身が眼前的な性格をおびることになります。こうした表現で語られるのは、2つの眼前的な存在者のあいだの関係であり、この関係は眼前的な結びつきとして表現されるために、「この結びつきは2つの眼前的な存在者のあいだの眼前的な〈一致〉であるようにみえる」ようになるのです。

Die Entdecktheit des Seienden rückt mit der Ausgesprochenheit der Aussage in die Seinsart des innerweltlich Zuhandenen. Sofern sich nun aber in ihr als Entdecktheit von ... ein Bezug zu Vorhandenem durchhält, wird die Entdecktheit (Wahrheit) ihrerseits zu einer vorhandenen Beziehung zwischen Vorhandenen (intellectus und res). (p.225)
”存在者の〈露呈されてあること〉は、言明が語りだされるとともに、世界内部的な手元存在者の存在様式に変わる。しかし〈~が露呈されてあること〉としての言明のなかには、眼前的に存在するものへの結びつきがずっと維持されているので、〈露呈されてあること〉としての真理そのものも、2つの眼前的に存在するもの(知性と事物)のあいだで、眼前的に存在する関係になるのである”。

 現存在の開示性のうちに基礎づけられた〈露呈されてあること〉という実存論的な現象は、まだある種の存在者との結びつきを秘めているという性格は存在していますが、眼前的な特性となってしまい、こうした特性として、眼前的な関係へと転換されます。開示性としての真理は、そして露呈された存在者に向かう露呈しつつある存在としての真理は、世界内部的に存在する2つの眼前的な存在者の〈一致〉としての真理になったのです。このようにして伝統的な真理概念は、存在論的に派生的な性格のものであることが示されたことになります。

 この言葉における真理の変容のプロセスは、現存在における頽落のプロセスと対応することで、初めて可能となったものでもあります。生き生きとした原初的な経験の喪失は、言葉が伝達されることによって生じるものであり、ある意味では不可避的なものです。

Was jedoch in der Ordnung der existenzial-ontologischen Fundierungszusammenhänge das Letzte ist, gilt ontisch-faktisch als das Erste und Nächste. Dieser Faktum aber gründet hinsichtlich seiner Notwendigkeit wiederum in der Seinsart des Daseins selbst. Im besorgenden Aufgehen versteht sich das Dasein aus dem innerweltlich Begegnenden. Die dem Entdecken zugehörige Entdecktheit wird zunächst innerweltlich im Ausgesprochenen vorgefunden. Aber nicht nur die Wahrheit begegnet als Vorhandenes, sondern das Seinsverständnis überhaupt versteht zunächst alles Seiende als Vorhandenes. (p.225)
ところが実存論的かつ存在論的な基礎づけ連関の秩序においては最後であるものが、存在者的かつ事実的には最初のもの、もっとも身近なものとみなされている。しかしこうした事実がまた、現存在そのものの存在様式に必然的に根差しているのである。現存在は配慮的な気遣いのもとで、没頭しているのであり、そのために世界内部的に出会うもののほうから、みずからを理解する。露呈することに含まれる〈露呈されてあること〉は、さしあたりは世界内部的に語り”だされた”言葉のうちにみいだされる。しかし眼前的な存在者として出会われるものは真理だけではない。存在了解一般は、さしあたりすべての存在者を眼前的な存在者として理解しているのである。

 たとえば本において、わたしたちの生きた経験が言語化され、文字によって表現され、それが印刷されて流布される段階では、生きた経験はあたかも眼前的な存在者についての経験として読まれるようになります。そしてこうした経験を読んだ人のうちでは、最初に露呈としての真理を語った人にとっては生き生きとした経験がたどった頽落のプロセスの最後の段階であるものが、初めて読んだ経験となり、生々しい読書経験となるでしょう。それは「存在者的かつ事実的には最初のもの、もっとも身近なものとみなされている」のは、当然です。
 英雄譚を読むことは、日常の生活ではえられない貴重な体験をさせてくれます。その読書体験のうちで、これまで知らなった風景と新しい生き方を疑似的に経験することができます。しかし同時に、この経験は読者が自分でなした経験ではありません。本の中で主人公が戦いのさなかにあるとき、読者は暖かい部屋で寝ころがりながら、お菓子を食べつつ読むことができます。読者は読書の経験のうちで、戦いの壮絶な体験を経験することができますが、それは読者の今の体験ではありません。「露呈することに含まれる〈露呈されてあること〉は、さしあたりは世界内部的に語り”だされた”言葉のうちにみいだされる」のです。
 あるいは英雄譚では、戦いにおもむく主人公の特別な武具が登場しますが、こうした剣や槍について読んだとします。そのとき読者はそうした武具について、それを手元的な存在者としての道具とみなしているわけではないいのであり、眼の前に書かれた文字の羅列のなかから、その武具を想像し、そうした道具を使っている自分を想像するだけです。この場合、本の中の主人公にとっては、その剣は戦うために必要な道具としてその世界のうちでの切実な経験とともにありますが、読者は「配慮的な気遣いのもとで、没頭しているのであり、そのために世界内部的に出会うもののほうから、みずからを理解する」ことになるでしょう。主人公にとってその剣は、〈そのための目的〉に向かう目的連関のうちにある手元存在者となっており、みずからの実存をかけた道具として理解されているはずです。これに対して読者にとってこの剣は、自分の実存とはかかわりのない、生きる世界とは切り離されたものであるから、眼前的な存在者として理解されるようになります。こうした理解では「さしあたりすべての存在者を眼前的な存在者として理解している」ことになるでしょう。

Weil diese aber dem Sinne von Sein überhaupt gleichgesetzt ist, kann die Frage, ob diese Seinsart der Wahrheit und ihre nächst begegnende Struktur ursprünglich sind oder nicht, überhaupt nicht lebendig werden. Das zunächst herrschende und noch beute nicht grundsätzlich und ausdrücklich überwundene Seinsverständnis des Daseins verdeckt selbst das ursprüngliche Phänomen der Wahrheit. (p.225)
ところがこの眼前性が存在一般の意味と同じものと考えられているために、その真理の存在様式が、そしてひとがそれとごく身近に出会う構造が、根源的なものなのかどうかという問いが、そもそも切実なものになることは”ありえない”のである。”さしあたり支配的なものであり、現在でも原則的かつ明示的に克服されていない現存在のこうした存在了解が、真理の根源的な現象を、隠蔽してしまうのである”。

 たんに英雄譚を読む経験では、そうした剣や戦いを露呈する真理としての存在方式のもとにあることはないし、「ひとがそれとごく身近に出会う構造が、根源的なものなのかどうかという問い」が生まれることも、そうした問いが「切実なものになること」もありえません。そして現存在のこうした「”存在了解が、真理の根源的な現象を、隠蔽してしまう”」のです。現存在のこのような頽落のうちの存在了解が、書かれた文字における真理の変容をもたらした重要な原因であると考えることができるでしょう。


 (b)項は以上になります。今回は真理の根源的な現象が開示性にあり、伝統的な〈一致〉の真理概念が開示性としての真理から派生したものであることが示されました。第44節は、次の(c)項で完了します。次回もよろしくお願いします。

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