批判的な人にこそ魂の救済を

職場などで周りの振る舞いや仕事のやり方などにやたらとケチをつけたり批判的な人というのが一定数いる。
結論を先に言うと、彼らは実は自分に対して批判的なのだ。
あるいは自身が批判的に育てられたのだ。

仕事の細かいやり方がなっていないとぐちぐち言う人、誰それの機嫌を損ねないように忖度しろと他人にまでその振る舞いを強制してくる人、私生活や服装など直接は仕事と関係ないことにまでいちゃもんをつけてくる人などいろいろいるようだ。

控えめに言ってうざいし、そもそも自分と他人の区別がついていない幼稚さが問題だ。
医学部のグループ実習などで、やたらと教員の機嫌を気にして、品行方正を押し付けてくる人間がいたが、もし私が態度が悪いなら私が単位を落とすだけだし、連帯させて他のメンバーの単位も認めないならそれはその教員が間違っているのだ。自分と他人の問題の区別がついていないとはそういうことだ。
それに大物はくだらないことは気にしないことが多い。大物とは一生懸命その分野に取り組んできた人、仕事の内容そのものに個人として心を砕いて来た人であるはずだからだ。

私生活や服装にいちゃもんをつける人は、おしゃれであることや品位というものにプライドがあるらしいが、それもなぜ他人に押し付けなくては気がすまないのか。出版やコアな領域のアートなどに関わっている人の中の一部によく見受けられるようだ。メジャーであることへの屈折した想いなどを一人の大人としてコントロールできないらしい。
おしゃれな女性誌の編集長は少しばかりオトコ受けよさそうな格好の女の子の服装を、「安っぽい、センスない」だの言ってることがあるのだそうだ。
しかし、そんな自分に悩んでいるという人も外来に来たりするから私としては複雑な心境だ。
「ポピュリスト政治家」などを口汚く罵る人たちにもそのような鬱屈感は共通しているだろう。「自分の方が繊細な事柄を理解している。ポピュリストもそれに釣られる大衆もバカ」らしい。大変包括的な批判だ…そしてその人自身の何かが駄々漏れている。

ここまでは「批判的な人」をこきおろしてしまったが、実際は彼らは自分自身への手厳しい批判者であるように思う。
「動き回ってないと自分を罪深く感じる。リラックスしたり人生そのものを楽しんでもいいのだろうか?」「メジャーであることやポピュラーな存在に自分はなってはいけない」こういった想いが自身の奥底を流れているのではないか。それは養育者から押し付けられたのかもしれないし、幼少期の経験からかもしれない。
自分が非力な存在であったときに打ち立てられた自己像。自分が力を持ったときに、その像を今度は自身よりも非力な存在に押し付けるように駆り立てられている。その力動は自身の意志なのか、はたまたその力動自体が意志として動いているのか。

この文章の一番最初に「職場など」という表現を用いたが、これにも意味がある。
職場というのは当然職務がある。そこには指揮命令系統、上司部下関係がある。他人どうしが一つの目的のために関わることや、業務に基づいた命令が正当化される。
「こんなつまんないやつと話したくない」「こういう陰湿そうなやつとは友達になりたくない」そんな態度を上司には取れない。人と人の生身の関係をそこに入れることはなく、業務にまとわりついた形で権力が作動するが、そのとき出すべきではない自我を上司の側が表出してしまう。少なくとも狭い意味での業務の範囲内では優秀とされる人でさえも、切り分けて考えることが必要なときに適切に対処できなくなるほどにその感情の駆動力は大きいのだ。

親子というのもそのような側面があるのかもしれない。権力関係とともに、親は子を社会的存在に育てなくてはならないというミッションがある。強固に社会的というのは神経症的とも言えるだろう。そこには「あなたも同じようにするもんでしょ、当然」という想いも内蔵しているのではないだろうか。そのような場面における批判とは自己批判のことなのだ。
そのような諸々の力動が親子関係においても駆動しているように思う。

なぜ快活に笑ってはいけないのか、なぜ自分をヒーローやスターと思って振る舞ってはいけないのか。

救済の神学の言葉には、逆説の表現が多く含まれる。それは人間存在の様々な位相を撃ち抜いているが、今回の文脈で言えば、それはつまり動物としての人間から社会的存在、それも迷える社会的存在としての人間へという順序を反転させ、いいかんじに動物的で、いいかんじに社会的にさせるということであるように思う。つまり人間としてあるべき調和に着地させてくれる。
「自分もへりくだるのだからおまえもへりくだれ」他人へ向けられたものなのか自己へ向けられたものなのかわからない、そのような迷いに囚われた人のためにこそ救済は存在するのではなかろうか。

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