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【読書ノート#3】「いきの構造」

わかってるようで真面目には考えたことはない「いき」。江戸っ子の「粋だねぇ」の「いき」ですね。その「いき」の理解に真面目に取り組んだのが本書です。著者は京大教授の九鬼周造。元となる論文が書かれたは1926年。本書の論旨は少し込み入っておりすっとは理解できなかったです汗。たとえの話が多かったり、同じ主張をを何度も繰り返したりしていて、しかもその部分ががわかりづらかったりします。いったんそれぞれの主張の結論だけ拾うとわかりやすいかも。

本書の主張で自分なりに大事だと思った点をまとめると、
1. 「いき」とは日本人独自の「生き方」の現れである。
2. 「いき」とは何か?
3. 「いき」を理解するための方法

1と2が本書のハイライト(個人の感想です)。3の話が論旨の間に挟まってややこしくしていますが考察としては面白いです。以下では1~3について一つずつ自分なりの理解を書いていきます。最後に考察(という名の感想文)を入れました。長くなってしまいましたが、1と2を読めばだいたいOKかと。

1.「いき」とは日本人独自の「生き方」の現れである。

「序」にいきなりぶっこんできています。大きくでましたね。「いき」は、生、息、行、意気であり、日本人の生き方の現れだと。著者は「いき」に相当する単語はヨーロッパにはないことを論証し、これにより「いき」は日本独自に発展した価値観であるとしています。言語は民族の価値観(=世界の捉え方)が反映されるものですから、これは素直に納得できます。

また直接的には書かれていませんが、「いきな人」「いきなもの」そのものが大事というより、そこに美しさを見出す価値観を育むところに民族性が立ち現れている、というのが著者の主張だと思います。「いき」を感じるには、感受性が必要で、その感受性をもつことが日本人独自といえるのでしょう。感受性は世界の理解の仕方と強くリンクしているので。

「いき」が日本独自の価値観であることはわかりました。しかしそれが「生き方」の現れ、にまでなるのでしょうか?次の章では「いき」の中身について取り上げ、著者の主張の根拠を探ります。

2.「いき」とは何か?

スバリ書いてあります。

運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。
(「いき」とは)垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)

キーワードは、媚態、意気地、諦めですね。著者は、民族性が現れているのは意気地と諦めで、これらによって媚態が「いき」という価値観に昇華されると言います。以下、キーワードを一つずつ見ていきます。

媚態とは異性との関係ですね。いわゆる色恋。しかし我々の思う"らぶらぶ”な関係ではないのです。お互いに惹かれ合いながらも、決して同一化することはない。

異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。

しびれますね。つまり、媚態において大事になるのは、お互いに惹かれつつも安定した関係にとどまらない緊張性なのです。

意気地は、江戸文化の道徳的理想(〜武士道)が反映されたものと言います。これも日本特有。「武士は食わねど高楊枝」な価値観ですね。安きには流れんぞという反抗心。これが媚態に適用されるとき、惹かれ合い同一化しようとする向きに反抗するベクトルになります。

諦めはもともと仏教の明らむ(あきらむ)=「明らかにする」から来ています。モノゴトを明らかにし、今までの執着を手放す。無常の価値観を持つ日本特有の考え方とも言えます。これが媚態に適用されると、異性と惹かれながらも一緒になれないという諦めになります。もし一緒になってしまったら、緊張性はなくなり媚態もなくなり「いき」じゃないのです。

まとめると、媚態とは異性と惹かれながらも決して同一化していない状態。これがベースです。この緊張性のある状態に対して、意気地によって"惹かれ合う気持ち"に反発することで緊張性(張り)を維持させ、諦めによって決して一緒になれないという運命を受け容れ(= 添い遂げたいという執着を捨て)、この仮初めの緊張性を肯定する。否定による肯定です。

なんかこう書くと物悲しさを感じますね。もののあはれにも似た、日本人特有の無常観が現れているの感じると思います。実際、著者は「いき」の価値観は苦界に生きる女性に色濃く現れると考えました。苦界に肯定の価値観を見出したことこそ、個人的には本書のハイライトだと思います。西洋にはあまりこの考えはない気がします。ぱっと思いつくのはマグダラのマリアですが、彼女は過去の行いを懺悔して聖人となっているので全く意味が違います。「いき」とは苦界に身をおいた女性の生き方をまるっと肯定する価値観なので。

3.「いき」の理解方法

著者は「いき」についての説明に多くの紙面を割いていますが、客観的表現だけで説明しても意味がないと言います。たとえば「いきとはダンディズムに近いが、さらに〇〇という要素が…」のように表面に現れる現象を言語化して客観性を持たせようとすることに意味はないと。

「いき」に価値観を感じるという根本の意識現象にまで下らなければ理解できない。ラベリングされた現象や感情を組み合わせることでは理解できない。「いきだねぇ」と感じる感受性こそが本質であり、そこを出発点として理解しなければならない。感受性とは世界の見方であり、だからこそ「いき」は日本人の民族性の現れとして解釈できる。

4.「いき」の考察
ここから感想文。「いき」は「日本人の生き方」の現れだと言ったあと、その根本が媚態であるという主張に驚きました。しかも苦界の女性にこそ色濃く見えると言います。これは面白い考え方ですね。しかしよく考えると、日本には「(負でもではなく)負こそ美しい」という価値観があるように思われます。判官びいき、平家物語(敗者の物語)が人気なのも日本特有の考えでしょう。古いところだと、古事記で水子として生まれ親に捨てられた神が、恵比寿さまの起源とも言われています。敷衍して考えれば、侘び寂びも負(無い)こそ美しいという価値観とも言えます。

もう一つ感じたのは、日本特有の現れは意気地と諦めにあるのなら、基体となる「媚態」部分は他の関係性でも良いのではないか?ということ。媚態の本質は、同一化しない(非同一性)緊張関係です。緊張状態を意気地と諦めで高みに昇華するのが「いき」の本質であるとすれば、他の緊張状態にも適用可能なのではないか?

たとえば社会の常識に迎合して楽になりたいと思いつつ、でもしたくないという緊張関係もまた「いき」(生き方)といえないでしょうか。どんな生き方も最後には資本主義に負けるとわかっていても、どこか意地を通したい、そういう生き方はまた「いき」と言えるのでは?もしかするとそれは日本人的な生き方なのかもしれませんね。

個人的には西行芭蕉のような漂泊の旅に出る人たちも「いき」だと感じます(色気はないので、著者の考える「いき」とは少し違うでしょうが)。「安住したい」という気持ちをもちながら、旅の中に安息を見出しながらも決して「安息」に安住しない緊張関係。「ただ好きなことをやる」という単純な話ではない。やらずにはいられないという諦め、やるべきなのだという意気地が彼らの生き方を作っているように感じます。

どちらかに寄りかからず、緊張関係を保つこと。安易に同一化しないことに価値を見出すのが日本人かもしれない。これは以前のnoteでも書いた、日本が一つの価値観に染まらないこと、異なる宗教・文化・制度を並列に包容してきたことと関係があるのかもしれない。まさに著者の言う通り「いき」には日本人の生き方・考え方の本質が含まれていると言えそうです。戦前の全体主義、昨今のグローバル一辺倒の価値観は、こういった日本の価値観からは外れたものですね。より日本人らしい「いき」方を見つけ出したいものです。

他の版は見ていませんが、注釈が必要なわけでもないので無難に岩波文庫を買えば良いと思います。100ページ以下と短くびっくりです。古典あるあるですね。大意を掴むだけならすぐです。

NHK100分de名著の書籍化です。日本人をテーマに、美意識・感受性・心理・宗教観をキーワードにそれぞれに対応する本を紹介する形になっています。日本人の美意識として「いきの構造」が取り上げられています。著者の生い立ちと本の要点が説明されているのですが、いきなり読んでもピンとこないかもです。いったん原文にあたり、自分なりに疑問をもった状態で読むと良いと思います。


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