『存在と時間』を読む Part.42

  第43節 現存在、世界性、実在性

 ここまで、現存在の世界内存在にかかわるほぼすべての重要な実存カテゴリーが明らかにされてきました。ここでハイデガーは本書の最初の問いに戻ります。「存在の意味への問い」がそもそも可能であるのは、わたしたち現存在の存在様式に、存在了解が含まれているからでした。ただし、こうした存在了解は前存在論的なものであることも多いのでした。

Das vorontologische Seinsverständnis umgreift zwar alles Seiende, das im Dasein wesenhaft erschlossen ist, das Seinsverständnis selbst hat sich aber noch nicht entsprechend den verschiedenen Seinsmodi artikuliert. (p.200)
こうした前存在論的な存在了解はたしかに、現存在においてその本質からして開示されているすべての存在者にかかわるものであるが、存在了解そのものについては、多様な存在様態にふさわしい分節化がまだ行われていないのである。

 存在了解は現存在だけではなく、手元存在者、眼前的な存在者、共同現存在にもかかわるものですが、そのために、「多様な存在様態にふさわしい分節化」が求められます。この節ではその分節化を目指すことになります。

 ここで重要なのは、存在一般の意味を問う場合にも、まずは存在者の意味を問うことから始めなければならないということですが、その際に伝統的な哲学のまなざしには、世界内存在にとってもっとも身近な手元的な存在者の存在を飛び越えてしまうという問題があります。

Die Interpretation des Verstehens zeigte zugleich, daß sich dieses zunächst und zumeist schon in das Verstehen von >Welt< verlegt hat gemäß der Seinsart des Verfallens. Auch wo es nicht nur um ontische Erfahrung, sondern um ontologisches Verständnis geht, nimmt die Seinsauslegung zunächst ihre Orientierung am Sein des innerweltlichen Seienden. Dabei wird das Sein des zunächst Zuhandenen übersprungen und zuerst das Seiende als vorhandener Dingzusammenhang (res) begriffen. Das Sein erhält den Sinn von Realität. Die Grundbestimmtheit des Seins wird die Substanzialität. Dieser Verlegung des Seinsverständnisses entsprechend, rückt auch das ontologische Verstehen des Daseins in den Horizont dieses Seinsbegriffes. Dasein ist auch wie anderes Seiendes real vorhanden. (p.201)
同じように理解について解釈することで明らかになったことは、理解はさしあたりたいていは、頽落という存在様式のもとで、「世界」についての理解に変わってしまっているということである。存在の解釈は、それがたんに存在者的な経験だけではなく、存在論的な了解を目指す場合にも、さしあたりは世界内部的な存在者の存在に、その方向性を求めることになる。しかもその際に、さしあたりは手元的な存在者の存在は飛び越えてしまって、存在者をまず何よりも眼前的な事物の連関(事物〈レス〉)として把握するのである。このとき”存在”は、”実在性”という意味をおびることになる。こうして存在の根本規定は〈実体性〉ということになる。存在了解がこのように変化してくるのに対応して、現存在についての存在論的な了解も、この存在概念の地平に移されることになる。”現存在”は、ほかの存在者と同じように、”実在的で眼前的なものとしてある”ことになる。

 伝統的な哲学においては、手元的な存在者が眼前的な存在者とみなされ、こうした存在者の基本的なありかたが、事物(>res<)の存在形式としての実在性(>Realität<)の観点から眺められるのがつねでした。このとき「”存在”は、”実在性”という意味をおびる」ことになります。さらに事物の実在性は、哲学の伝統において、事物のもっとも基本的な存在様態とみなされた「実体性」の概念と結びつけられます。こうして「存在の根本規定は〈実体性〉ということになる」のです。
 この実在性と実体性という2つの概念について、ごく簡単にではありますが確認してみましょう。まず実体性(>Substanzialität<)という概念についてですが、これはすでに考察されてきました(Part.19参照)。デカルトは、実体という概念を「存在するために他のいかなるものをも必要とすることなく存在しているもの」と定義しました。そして本来の意味で、存在することに他のいかなるものも必要としないのは神だけであることを認めながらも、精神と物体だけは、「存在するためには、ただ神の協力のみを必要とすればよい事物である」と考えて、これらも実体とみなしました。このようにして実体は、神を別とすると、「物体的な実体と精神すなわち考える実体」の2種類に分類されたのです。このデカルトの定義においては、精神も物体も、神によって創造された被造物として、「製作されたもの」として考えられていることは、すでに指摘されてきたとおりです。
 すべての存在者は、神が製作した事物とみなされることで、道具のような手元的な存在者と自然の事物のような眼前的な存在者と、人間である現存在のあいだにある存在論的な差異が無視されるようになり、すべてのものが事物という観点から考察されるようになりました。こうして「”現存在”は、ほかの存在者と同じように、”実在的で眼前的なものとしてある”ことになる」のです。
 さまざまな存在者の存在様式の違いを無視して、すべての存在者を事物(>res<)として、その実在性の観点から眺められることになったという点で、これは哲学的には重要な帰結をともなうものでした。ここで実在性(>Realität<)という語は、あるものが実際に存在するかどうかという日本語の「実在」の意味ではなく、「事物」であること、すなわち「事物性」として理解されるようになりました。この>Realität<というドイツ語が、ラテン語の>res<を語源としていることに注目してみれば、事物と実在性のつながりを把握しやすいかと思います。すべてのものはその「事物性」において同等なものであると理解するのが、近代哲学の基本的なスタンスとなったのです。

 ハイデガーはこの伝統的な考え方を解体するために、3つの手続きを提案します。

Deshalb muß nicht nur die Analytik des Daseins, sondern die Ausarbeitung der Frage nach dem Sinn von Sein überhaupt aus der einseitigen Orientierung am Sein im Sinne von Realität herausgedreht werden. Es bedarf des Nachweises: Realität ist nicht allein eine Seinsart unter andern, sondern steht ontologisch in einem bestimmten Fundierungszusammenhang mit Dasein, Welt und Zuhandenheit. Dieser Nachweis erfordert eine grundsätzliche Erörterung des Realitätsproblems, seiner Bedingungen und Grenzen. (p.201)
そのために現存在の分析論だけでなく、存在一般の意味への問いを詳細に分析する営みにおいても、存在の意味を実在性だけから考えるという一面的な方向づけをやめなければならない。そのためにも、実在性は多くの存在様式の”うちの1つ”であることを証明する必要があるだけでなく、存在論的には現存在、世界、手元存在性とともに、特定の基礎づけ連関のうちにあることを証明する必要がある。この証明を行うためには、”実在性の問題”を、すなわちその条件と限界について、原理的に解明する必要がある。

 第1に、「実在性は多くの存在様式の”うちの1つ”であることを証明する」ことが試みられます。実在性は、あるものを抽象的な事物として、眼前存在者としてみなす場合の存在様式なのであり、唯一の存在様式ではないことを示す必要があります。第2に、これを証明するために、実在性が「存在論的には現存在、世界、手元存在性とともに、特定の基礎づけ連関のうちにあることを証明する」ことが必要になります。第3に、そのためにもまず、「”実在性の問題”を、すなわちその条件と限界について、原理的に解明する」ことが求められます。

 これらの手続きを遂行するために、ハイデガーは次のように問いを提示します。

Unter dem Titel >Realitätsproblem< vermengen sich verschiedene Fragen: 1. ob das vermeintlich >bewußtseinstranszendente< Seiende überhaupt sei; 2. ob diese Realität der >Außenwelt< zureichend bewiesen werden könne; 3. inwieweit dieses Seiende, wenn es real ist, in seinem An-sich-sein zu erkennen sei; 4. was der Sinn dieses Seienden, Realität, überhaupt bedeute. Die folgende Erörterung des Realitätsproblems behandelt mit Rücksicht auf die fundamentalontologische Frage ein Dreifaches: a) Realität als Problem des Seins und der Beweisbarkeit der >Außenwelt<, b) Realität als ontologisches Problem, c) Realität und Sorge. (p.201)
この「実在性の問題」には、さまざまな問いが混在している。第1に、いわゆる「意識を超越する」存在者と呼ばれるものがそもそも”存在する”のかどうか、第2にこの「外界」の実在性は十分に”証明する”ことができるのかどうか、第3にこの存在者が実在的なものだとしたら、それはどこまでそれ自体の存在において認識することができるのか、第4にこの存在者の意味である〈実在性〉とはそもそも何を指し示しているのかという問いが考えられる。実在性の問題をめぐる以下の解明では、基礎存在論的な問いを考慮にいれて、次の3つの問いを考察する。
 (a)「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性
 (b)存在論的な問題としての実在性
 (c)実存性と気遣い

 第1の「いわゆる〈意識を超越する〉存在者と呼ばれるものがそもそも”存在する”のかどうか」という問いと、第2の「この〈外界〉の実在性は十分に”証明する”ことができるのかどうか」という問いは、世界が「わたし」とは独立に存在するのかという外界の実在性の問いであり、これは「〈外界〉の存在と証明可能性の問題としての実在性」として(a)項で考察されることになります。
 第3の「この存在者が実在的なものだとしたら、それはどこまでそれ自体の存在において認識することができるのか」という問いは、この外界の存在が、人間によってどのように認識されるかという問いであり、これは「存在論的な問題としての実在性」として(b)項で考察されます。
 第4の「この存在者の意味である〈実在性〉とはそもそも何を指し示しているのかという問い」は、このように人間から独立した外界が存在するのだとすると、その外界のもつ実在性という概念は何を意味しているのかという問いであり、これは「実在性と気遣い」の関係として(c)項で検討されます。

  (a)「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性

 この3つの問題系のうちでもっとも基本的な問いは、実在性とはそもそも何を指し示しているのかという存在論的な問いです。しかし世界の実在性について考察するためには、まずそうした外界の認識を行う人間の存在についての存在論的な考察が必要とされます。しかし、このような存在論的な考察はまだ十分には行われていないために、その前段階として、そもそも外界が存在するのか、外界の存在はどのようにして証明できるのかという(a)項の問題を解決する必要があります。
 この問いは必然的に、外界としての世界は、人間の意識から独立して存在することができるのかという問いと、人間の意識は、自分とは独立して存在する超越的な外界をどのようにして認識することができるのかという問いを呼び起こします。そこでこの「独立」と「超越」について、何からの独立性なのか、何を超越するのかという2つの問いを解決することが求められます。さらに、人間から独立した外界の性格と、それを認識する人間の認識の可能性の問いを結びつけるものとして、その認識作用というものの機能についての考察が必要とされるでしょう。

Diese einer möglichen ontologischen Frage nach der Realität vorausliegenden Untersuchungen sind in der vorstehenden existenzialen Analytik durchgeführt. Erkennen ist danach ein fundierter Modus des Zugangs zum Realen. Dieses ist wesenhaft nur als innerweltliches Seiendes zugänglich. Aller Zugang zu solchem Seienden ist ontologisch fundiert in der Grundverfassung des Daseins, dem In-der-Welt-sein. Dieses hat die ursprünglichere Seinsverfassung der Sorge (Sich vorweg - schon sein in einer Welt - als Sein bei innerweltlichem Seienden). (p.202)
これらの問いは、実在性についてのいかなる存在論的な問いにも”先立つ”ものであるが、すでにこれまでの実存論的な分析において解明されてきたものである。それによると認識作用は、実在的なものに接近するための”基礎づけられた”様態である。実在的なものにはその本質からして、世界内部的な存在者としてしか、接近することができない。こうした存在者に接近するためのすべての通路は、現存在の根本機構である世界内存在のうちで、存在論的に基礎づけられている。この世界内存在のいっそう根源的な存在機構は気遣いであり、これは〈世界内部的な存在者のもとにある存在としてー世界のうちにすでにーみずからに先立って存在すること〉である。

 ハイデガーの存在論では、人間を取り囲む多くの事物は、手元的な存在者として、世界のうちに適材適所性をそなえたものとして存在します。そして人間は現存在として、こうした世界のうちで気遣いを働かせることで、世界の事物を認識するだけではなく、それを使用し、享受します。このときに現存在が世界の事物を認識する可能性は、暗黙的に2つに分岐することになります。現存在は世界の事物を手元的な存在者として使うことによって認識しますが、このとき事物は道具として、人間に役立つものとして存在しています。しかしそれだけではなく、現存在はこうした事物を眼前的な存在者として、抽象的で客観的な存在者として認識することもできます。その意味では、世界のほとんどの事物には、この手元存在性と眼前存在性という2つの存在性格が兼ねそなわっていることになります。
 いずれにしても、現存在はこうした事物にたいして、「世界内部的な存在者としてしか、接近することができない」のであり、この接近通路は、「現存在の根本機構である世界内存在のうちで、存在論的に基礎づけられている」のです。そして「この世界内存在のいっそう根源的な存在機構は気遣いであり、これは〈世界内部的な存在者のもとにある存在としてー世界のうちにすでにーみずからに先立って存在すること〉である」のです。

Die Frage, ob überhaupt eine Welt sei und ob deren Sein bewiesen werden könne, ist als Frage, die das Dasein als In-der-Welt-sein stellt - und wer anders sollte sie stellen? - ohne Sinn. Überdies bleibt sie mit einer Doppeldeutigkeit behaftet. Welt als das Worin des In-Seins und >Welt< als innerweltliches Seiendes, das Wobei des besorgenden Aufgehens, sind zusammengeworfen, bzw. gar nicht erst unterschieden. (p.202)
世界内存在である”現存在”が、そもそも世界が存在するのかどうかとか、世界の存在は証明できるのかというような問いを問いとして立てるのは(しかし他の誰がこうした問いを立てるだろうか)、意味のないことである。さらにこの問いには、2重の曖昧さがそなわっている。内存在が〈そのうちに〉滞在する〈世界〉と、世界内部的な存在者としての「世界」が、すなわち現存在が配慮的な気遣いをしながら没頭している〈そこにおいて〉が混同されており、あるいはまったく区別されていないのである。

 伝統的な哲学においては、「そもそも世界が存在するのかどうかとか、世界の存在は証明できるのかというような問い」が問われてきました。しかしこの問いにおいては、〈世界〉と「世界」が混同され、区別されていなかったと、ハイデガーは指摘します(この2つの世界の区別については、Part.13参照)。
 〈世界〉は「内存在が〈そのうちに〉滞在する〈世界〉」と言われているように、現存在が実存する世界のことを指しています。この「そのうちに」は、原文では>Worin<という語が使用されており、これは>Sich vorweg - schon sein in einer Welt - als Sein bei innerweltlichem Seienden<(〈世界内部的な存在者のもとにある存在としてー世界のうちにすでにーみずからに先立って存在すること〉)の>schon sein in einer Welt<にあたり、現存在がそのうちで実存する「事実性」としての世界を表しています。
 これに対して「世界」は、「現存在が配慮的な気遣いをしながら没頭している〈そこにおいて〉」のことであり、世界内部的な存在者としての「世界」です。この「そこにおいて」は、原文では>Wobei<ですが、これは>als Sein bei innerweltlichem Seienden<に対応しており、「頽落存在」として現存在が没頭する世界を表しています。この「世界」は世界内部的な存在者の手元存在性に注目するか、眼前存在性に注目するかで、2つの種類に分岐します。
 このように存在論的な観点からみると、世界は現存在が実存する〈世界〉と、現存在が配慮的な気遣いを行使して手元的な存在者を道具として使用する「世界」、または手元的な存在者が抽象された眼前的な存在者の「世界」という3種類のありかたで存在していると考えることができます。これらの世界を区別せずに実在性の問題と外界の問題を提起するなら、解決しようのない混乱した状態に陥るのは必然でしょう。

 こうした問いの錯綜した状態として、ハイデガーが取り上げるのがカントの証明です。まずはハイデガーとともに、それをたどってみましょう。

Der Beweis für das >Dasein der Dinge außer mir< stützt sich darauf, daß zum Wesen der Zeit gleichursprünglich Wechsel und Beharrlichkeit gehören. Mein Vorhandensein, das heißt das im inneren Sinn gegebene Vorhandensein einer Mannigfaltigkeit von Vorstellungen, ist vorhandener Wechsel. Zeitbestimmtheit aber setzt etwas beharrlich Vorhandenes voraus. Dieses aber kann nicht >in uns< sein, >weil eben mein Dasein in der Zeit durch dieses Beharrliche allererst bestimmt werden kann<. Mit dem empirisch gesetzten vorhandenen Wechsel >in mir< ist daher notwendig empirisch mitgesetzt ein vorhandenes Beharrliches >außer mir<. Dieses Beharrliche ist die Bedingung der Möglichkeit des Vorhandenseins von Wechsel >in mir<. Die Erfahrung des In-der-Zeit-seins von Vorstellungen setzt gleichursprünglich Wechselndes >in mir< und Beharrliches >außer mir<. (p.203)
カントの「わたしの外部にある事物の現存在」の証明は、時間の本質には、交替と持続が等根源的に含まれていることに依拠するものである。わたしの眼の前に存在するものは、すなわちわたしの内的な感覚能力に与えられた表象の多様性の眼前的な存在は、わたしの眼の前で交替する。ところが時間の規定性は、なにか持続する眼前的な存在を前提としている。ところがこれは「わたしたちの内部」には存在しえない。なぜなら「時間のうちでのわたしの現実存在のほうがむしろ、この〈持続するもの〉によって規定されうるからである」。したがって経験的に定立された「わたしのうちに」眼前的に交替するものとともに、「わたしの外部にある」眼前的に持続するものが、経験的にともに定立されているのは必然的なことである。この持続的なものが存在することが、「わたしのうちに」交替するものが眼前的に存在することを可能にする条件なのである。わたしはさまざまな表象が時間のうちに存在することを経験するが、この経験が「わたしのうちに」交替するものと、「わたしの外部にある」持続するものとを、等根源的に定立するのである。

 カントは、外界の世界の存在を疑問としている哲学の議論を観念論と名づけ、デカルトの議論を引き合いに出します。デカルトは外的な経験については懐疑的でしたが、内的な経験(「わたしは存在する」というコギトの意識)は疑うことができないものだと考えました。そこでカントは、外界の事物の不確定性を主張する観念論を否定するために、こうした内的な経験すら、外的な経験を前提としなければ不可能であることを示そうとしたのです。
 そのためにカントが示したのが、「わたしの外部の空間の中に対象が存在することを証明するのは、私自身が現存在するという、たんなる経験的に規定された意識である」という定理です(中山元訳、光文社古典新訳文庫、カント『純粋理性批判』第3分冊、191ページ)。
 この定理の証明は簡単に次のようなものです。まずカントは、デカルトが疑うことのできない経験と考えた内的な経験は、主観が自己を触発して生まれる印象であり、主観の存在を証明するものであると考えました。しかしカントの観点からは、「経験」とは人間が内的な自己触発によってではなく、外部の対象からの触発によって、対象の知覚を獲得することで生まれるものでなければならないのであり、デカルトの内的な経験は、カントにとっては経験ではありません。
 人間が内的な「経験」というものを獲得するためには、外的な対象から触発されて、人間の外部にある存在についての内的な直観を必要とし、この内的な直観は、時間と空間という形式によって形成されているとカントは考えました。だから経験が成立するためには、まず何よりも時間に基づいて主観が規定される必要がありますが、こうした時間の経験は、主観の自己触発だけでは成立せず、意識のうちで持続するものの経験によって初めて可能になることを指摘します。時間におけるすべての規定は、知覚のうちに何か持続するものが存在することを前提としていると考えるからです。たとえば、太陽が地上の対象にたいしてどのように運動するかによって、わたしたちは時計でみられる時間の変化を確認することができます。このような空間に存在する持続的なものとの外的な関係の変動のようなものによらなければ、時間の経験は認識できないとカントは考えるのです。
 このように、時間の経験は、持続するものの経験によって初めて可能であり、これは外部の空間のうちに存在する事物の認識によって可能となるものであるとされます。したがって結論として、人間が自己の内的な経験と考えるものですら、外部の空間に存在する事物の認識によって生まれた時間の経験によって可能となるものであることから、内的な経験は外的な経験に依存していることが示されます。このようにしてカントは、「わたしの外部の空間の中に対象が存在することを証明するのは、私自身が現存在するという、たんなる経験的に規定された意識である」という定理を提出したのでした。

 これを踏まえて、ハイデガーのカント批判をみていきましょう。ハイデガーは、カントがデカルトのもっていた欠陥を克服しているようにみえるものの、実際にはデカルトと同じ立場から外界の問題を考察しているのであり、デカルトを真の意味で克服していないことを指摘します。すでに検討したように、デカルトの哲学は重要な問題を引き起こしましたが、それは「思惟する実体」と「延長する実体」がどちらも「物(>res<)」として同等なものとして考えられていること、そして実体としては同等なこの2つのものが、精神と物体というまったく異質なものとして措定されているために、たがいに連絡する通路を基本的にもちえなくなっていたことにあります。そこから、精神が外界を認識できるのかという自我の超越と世界の認識の問題系と、存在するのは精神だけ、しかもわたしが存在を確証できるのはわたしの精神だけであるという独我論の問題系が発生したのでした。

 まずハイデガーは、カントは「時間の本質には、交替と持続が等根源的に含まれている」と想定したことを指摘します。カントは、人間が時間というものを認識することができるためには、時間の中で変化せずに持続するものとしての実体が必要であると考えていました。伝統的な哲学の理論では、時間は過ぎゆくものであり、変化を可能にするものだとされてきました。この時間についての考え方は、古代ギリシアの伝統を受け継ぐものであり、アリストテレスが時間を運動の数だと語ったように、時間はたんに運動を数えるものとして、変化の中でしか考えられていませんでした。また、近代の物理学において、時間は運動の変化を測定するための絶対的な基準として、固定されたものでなければならないと考えられていました。ニュートンは、そのような絶対的な基準である均質な時間として、絶対時間というものを考えました。これは神の時間であり、すべての運動は世界を超越した外的で絶対的な神の時間において測定されると考えたのです。
 しかしカントは、時間はこのように外的で超越的なものではないと主張し、時間とは人間の感性の内的な形式にすぎないと考えました。時間は外部に存在する絶対的なものではなく、人間が現象を知覚し経験するための直観の形式として、人間の内部に存在するものだとみなしたのです。しかしこのように考えると、世界においてさまざまな人々が共通に測定できる時間というものが存在することが理解できなくなります。すべての人間に内的に存在する時間が、どれも同じときを刻むと考えるのは、人間の感性的な差異を考えれば、無理なことだからです。このように想定するだけでは、人間の感性的な形式である時間は、ごく恣意的なものとなり、客観的な時間となることはできません。
 そこでカントは、時間が内的な形式であると考えながらも、ある共通性と客観性をもつ必要があると考えました。個々の人間の時間は、内的なときの流れによってではなく、外的な経験によって規定されている必要があると考えたのです。そのために、時間は流れるとしても、その変化の中で変化しない事物、すなわち実体によって、時間が規定されると考えたのです。実体とは、時間の流れの中で持続するもののことです。このように、カントの時間は事物が交替しつづける外的な変化の中で流れているものではありますが、変化せずに持続する実体によって、その客観性を保障されるものと考えられているのです。それが、「時間の本質には、交替と持続が等根源的に含まれている」ということです。

 カントのこのような外部の実体の存在から時間を演繹する方法は、デカルトの精神と事物の孤立したありかたや、ニュートンの絶対時間の想定につきものの欠陥からは免れています。しかしハイデガーは、カントの証明にも欠陥があったことを指摘します。

Zunächst scheint es, als habe Kant den cartesischen Ansatz eines isoliert vorfindlichen Subjekts aufgegeben. Aber das ist nur Schein. Daß Kant überhaupt einen Beweis für das >Dasein der Dinge außer mir< fordert, zeigt schon, daß er den Fußpunkt der Problematik im Subjekt, bei dem >in mir<, nimmt. (p.204)
一見するとカントは、孤立して目の前にみいだされる眼前的な主観を考察の端緒に置くというデカルトの方法を放棄したようにみえる。しかしそれは見掛けだけのことである。カントがそもそも「わたしの外部にある事物の現存在」の証明が必要であると考えていることそのものがすでに、カントの問題構成の立脚点が主観のうちにあること、すなわち「わたしのうちに」あることを明らかにしているのである。

 カントは、時間を人間の感性的な形式として考え、対象に認識に基づいてそれを外部の世界に投企することで、現象の世界を構築し、それがすべての人間に共通の世界となることを想定したにもかかわらず、その主体である人間については、十分に存在論的に考察することをしませんでした。カントは、人間は感性的な形式を世界に投企するという能動的な主体であることを指摘しただけであり、その主体が世界においてどのような存在様態をそなえているか、そしてその存在様態が、人間以外のその他の事物の存在様態とどのように異なるのかということを、存在論的に考察することは怠りました。
 そのことは、カントが事物についてつかっている>Dasein<という語を、事物だけではなく、人間にも同じように適用していたことに象徴的に示されています。

Zunächst ist ausdrücklich zu bemerken, daß Kant den Terminus >Dasein< zur Bezeichnung der Seinsart gebraucht, die in der vorliegenden Untersuchung >Vorhandenheit< genannt wird. >Bewußtsein meines Dasein< besagt für Kant: Bewußtsein meines Vorhandenseins im Sinne von Descartes. Der Terminus >Dasein< meint sowohl das Vorhandensein des Bewußtseins wie das Vorhandensein der Dinge. (p.203)
まずここで明確に指摘しておく必要があるのは、カントは「現存在」という用語を、わたしたちの探究では「眼前的な存在」と名づけられている存在様式を示すために使っているということである。だから「わたしが現存在するという意識」とはカントにとっては、デカルトの言う意味で、わたしが眼前的に存在していることの意識ということである。カントにあっては「現存在」という用語は、事物が眼前的に存在するように、意識もまた眼前的に存在していることを示すものである。

 そしてカントは、交替と持続に基づいて時間を規定し、それを人間の内的な経験にも適用することで、人間の時間が外的な事物によって規定されていることを証明しようとしました。しかしこのことは、人間の内的な時間が、外的な事物の時間と同じものであることを想定することです。つまりカントが証明したのは、交替する存在者と持続する存在者が、ともに眼前的に存在するということにすぎず、これは主観と客観がともに眼前的に存在していることを証明することにほかなりません。カントは外部の時間から人間の内部の時間を規定することで、人間の外部の事物が存在論的に同じ存在様態にあること、すなわちどちらも眼前的な存在であることを想定し、それと同時にそのように結論したのです。

Den Unterschied und Zusammenhang des >in mir< und >außer mir< setzt Kant - faktisch mit Recht, im Sinne seiner Beweistendenz aber zu Unrecht - voraus. Dergleichen ist nicht erwiesen, daß, was über das Zusammenvorhandensein von Wechselndem und Beharrlichem am Leitfaden der Zeit ausgemacht wird, auch für den Zusammenhang des >in mir< und >außer mir< zutrifft. Wäre aber das im Beweis vorausgesetzte Ganze des Unterschieds und Zusammenhangs des >Innen< und >Außen< gesehen, wäre ontologisch begriffen, was mit dieser Voraussetzung vorausgesetzt ist, dann fiele die Möglichkeit in sich zusammen, den Beweis für das >Dasein der Dinge außer mir< für noch ausstehend und notwendig zu halten. (p.204)
カントは「わたしのうち」と「わたしの外部」の差異”と連関”を前提としているのであり、これは事実的には正当なことであるが、カントの証明の流れからすると、不適切なことなのである。同じように、カントはたしかに時間を導きの糸として、交替するものと持続するものがともに眼前的に存在することは確認したが、これが「わたしのうち」と「わたしの外部」の連関にも妥当するものであることは、まだ証明されていないのである。カントの証明においては、「うち」”と”「そと」の差異と連関の全体を前提としているが、これが注目され、さらにこの前提がさらに前提している事柄が存在論的に把握されるとするならば、「わたしの外部にある事物の現存在」の証明が欠如しており、これを証明する必要があると考える可能性そのものが崩壊することになるだろう。

 カントは、現存在と事物が存在論的に同等なものであることを想定し、結論したために、「時間を導きの糸として、交替するものと持続するものがともに眼前的に存在することは確認したが、これが〈わたしのうち〉と〈わたしの外部〉の連関にも妥当するものであることは、まだ証明されていない」ことに気づきませんでした。もし、カントが人間と事物の存在論的な差異を認識することができたなら、人間の外部の事物の時間を、人間の内部の時間にそのまま適用することはできないことを認識したはずでしょう。
 カントの考察に欠如していたのは、世界はどのような存在様態で存在し、人間はどのような存在様態で存在するかという存在論的な考察であり、カントには、現存在が世界内存在するという根本機構が隠されたままだったのです。これが十分に行われたなら、「〈わたしの外部にある事物の現存在〉の証明が欠如しており、これを証明する必要があると考える可能性そのものが崩壊することになる」でしょう。

 カントだけにとどまらず、外界の実在性を証明しようとする試みの本質的な欠陥は、それはある主体にとって外界がもつ意味を、すでに先取りしていることにあります。その主体がどのような存在者であるのか、その主体にとって外界がどのような意味をもつのかということが、この証明の課題が設定される以前から暗黙のうちに想定されているのであり、その暗黙の想定によって、この課題そのものが無意味なものになっているのです。

Das Dasein kommt mit dergleichen Voraussetzungen immer schon >zu spät<, weil es, sofern es als Seiendes diese Voraussetzung vollzieht - und anders ist sie nicht möglich -, als Seiendes je schon in einer Welt ist. >Früher< als jede daseinsmäßige Voraussetzung und Verhaltung ist das >Apriori< der Seinsverfassung in der Seinsart der Sorge. (p.206)
そのような前提で現存在を捉えるのでは、つねに「遅すぎる」のである。このような前提を採用するのが、現存在という存在者であるかぎり、そしてほかのやりかたではこのような前提を採用できないのであるかぎり、現存在は”存在者として”つねにすでにある世界のうちに存在するからである。気遣いという存在様式において、存在の機構の「アプリオリなもの」として働いているものは、つねに現存在にかかわる前提や態度よりも「先にある」ものなのである。

 実在性の証明の課題では、カントが「わたしのうちに」経験的に与えられた交替から出発して証明を始めたように、孤立した主観が証明の端緒として構成されていますが、主体が孤立した主観として定立された場合には、すでにあらかじめこの主観も、それと対峙する客観も、どちらも眼前存在者として措定されているのであり、その主体の存在論的な意味を問うことができなくなっています。このような問いは、先取りした暗黙の想定にとっては「遅すぎる」のです。しかし人間は世界において、こうした孤立した主観として存在することはなく、すでに「気遣いという存在様式において、存在の機構の〈アプリオリなもの〉として働いているもの」があるのに、それを考察することが最初から放棄されているのです。

 このようにしてみると、外界の存在が証明できるかどうかという実在性の問題は、解決不可能な問題になっています。それはこの問題において主題とされている現存在という存在者そのものが、このような問題の設定をいわば拒否するからです。むしろ、ここで問べきなのは、外界が存在するがどうかではなく、世界内存在である現存在が、外界を認識論に基づいて存在しないものと想定しておいて、その後で改めてその存在を証明しようとする傾向をそなえているのはなぜかということです。

Der Grund dafür liegt im Verfallen des Daseins und der darin motivierten Verlegung des primären Seinsverständnisses auf das Sein als Vorhandenheit. Wenn die Fragestellung in dieser ontologischen Orientierung >kritisch< ist, dann findet sie als zunächst und einzig gewiß Vorhandenes ein bloßes >Inneres<. Nach der Zertrümmerung des ursprünglichen Phänomens des In-der-Welt-seins wird auf dem Grunde des verbleibenden Restes, des isolierten Subjekts, die Zusammenfügung mit einer >Welt< durchgeführt. (p.206)
このような傾向が生まれるのは、現存在が頽落しているためであり、そしてそれが動機となって、第1義的な存在了解が、眼前性としての存在のうちに移されるからである。そしてこうした存在論的な方向づけのもとで問題構成が「批判的に」行われる場合には、たんなる「内的なもの」だけが、さしあたりただ1つだけ確実に眼前的に存在するものとしてみいだされることになる。世界内存在という根源的な現象が粉砕されたあとで、あとに残された残滓である孤立した主観に基づいて、「世界」というものとの接合が企てられるのである。

 ハイデガーは、「現存在が頽落している」ことを、こうした傾向の理由として提示します。この頽落は、これまで検討されてきたような世間話、好奇心、曖昧さといった日常生活における存在論的な頽落とは性質が異なるものであり、いわば認識論的な頽落です。この頽落は3つのステップのうちで実現されます。
 第1のステップは、認識論的に「第1義的な存在了解が、眼前性としての存在のうちに移される」ようになることです。存在論的にみるなら、世界のうちで人間は現存在として存在し、その他の事物は基本的に手元存在者として存在します。しかしデカルト以来の近代哲学は、すべての事物を「延長する事物」として、「思考する事物」である精神と対立するものとみなしてきました。これらのすべては眼前存在者としてみなされるようになったのです。
 第2のステップは、デカルトのコギト・スムのように、「思考する事物」である人間の精神に優先的な地位が認められたことです。これは外的な世界と対立した精神の「内面」が優先されるということであり、「たんなる〈内的なもの〉だけが、さしあたりただ1つだけ確実に眼前的に存在するものとしてみいだされる」ようになるプロセスです。
 第3のステップは、このようにして「内的なもの」として確保された精神という足場に立つことで、世界のうちに生きる現存在が、世界内存在という存在様態のもとにあることが完全に見失われ、無視されることです。内面としての主観は孤立した主観であり、これがそもそも世界でどのように生きているのかという問いは設定されず、「世界内存在という根源的な現象」は粉砕されます。そして後に残った「残滓である孤立した主観に基づいて、〈世界〉というものとの接合が企てられる」のであり、これが外界の実在性の証明が試みていることなのです。

 外界の実在性を証明しようとする試みは基本的に、外界が実在し、人間はその外界を認識するという実在論と、外界の事物そのものというものは存在せず、ただ人間がそれを認識する世界だけが存在するという観念論の対立に依拠するものです。ハイデガーは、現存在を世界内存在と考える基礎存在論の立場からすると、存在論は実在論に近いように思えることも、観念論に近いように思えることもあると指摘します。

Mit dem Dasein als In-der-Welt-sein ist innerweltliches Seiendes je schon erschlossen. Diese existenzial-ontologische Aussage scheint mit der These des Realismus übereinzukommen, daß die Außenwelt real vorhanden sei. Sofern in der existenzialen Aussage das Vorhandensein von innerweltlichem Seienden nicht geleugnet wird, stimmt sie im Resultat - gleichsam doxographisch - mit der These des Realismus überein. (p.207)
世界内存在としての現存在とともに、世界内部的な存在者も、そのつどすでに開示されている。これは実存論的かつ存在論的な言明であり、外界は実在的に存在していることを主張する”実在論”のテーゼと一致するかのようにみえる。実存論的な言明においては、世界内部的な存在者が眼前的に存在することが否認されないかぎり、そうした言明は結果的には、そしていわば学説誌的には、実在論のテーゼと一致するのである。

 また、観念論のテーゼでは、外界の事物も人間の存在もすべて人間のもつ観念に基づいて考察しようとするので、外界の事物の存在は実在的なものではなく、人間の存在だけが問題となります。その意味では観念論は、現存在と世界内部的な存在者のあいだの存在論的な差異を考察することができず、存在論的な考察は、実在論の側に立つようにみえます。

Sie unterscheidet sich aber grundsätzlich von jedem Realismus dadurch, daß dieser die Realität der >Welt< für beweisbedürftig, aber zugleich auch für beweisbar hält. Beides ist in der existenzialen Aussage gerade negiert. Was diese aber völlig vom Realismus trennt, ist dessen ontologisches Unverständnis. Versucht er doch Realität ontisch durch reale Wirkungszusammenhänge zwischen Realem zu erklären. (p.207)
しかし実存論的な言明は、いかなる実在論とも原理的に異なるものである。というのも実在論では、「世界」の実在性を証明の必要なものみなしていて、しかも証明が可能であると考えているからである。実在論的な言明では、この2つをどちらとも否定するのである。しかし実存論的な言明と実在論の決定的な違いは、実在論においては存在論的な理解がまったく欠如していることにある。実在論は実在性を、存在者的な見地から、実在的なものごとのあいだの実在的な作用連関によって説明しようとすら試みるのである。

 しかしハイデガーは、実在論の優位は「世界内部的な存在者が眼前的に存在すること」を認めている点と、存在論的な差異の考察の可能性が残されている点だけであると考えています。結局のところ、「実在論においては存在論的な理解がまったく欠如している」ために、存在論は「いかなる実在論とも原理的に異なるもの」なのです。実在論は人間も世界も同じように実在するものと考えるために、「実在性を、存在者的な見地から、実在的なものごとのあいだの実在的な作用連関によって説明しようとすら試みる」のです。
 これにたいして観念論は、人間の観念と外界の事物を存在論的に異なったものと考えるところでは、存在論的で実存論的な立場に近いようにみえます。実在論では外界の事物の存在そのものと、外界に存在する存在者が身分的に異なるものであることを認識しているのです。観念論では、片方は存在として人間が概念的に把握するものであり、実際の存在者とは次元が異なるものであることを認識しています。

Wenn der Idealismus betont, Sein und Realität sei nur >im Bewußtsein<, so kommt hier das Verständnis davon zum Ausdruck, daß Sein nicht durch Seiendes erklärt werden kann. Sofern nun aber ungeklärt bleibt, daß hier Seinsverständnis geschieht und was dieses Seinsverständnis selbst ontologisch besagt, wie es möglich ist, und daß es zur Seinsverfassung des Daseins gehört, baut er die Interpretation der Realität ins Leere. (p.207)
観念論は、存在や実在性は「意識のうちに」のみ存在すると強調するが、これは存在は存在者によっては説明できないことを、観念論が理解していることを示している。ところが観念論では、このような存在了解が行われている”ということ”が解明されておらず、またこの存在了解そのものは存在論的に”何を”意味しているのか、どのようにしてこの存在了解が可能になったのかが解明されず、この存在了解が現存在の存在に属するものであることも解明されていないために、観念論は実在性の解釈を空中楼閣として構築せざるをえないのである。

 観念論では「存在は存在者によっては説明できないこと」を了解しているのであり、実在性は存在了解のうちでしか可能ではないことを明確にしたという意味で、ハイデガーの存在論に近いです。しかし、観念論では、この存在了解がどのような意味をもつかということが理解されていないのであり、「この存在了解そのものは存在論的に”何を”意味しているのか、どのようにしてこの存在了解が可能になったのかが解明され」えないのです。そのことは同時に、この存在了解が現存在に属するものであることが、すなわちこの存在了解のありかが現存在として認識されていないことを示しています。実在性が存在了解によって可能になる以上、観念論には、現存在についての存在論的な考察が、回避することのできない課題として素描されていたのですが、この存在者は「思考するもの」として前提されていたためにこの課題を進めることはありませんでした。

Besagt der Titel Idealismus soviel wie Verständnis dessen, daß Sein nie durch Seiendes erklärbar, sondern für jedes Seiende je schon das >Transzendentale< ist, dann liegt im Idealismus die einzige und rechte Möglichkeit philosophischer Problematik. Dann war Aristoteles nicht weniger Idealist als Kant. Bedeutet Idealismus die Rückführung alles Seienden auf ein Subjekt oder Bewußtsein, die sich nur dadurch auszeichnen, daß sie in ihrem Sein unbestimmt bleiben und höchstens negativ als >undinglich< charakterisiert werden, dann ist dieser Idealismus methodisch nicht weniger naiv als der grobschlächtigste Realismus. (p.208)
観念論という名称が、存在は決して存在者によっては説明できず、それぞれの存在者にとってそのつどすでに「超越論的なもの」であることが理解されていることを示すものであれば、観念論のうちにこそ、哲学的な問題構成の真正で唯一の可能性がひそんでいると言えるだろう。その意味ならば、アリストテレスはカントに劣らず観念論者だったのである。これに反して観念論という名称が、あらゆる存在者を〈主観〉とか〈意識〉のようなものに還元することを意味するのであれば、この意味での観念論は、方法論的にはきわめて雑駁な実在論に劣らず、素朴なものである。その場合には主観や意識は、その存在において”無規定な”ままであり、せいぜい消極的に「物的でないもの」と性格づけられて提示されるにすぎないからである。

 もしも観念論が、存在と存在者の差異を明確に認識でき、存在が「それぞれの存在者にとってそのつどすでに〈超越論的なもの〉であること」が了解されていたなら、それはすでに存在論となっていたでしょうし、そのときには、「観念論のうちにこそ、哲学的な問題構成の真正で唯一の可能性がひそんでいると言える」でしょう。しかし観念論は存在論ではありえず、方法的には実在論と同じように素朴なものであり、「主観や意識は、その存在において”無規定な”ままであり、せいぜい消極的に〈物的でないもの〉と性格づけられて提示されるにすぎない」のであり、人間の存在論的な考察はまったく放置されたままであるしかなかったのです。その意味では実在論と観念論の対決は、どちらも方法的に素朴なものであり、存在論的な方向に進むことはできなかったのです。

 これまで実在性の問題をたんに認識論的に解決しようとするさまざまな試みにおける暗黙の前提について検討されてきましたが、これによって明らかになったことは、実在性の問題は、現存在の実存論的な分析論の枠組みで、存在論的な問題として改めて考察する必要があるということです。


 長くなってしまいましたが、今回はここまでになります。カントの時間論については少々わかりにくいかもしれません。疑問点等ございましたら、どうぞお気軽にコメントしていただければと思います。
 それでは、また次回もよろしくお願いします。

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